川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

桂とでんちゅうー二人の彫刻家ー

 十一月に入って、二人の彫刻家の作品展を観る機会に恵まれた。

 一体、彫刻家の個人展に出会う機会は極めて少なく、記憶に残る彫刻家個人展としては、高村光太郎と戸張孤雁 (注1)のものがあるくらいだ。それが、相続いて二人の彫刻家の作品展に会える幸運に恵まれたのである。それも、どちらも関心を抱いていた彫刻家の展覧会だったのである。一人は平櫛田中、もう一人は舟越桂、近代と現代、その、時代を異にした二人の作品群に出会えるというのだ。

 まず、三日の文化の日、小牧のメナード美術館で、同館の開館二十五周年記念として催された「舟越桂 2012ー永遠をみるひと」展を観た。

 舟越桂は、本の装丁に多数印刷して使われた、その独特の彫像が面白く思われ、また、彼の作品の制作過程がテレビで紹介されたこともあって、現代の彫刻家を代表する一人だと強く私に印象づけられていた。

 出展彫像作品は、一九八〇(昭和五五)年、桂二十八歳の時に造られた、新妻の裸体半身彫像「妻の肖像」以下、二十二点の人物像から成っていた。それに、三十点近いそれらの各作品に纏わる、鉛筆描きのドローイングと、スケッチブックに描かれた、鉛筆描きのデッサン、更には、玩具として造られた、木製の家や自動車や人形等の小さな作品十数点と、「ピノッキオ」の挿絵十数点と、そのピノッキオの何点かの下書きスケッチが併設展示されていた。

 つまり、点数からすれば八十点に及ぶ作品によって、このこじんまりした美術館の展示室が、丁度一巡できるように、めでたく満たされていた。

 その彫られた二十二体の人物像は、冒頭の「妻の肖像」の、気負いのない穏やかな写実的な彫刻以外は、写実的身体を備えながら、どれも何人だか分からない、日本人だとも断言しかねる彫像だった。つまり誰とも言えない、作者桂の、概念的・観念的な人間の彫像だった。

 それは、もはや、モデルという固体の実在を消していた。それは、もはや、人体彫刻とは対象の人物を写実的立体的に表現するものだという常識を逸脱していた。

 しかし、そこには、桂のイメージする人間像の、桂的個性が、その顔貌に共通して現れ、善くも悪くも、桂という人間の灰汁に強制的に漬け込まれることになる。第一に、「妻の肖像」以外は、全て、色彩の施された、男女を問わず長い首の人体であり、それに、中高に鼻筋の通った目鼻立ちを、額・眉目・鼻・口・顎の順に辿って見ると、顔面に占めるその 案配配置が、これまた男女を問わず一定の割り振りになっているように見え、一体毎のモデルの個別性は見出し難い。何よりも、桂の彫像たちは、大理石によって造られた眸子を見開いているのだ。それも、青い眼でも黒い眼でもない茶っぽい眼をした眸子が、必ず填め込まれていて、人種を限定することさえ拒んでいるように思われる。

 その上で、茶色のコートに襟巻きをした茶髪の女性の半身像には「砂と街と」と名付け、白いセーターに体を包んだやはり髪の茶色い女性の上半身には「冬の本」と名付け、白のワイシャツに濃紺のセーターを着、焦げ茶のズボンを履いて同手を腰の後ろに組んで立つ、これも茶髪の青年の立像には「静かな鐘」と名付けたりしているのに出会うと、正直、私には何故作品名がそうなっているのかまるで分からず、題名は、絶対的一般性を持っていないように思われてしまう。悪く云えば作者の独善、つまりは作者一人の遊戯性によって見る者を混沌に誘う、まさしく現代的個性的芸術観が、作品を作品として成立させていると云うことになろうか。

 そしてこの独善的遊戯性が、四メートル四方はあろう大きな場取りをして立つ大作が、蝶ネクタイの黒い正装の下にヴァイオリンを牽くポーズをしている実物大の男性像で、彼はその足元から延びた自らの黒い板状の形を長く置いて立ち、その影板の脇にはヴァイオリンの影板も置いてあるという作品で、それは「長い休止符」という題を名乗っていた。

 ところが、後半の二〇〇〇年以後の作品になると、頭部と着衣の胴体、あるいは裸の胴体とのバランスが崩され、そこに異形を造形するようになる。

 それは、女性の半身の裸体像の背後の肩の一方の所に、袖先から出た手の甲が、指を延ばすスタイルで取り付けられる。別の一体は、腹部の大きい妊婦と思われる半身像の、今度は両肩の背後に同じように、甲をこちらに向けた手が付けられており、さらには、美形の半身の裸女が、片方の肩の後ろに、今度は、手の甲から先だけが取り付けられた作品に連作されていた。そして、この三体の題は、順に「言葉をつかむ手」「水に映る月蝕」「森の奥の水のほとり」と付けられていたのである。これらの三人の女性の乳房は、どれも均一に造形的な美しさを保っている点で好感が持て、それが、肩の手の異変から生ずる一切の不気味を遠ざけていた。

 そして、その不気味に拘った連作として、最後にスフィンクスの三像が展示されていた。私の知るスフィンクスとは、ギリシャにおける女面獅身の、その謎に答え得ない若者を貪り食って過ごす怪物であり、オイディプスがその謎の答えを「人間」だと解くや、岩上から身を投じて自殺した悲劇的存在だが、桂のスフィンクスは、三体とも、顔面は男性、胸は乳房の美しい女性という、男面女身の怪物で、いずれも耳を持たず、耳の辺りからは、耳垂れとでも云うべき帯状の垂れが、肩まで下がっている体を成している。

 三体は「戦争をみるスフィンクス」「戦争をみるスフィンクスⅡ」「森に浮くスフィンクス」と名付けられており、始めの二体は半身像で、「Ⅱ」の方は、眉間に皺を寄せたしかめっ面に造顔されており、三体目は、膝上までの体躯で、その股間に男性の徴を下げており、その失脚の体躯は、四本の自然なままの木柱によって宙に支え上げられていた。

 ここに至って、摩訶不思議不可解の迷宮こそが「人間」なのだという思念を、桂が謎として我々に投げ掛けている、その思惑が見えてきて、私は、酔いから醒めるように、俄にうら冷めた気分に陥る。桂よ、そこまで偉くならなくってもいいのではないかというのが、正直な思いだった。

 あとは、付属のように飾られた小品群を見ながら、この気分を宥めていくことになった。そして見終わって美術館を出ると、外光の眩しさに眼が眩んだ。その光を避けながら、私は、桂の父親舟越保武の彫刻ブロンズ作品「萩原朔太郎の首」(注2)を思い出し、あの朔太郎の首はよかったなあと胸中でつぶやいた。

 越えて二十四日の土曜日、津市の三重県立美術館で、『平櫛田中展』を観た。

 私には、田中と云えば、東京の国立劇場に置かれていた(今もそこにあるかどうかは知らないが)歌舞伎の「鏡獅子」の舞い姿の大きく豪華華麗な彫像が、その著名さと相俟って決定的な印象を齎していた。

 その彫刻家田中は、学歴もなく、まるで長生きのお駄賃であるかのように、九十を過ぎてから文化勲章を貰った、百八歳の長寿を全うして往生を遂げたのだが、私には、近代日本の一大彫刻家として、長く記念すべき存在であると分別されてきた(注3)。

 その長命の息遣いを、この展覧会では、その七十点に及ぶ彫像と、数点の木彫の香合仏や数点の書作と併せて、辿り見て行くことになったのである。

 どれも写実的手法の確かな作品で、見るこちらが立つ地面から、自分が宙に浮遊したりすることの絶無な、舟越桂の時とは全く異なる安心の中での鑑賞になった。

 まず、その展示が、幼児・児童を彫った六つの作品から始まっているのが、私の田中像からすると、全く予想外のことで、いささか毒気を抜かれた気分に陥った。

 どれも、高さ六・七〇センチ以下の、その彫りの柔らかな細かさと併せて可愛らしさを感じやすい出来になっている。どれにも着彩はない。イギリスと日本の二人の少女が手を取り肩を寄せ合って立つ「むつまじき女」や、着物姿の少女が抱いた赤子をあやして立つ「姉ごころ」や、チンチンをして立つ犬に、前掛け姿の幼児が煎餅を与えようとして立つ「愛犬」などだった。

 この明治時代に膨られた子供の像の後、大正に入って若い彫刻家らしい意気の見える「樹に倚りて」「裸婦倚像」が並ぶ。後者の、娘らしい体付きから遠い、胸も腰も足も太い日本女性の裸像は、ありのままの正直な力はあるのかも知れぬが、常識的な美からは遠く醜くさえ見え、それに対して、前者の厚い樹幹に凭れて立つ薄布を肩に羽織った青年像は、樹幹から彫り出された青年が、樹から生まれた精のような詩的イメージを齎して美的にも面白かった。

 そして、「烏有先生」「島守」を始めとする老爺の立像や座像、「転生」という、ロから人間を吐き出している鬼の立像が、仏像仕立てで登場する。

 そういえば、「無矣無矣」という、両手をこちらに開いて笑顔で立つ少女像があったが、あれは「ないない」と読むのであろうか、それは虚空の存在でしかない者を「烏有先生」の語で表し、虚構の姿に過ぎぬ世界を「転生」の語に表していることと併せ考えると、そこに、明治の芸術家の、どこか作品に対する東洋的な仮想意識が、しかもそれこそが写実だと見据える自信がほの見えて、これまた面白い。

 それにしても、田中の作品は、漱石などと同様、明治人の漢学を根にした東洋的な教養を、何と広く深く秘めていることだろう。それを窺わせる、様々な老翁の彫像が並ぶ。具体的な人名の作品としては、眉も鬚も豊かな老人が面伏せに一喝して鞭を振り下ろしている「黄初平」、大きな鼻と一文字に結んだ大きな口に達磨大師らしい特徴を持つ、強く手を胸先で組む老体の「摩訶達磨」、大きく開けた自分の口を指さして、叫び顔で立っている「灰袋子」(注4)の個々の個性的な姿や、岡倉天心に認められた、私にも記憶のある「活人箭」ーーが座し、腕一杯に張って弓を引く姿(但し、弓矢そのものは造られていない)を彫っているーーを始めとする「尋牛」「竪指」「酔吟行」(注5)等の中国の詩文のロマンを背負った老人たちの彫姿は、加工された木肌の自然そのものの魅力を醸し出していた。

 我々が今も親しむ西洋の大理石像の多くが、ギリシャ神話の古典的浪漫性の上に立脚しているように、明治の近代彫刻家として出発した田中の彫像の多くが、その創造の立脚点を、東洋的な古典的浪漫性に置いていたというのは、自然なことだったのであろう。

 それが、昭和に入ってくると、作品の多くは美しく着彩され、その刀跡が線と面との見事に交錯した木彫の美を感得さすることになり、その素材は、黒い角頭巾を被って座した「蕉翁像」、坊主頭に笑みを浮かべて同じく座した「夜半翁(倣月渓)」や、二体も展示されている「西山逍遙」(注6)といった日本人に親しい歴史的人物や、田中の時代の、黒紋付き姿の「横綱常ノ花」像を始めとする当時の著名人の立像や座像となって展示されている。

 とりわけ黄門様の二体ーー一体は背丈が人物大で、もう一体は実体の二分の位の丈であるーーは、どちらも背丈ほどの長い杖を手にし、白鬚の長い顔を前に出して立つ、着衣こそ異なれ、黄金色の彩色の衣に身を固めた美しい彫像に仕立てられ、そこには、芭蕉や無村の座像の場合と同様、圧力や重量感が殺がれた、その分軽やかな近しさが身に備わっいた。

 それに対し、「鏡獅子」ーー 丈が有名な実物の半分、六〇センチ位の「試作」と銘打たれているが、造りは実物と全く同様の精緻と迫力を備えているーーと、そのモデルを勤めた六代目菊五郎の、作品のポーズをとった石膏の裸体像や、「横綱常ノ花」像は、こちらに迫る力とどっしりした重量感とを、確実に伝えていた。

 そんな中で、著名なため、一目でそれと分かる、岡倉天心像が三体もあったが、そこには、田中の師天心に対する敬愛の念が、その三点の作に着彩を一切施さず、彫刻した木の命のままで何も飾らないという取り組み方に、厚く込められているように見えた。

 その中の一体は、一九四二(昭和一七)年の大戦中、天心 没後三十年を記念して造られた、田中七十一歳の作品だが、「鶴氅」(注7)と題され、頭から肩へ頭巾を掛け、恐らく 鶴の毛を使って作った紋付き袴姿の、二メートルはあろう堂々たる天心像で、他の二体はそれから二十年後、田中九十一歳にして製した、一体は二メートル程、今一体はその半分位の丈で、どちらも頭巾を被り釣竿を馬手にして立ち、大きい方は左手に魚籠をも下げていて、どちらも「五浦釣人」(注8)と題されていた。

 その三体を見ていると、師への思いの深さとその天心像を借りての、彫刻家田中自身の自負を、作品の無言の存在感で物語っているように見えた。

 おそらくこうした造りこそが、写実的彫像の真骨頂というものなのであろうと、改めて田中の彫刻芸術家としての力量に、私は脱帽し敬礼した。

 終わって求めた図録の装丁は、白面の左下に薄墨色で田中自筆の「書」の字を入れ、右側に「ひらくしでんちゅう」と、大きさも色もまちまちな仮名文字を縦に並べた、お洒落なちので、それが、全く違和感を齎さず、鑑賞後の気分を爽やかにした。

(二〇一二、一二、一〇)

 

 

 

 注1 高村光太郎のものは、一九九〇(平成2)年に三重県立美術館で催された『高村光太郎・智恵子ーーその造形世界』展であり、戸張孤雁のものは、一九九四年に愛知県美術館で催された『戸張孤雁と大正期の彫刻』展である。戸張孤雁の方には、大正期を代表する彫刻家として、荻原守衛や中原悌二郎たちの作品が出展されていた。

 注2 舟越保武は彫刻家で、東京芸術大学の教授を勤めた。「萩原朔太郎の首」には、創立100周年記念の『東京芸術大学所蔵名作展』(一九八八年、愛知県美術館) で出会った。因に、桂は東京造形大彫刻科を卒業後、東京芸大大学院の彫刻専攻課程を終えている。

 注3 因に、図録の年譜に従えば、田中の本名は倬太郎。田中は、最初の養子先の姓で、平櫛は二度目の養子先である。田中の学歴は小学校だけで、漢学の素養は、二十代後半、上京して、寺に関わり、臨済録や易経等の講義を聞いたことにによるらしい。結婚は三十六歳、岡倉天心に作品「活人箭」が推奨されたのは翌三十七歳の時である。

 注4 「黄初平」は、中国『神仙伝』に登場する、石を鞭で叩いて羊にする力を持つ仙人。「灰袋子」も、その彫られた風体からして、恐らく中国の仙人かと思われるが、私には分からない。

 注5 「活人箭」は石鞏という僧が弓をひく禅話を用いたもの。「尋牛」は、仏教修行の推移を牛を追う牧童の十段階で説いた「十牛の教え」の、最初の段階を云う語で、自分の本心(牛)を尋ねること。「堅指」は、「碧巌録」などに登場する俱胝和尚が、修行者をいつでも指一本立てて導いた故事による。「酔吟行」は、酔って詩を吟じ遊ぶ著名人、任侠無頼の大酒豪李白を彫ったものである。

 注6 「蕉翁」は松尾芭蕉、「夜半翁」「倣月溪」は与謝蕪村、「西山」は水戸光圀のこと。

 注7 鶴の羽で造った衣のこと。ここでは手に入れることの叶わぬ貴い衣のこと。

 注8 茨城県五浦は、天心が、一九〇六(明治三九)年、日本美術院の研究所と横山大観を始めとする若い所員たちの住居を造り、日本美術創造活動の中心にした場所で、天心もそこで暮らした。

 

 

 

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