こんなに爽快な、見事な展覧会を体験できるとは。
老いの一日、生きていてよかった、という言葉が決して大袈裟には思われない爽快さだった。
それは、五月三十日午後、六本木の国立新美術館で、フランス国立クリュニー中世美術館所蔵の、タピスリー(タピストリーとも言う)を中心にした「貴婦人と一角獣展』を観たことである。
この中世美術館は、かねてより、旅のガイドブック「地球の歩き方」の一冊、『パリ&近郊の町』の美術館案内に紹介されていた「貴婦人と一角獣」の記事によって、折あらば訪ねたく思っていた美術館である。そのタピスリーが揃いで来日するというのだ。期待は当然大きく膨れ上がったのだが、膨れ上がったその期待を遥かに超えた幸福な時間が、すっぽり私を包み込んでしまったのだ。一体どうして、こんな不思議が生じたのか。
国立新美術館の特別企画展は、エスカレーターで上がった二階の取っ付きの部屋で催されるのが定番で、今回もその入口の受付でチケットを切って貰って中に入り、通路を経て展示会場へと歩みを進めたのだが、突然、予想を遥かに超えた非日常的異空間が眼前に大きく明るく開口し、入口からここに着くまでの退屈な回路から見事解き放たれ、その爽快感が全身を羽のように軽くしてしまった、その驚きにそもそも発していた。
驚きは、回路の壁面に展示された作品を辿り見るという、展覧会場の常識を全く裏切った、予想外の広大なホール空間となって、豁然、私の眼前に出現展開したのによる。それはまるで、白い壁面で囲まれた、ドームのような広がりを持っていたが、驚きは、遠望の視野の果て、その半円状に広がる白い壁面に、本展のメインの展示作品、「貴婦人と一角獣」の大きなタピスリー、一点が縦は三メートルを遥かに超え、横は三メートル位から六メートルに及ぼうという六帳が掛けられ、その全貌が展示フロアの入口から見遥かされたことに発したのである。
その赤いタピスリーの一連が展示された壁面の前に、大きなフロアが広がり出来、そこには、三々五々佇み歩いている観客たちの姿がまるで小さく見え、この広場に、足音もなくバレーのダンサーたちが軽やかに舞い、それを包む「白鳥の湖」のような音楽が、私に聞こえてきそうにも思われる、そんな空間だったのである。
その空間を前にすると、本展の主役、六点の「貴婦人と一角獣」のタピスリーが、パリの、恐らくはそれこそ「中世美術館」の名に相応しい古典的な建物の、たとえ同じような半円状の展示室(注1)ではあっても、恐らくこれとは縁遠い旧い会場から、遠く旅立ち、異国TOKIOのこの明るく広大な空間に、長年封じ込められていた自らを解き放ったのだ、その快感に違和を覚えることなく収まりかえった喜びの息遣いを、まるで歌い奏でているように見える。
そして、何よりの驚きは、この主役のタピスリー達が、 私の中にあるタピスリーのイメージをガラッと覆すものだったことだ。
これまで私が見てきた、城や宮殿の内壁を飾っていたタピスリー達は、風景にしろ人事にしろ、その織りの図像表現は、近代的な陰影はないが写実的で、色彩も対象に応じた色合いで織られており、それだけ、空は青、草木は緑、建造物は暗灰色で背景が占められるのが通例で、そこに赤などの暖色があるとすれは、人物の衣装や、季節の花ぐらいで、全体として寒色系の勝る図柄が、織物作品の重量感を生み出しているというのが、印象の一般であった。ましてや、織り絵のモチーフが、神話や歴史的事件であるならば、人物・背景の写実性は決定的で、それが作品の貫禄をいや増すことになっていた。
ところが、今、私が見遥かす壁の六作品は、それとは全く反対の、どれもがイエローレッドの赤い地色の中に、小動物と草花を紋様風に鏤め織り込んだ図柄を背景にして、主役の貴婦人と一角獣の登場する作品が仕上げられており、その赤い地の背景が、織られた絵の世界から写実性を奪い、画面に明るい図案的装飾性を齎していたのである。その図楽的な赤い背景の大きいタピスリーを、白い壁面に並び掛けることによって、この会場の明るい堂々の軽やかさが見事演出されていたのである。
六つの作品は、どれも、画面下部中央に楕円に織られた濃緑の島を持ち、その真ん中に、着飾った貴婦人を立て、左側には獅子、右側には白い一角獣を控えさせていた。獣達に野獣性はなく、家紋の旗竿を持して両側から貴婦人を守護するかの如く立ち、その背後の、これも左右に立つ、果実などをつけた二本ずつの樹木によって、獅子の褐色と一角獣の白を際立たせていた。それが、共通したところだが、その相似た図柄が六点並ぶと、全体でさらに一つの巨大な図案的作品が造成されることになって、印象を広大軽明なものにし、その快感への酩酊のせいでか、それぞれの作品が持つ筈の萬意的暗示性ーーそれは白い一角獣の持つ高貴な権威とか純潔とかの象徴性によって、最初から喚起されてはいるーーへのあれこれの思惑から、見事私を解き放ってしまったのである。
お陰で、壁面左から、「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」と五感が続き、最後が「我が唯一の望み」となっていることを一点毎に間近に寄って初めて知り、はてと首を傾げることになった。五感という、その具体的ではあっても 実態性を欠く捉え所のなさが、具体的実体的な図柄の中に、どう表現されているのか、タピスリーはその迷路に誘うべく、目前に大きく下がっており、近づけば、視野が局部的になるだけ、図柄全体の表現の一つ一つの五感の意味を、知覚混沌の中に見失いかねない、そういう羽目に私は陥った。
まず「触覚」では、旗は一本で、その旗を貴婦人が右手に握って立てており、彼女の左手は、彼女に眼差しを送る白い一角獣の角を握っていて、彼女のその握る手に触覚が表現されていた。次の「味覚」になると、左側に侍女が跪いて、足高の鉢を貴婦人に捧げ、貴婦人はその中の角砂糖のような一粒を右手で摘まもうとしており、その彼女が目をやる左の拳の上には、一羽の鳥が羽ばたいて留まっていて、味覚は鳥のものになっている。次の「嗅覚」もやはり左側に侍女がいて、今度は、赤と白の花を乗せた皿を差し出して立っており、貴婦人が、胸先でその花を並べ繋いで花輪を作っているらしい。とすれば、その花の香りこそが嗅覚を刺激しているのであろう。さらにその侍女と貴婦人が、つぎの「聴覚」になると、美しいテーブルクロスで覆われた机を挟んで両側に立ち、貴婦人は、その机上に置かれた携帯用のオルガン(であろう)の鍵盤に手をやり演奏している。そして五感最後の「視覚」では、旗は獅子の持つ一本だけになり、貴婦人は中央に座して右手に鏡を持ち、その彼女の膝に足を掛けてまるで甘え掛かるようにしている一角獣に向けて、その鏡を見せているのだが、その鏡の中には、紛れもなく一角獣の顔が織り込まれていた。こうして最後の「我が唯一の望み」になるが、これは島の中央に青い天幕が張られ、帯の上部に横に文字飾り(その文字が「MON SEUL DESIR」と読める)が施され、その幕の両端を、獅子と一角獣が旗竿と共に開き持って立ち、その幕の前の中央に貴婦人、その右側に侍女が立っている。侍女は蓋を開いた金箱を捧げ、貴婦人はそこから宝石に鏤められた首飾りと思しきものを取り出そうとしている。「望み」はその宝飾に込められていることになろう。
見終えて、私はフロアの中央にまで今一度戻り、そこから六点の作品を一望した。
そしてこの円いフロアの白い壁面の奥に、同じ博物館所 蔵の各種の作品三六点を飾る展示場が、やはり左から右へと設けられており、私はそちらへ足を進めることになった。
それが、表の主役六点を際立たせる脇役の魅力を控えめながら伝えて、なかなかの力を私に与えてくれたのだった。
その最初のコーナーは、一角獣に関わるもので、ブロンズ製の小ぶりな一角獣の水差し、結婚祝いに使われたらしい一角獣を彫った木製の小箱、薄い羊皮紙に一角獣が描かれた時祷書などがあった。ブロンズの小品は可憐な優しさをもっており、他の一角獣とも併せて、この動物に寄せる人間の親しみが伺えて嬉しい。
続いて、丸や四角の、聖母子や洗礼者ヨハネ、聖女カタリナなどを描いた小さなガラス絵が数点。これは一五、六 世紀、宗教的日常性を語る部屋飾りのように見える。
そして、それを受けるように、次のコーナーでは、女性の小ぶりな彫像が四点登場した。「マグダラのマリア」と「聖女バルバラ」の三〇センチ程の木彫像と、同一素材のそれより一回り大きい石彫像だったが、どちらもマリアは跪き、バルバラは立っていて、それらは掌に優しい持仏のように見え、とりわけマリアのいじらしさと言ったらなかった。
そして、その彫像の後には、ベルト、留め金、ペンダン ト、指輪といった女性の装身具や、家の紋章を示した貴金 属メダル、ラスター彩陶器の水差し、大皿が並び、女性に 視点を置いての身の回りの用具展示の一通りを終えていた。
そして締めは、五点のタピスリーで括られていたのだが、四点は、そのサイズと言い、扱われた題材と言い、堂々たるものだった。一、五×三、五メートル程の三つの場面を織り上げた「聖母の障害」、三、五×七メートル程の、三つ の場面に作って織り上げた、聖書で有名な「放蕩息子の出発」、三×四メートル程の、森の中の貴族の男女を描いた「恋愛の情景」、約三メートル四方の、本やノートを置いたテーブルを囲んで八名の男女がいる学習場面を仕上げた「算術」のどれもが、タピスリーのそれぞれの表現分野ごとの特徴を写実的に表現していて、それを楽しみ見てきた人々の豊かさをまざまざと感取できたのである。
老いた我が身には、出典が量的にも快いものだった。 その、見応え嬉しいタピスリーたちに見送られて部屋を出ると、映像のコーナーがあって、一服しながら、クリュニー中世美術館や展示作品の、映像による解説的紹介を見ることが出来るようになっていた。映写途中からだったが、私は空いている席に掛けて、終わりまで楽しみ、お定まりのショッピング・コーナーへ出て、いつも通り図録を求め、そして出口から二階のフロアーに出た。
時間は三時半になっていた。
幸いなことに、この階にあるカフェ・レストランに珍しくも空席があり、ここで一服出来るチャンスまで到来した。私は、一回のフロアを見下ろす席で、ケーキセットを頼み コーヒーを喫しながら図録を紐解いた。
そして驚いた。
図録の六点のタピスリーの一点毎に、作品に寄せたリルケの言葉が添えられていたのである。会場にも、その言葉 が掲示されていたのだろうか。私はキョトンとなった。
一点目の「触覚」には、「彼女は片ほうの手で、一角獣の角をつかんでいる。その角が、もし悲しみであるならば、悲しみとはこうも毅然としていられるものなのだろうか?」とあり、出典が「ライナー・マリア・リルケ(塚越敏訳)『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』」となっている。つまり『マルテの手記』(注2)ではないか。それなら、私は、半世紀近く前に、大山定一訳の新潮文庫で読んだのに、その記憶が全く残っていないということになる。確かにリルケの詩は私には馴染めなかったし、その詩句も何一つ心に残っておらず、彼の『マルテの手記』も題名に牽かれて読みはしたものの、作品世界に親しめず、抛り出してしまった作品ではあった。
今、その後ろめたさが摘発され問責されるような気分に、突然落とされたのだ。しかしこの時、そのためにコーヒーがまずくなることはさらになく、その苦みを一服に相応しく味わうことさえできたのである。これまた、今日の悦楽の不思議か。
(二〇一三、六、八)
注1 『パリ&近郊の町』の「中世美術館」の突内文中に、『貴婦人と一角獣」が、第13室の半円形の部屋に掲げられていると紹介されている。
注2 初めに、図録に記された、タピスリーの「味覚」以後の作品に寄せられたリルケの言葉を紹介しておく。
「味覚」=貴婦人が鷹に餌を与えている。その衣装の、なんと美しいことか。手袋をはめたその手には、鷹がとまって身動きしている。
「嗅覚」=彼女は花輪を編んでいる、小さな、まるい花の冠を。侍女の差しだしている浅い盆から、つぎにはどんな色のカーネーションを選ぼうかと、思いあぐねながら、彼女はさきに手にした花をつなぎこんでいる。
「聴覚」=ずっしりとした穏やかな身なりで、貴婦人は携帯オルガンのまえに歩みよる(なんとゆったりとした歩みではないか?)、そしてたったまま演奏する。
「視覚」=彼女が手にしているものは、それは鏡だ。ご覧、彼女は一角獣にその鏡像(ビルト)をみせているのだ。
「我が唯一の望み」=侍女が小さな櫃(ひつ)の蓋をあけた。そのなかから貴婦人は鎖をひとつ取りあげる。ずうっと蔵(しま)いこまれていた重い、立派な装身具。
次に私が昔読んだ大山定一訳の『マルテの手記』 について一言記しておく。『マルテの手記』は二部から成るが、その一部の終わりから二部の冒頭にかけて、このタピスリーの記述が見られる。記述の冒頭部分は次ぎのようになっている。
「ここにつづれ織り(訳注パリのクリュニ博物館の陳列品である「女と一角獣」のゴブランをさす)がある。アベローネ、有名な壁掛けのゴブランだ。僕はおまへがここにゐるのだと想像しよう。六枚のゴブランだ。さあ、これからいつしよに一つ一つゆっくり見てゆかう。初めは少し退つて、一度に全体を見るがよい。しんと非常に静かな感じだね。ほとんど変化らしいなんの変化もない。目立たぬ紅色の地は、いつぱいに草花が咲き乱れて、小さな動物が思ひ思ひの格好でちらばつてゐる。そこからほのかに 楕円形の藍色の島が浮き出てゐるのに、六枚ともみんな同じだ。ただ向うの端の、最後の一枚だけ、その島が少し軽くなつたやうに、ほんのちょっと浮いてある。島の中には決ったやうに一人の女が見える。着衣は変つてゐるが、みんな同じ女に違ひない。(以下略)」
ここには、タピスリーの語はない。五十年前、「ゴブラン織り」の語ぐらいは知っていただろうが、それを見たこともなく、その実態については何も知らなかった。ましてや、その織物を、美術的な作品として捉える眼差しなど、往時の私には全くなかった。つまり訳された世界は、そもそも手記の内容に溶け込めないでいた私には、イメージするのも面倒な縁遠い世界で、私の記憶に残らなかったのも宜なる哉ということになろう。
それにしても、五十年前と言えば、一九六二(昭和三七)年ということになるが、私の展覧会見て歩きの嚆矢は、この年京都市美術館で観た『ルーブルを中心とするフランス美術展』と言ってよい。カラー頁が数葉しかないざら紙刷りのその時の図録の貧しさが、当時の文化受容の状況を語っている。
それが、「ゴブラン織り」を「タピスリー」と名を正し、それをもって美術展を立てることが出来るほど、美術の受容の幅が広がり、改めて今日の美術展の繁昌ぶりに接すると、無量の感を持たざるを得なくなる。