承前
そして、「サーカス道化師」と銘打った今度のルオー展になったのだが、そう銘打った効果は、私の迷いを払拭させるに覿面の力を見せてくれたのである。
会場は、美術の展覧会場らしい展示様式を備えていない、自由な空間を感じさせる造りになっていた。従って、展示壁面を伝って見て廻る回遊スタイルによっての鑑賞ではなかった。それは、私から肩の重荷を外す効果を持つように見えた。
それにルオーの作品が、一メートルを越すようなものが三、四点しかなく、二、三十センチのものが相当数を占めるようなこの作品展では、目に近く手近に鑑賞できる展示法が、好ましく、この美術館が大仰な造りでないだけに、それを可能にしたのである。
展示は、サーカス世界のグロテスクで混沌とした作品群から始まり、それが、観衆の殺到する往時の見世物小屋の写真と共に目近に展開した。
そして、その後、油彩一点、石版画一点、版画用インクと鉛筆で描いたもの五点、計七点の自画像を初めて見た。どれも三十センチそこそこの小品だったが、油彩の自画像は一九二一年、それ以外の黒で挫かれた作品は二六年の、どれもルオーのルオーらしい静謐さが確定する時期に入った時の作品だった。それが、その画像のモデルとして用いられたことが丸見えの、彼の写真と一緒に展示されており、自画像が、写真のルオー(実体)に紛れもないものであることを証していた。しかも、画像の方は、写真に比べて、どれも、額が大きく出っ張って、その下の眼の窪みが暗く深くなっており、その分、写真に比べて、道化的な顔立ちに強調されていた。ルオーは自らに道化を見ていたのである。
しかも、そのあと、サーカス関係の資料展示コーナーにあった一点の道化師の肖像写真(注3)に出会ったとき、その写真が、ルオーの自画像を即座に思い出させ、自らを道化視するルオーの眼差しが、紛れもないものだと確信できた。そこには、現実を介して自己との葛藤をせざるを得なくなっていたルオーの現実が見える。
この自画像群の後、最早混乱のない、つまり迷いを超えたルオーらしい描きっぷりのサーカスの登場人物たち、即ち、「見世物小屋の呼び込み」、「太鼓を叩く道化師」や「老いたる道化師」、「女曲馬師」や「バレリーナ」、「曲芸師」に「調教師」等が数多く描かれ出品されていた。
それらの作品は、動作を現す絵であっても、その動きが止まった一瞬の表現として固定化した不動性を示していた。そしてその不動性が、最も顕著に示された、つまりは神の永遠に等しい機能を持つものこそが、肖像画であることを、ここにある十数点の肖像画作品が、こちらに正面から語っていた。
中に、六十センチ程の大きさの、両の眼をしっかり見開き首を傾げたピエロの像「自分の顔をつくらぬ者があろうか?」と題した一点があったが、そこにルオーの声を聞かない訳にはいかない。それは、ピエロがルオーに同化し、両者に差がなくなっていることだ。そこに普遍の神が見えてくるのに私の得心が行く。
私たちは、恰も、幾多の表情を持つ仏像の仏の顔に、等しく仏の顔としての共通性を見ているが、ルオーの肖像画はそういう共通性を持っているといってよい。それほど、ルオーの顔たちは、まさに神の優しさの情調を等しく私に伝えてくるのである。つまり、その顔たちの基盤をなすものが、外ならぬサーカス世界の登場人物たちだというところに、ルオーの手柄がある訳だ。
そして、こうした印象を支える形で、今度のこの会場では、ルオー三十代の猥雑な表現世界の作品を成立させた時代背景として、ダンス場やサーカス小屋に関する資料を、「パリのサーカス」と「バル・タバラン」の二つの項によって、二つの部屋を設けて展示していた。そこに展示された資料は、上演プログラムや絵葉書やポスター、それに宣伝広告パンフの、往時の彩りをよく留めた豊かな印刷物で、ルオーに関わりなく見ても、充分一つの時代を表徴する風俗の文化を伝えるものだった。
その二つのコーナーは、それらが醸す、パリという二十世紀初頭の都市の表情を十分に伝えてくる。その、遊びの街の繁雑な色と音との中に、埋没させられるルオーの姿を想像するには、打ってつけの効果を示していた。そうした点での代表的先輩ロートレックの、たかが十二・三年前のことに過ぎないモンマルトルの世界を重ねて考えざるを得なくなるような、懐旧的な親しさをこちらに齎しもする。
その「バル・タバラン」だが、それは私に永井荷風を思い出させた。もう百年以上も昔の一九〇九(明治四二)年、三十歳の荷風は、出版と同時に発禁になった『ふらんす物語』を著し、その中で、この場所を紹介しているのだ。 荷風がどんな風に紹介しているのか、ルオーの理解の一助にもと、ここで案内することにする。
荷風は、その物語の「夜半の舞蹈」の章の冒頭を「バル、タバランは夜の戲れを喜ぶ人の、巴里に入りて、必ず訪うべき處の一つなるべし。肉樂の機關備りて缺くる處なきモンマルトルにある公開の舞蹈場なり。」で始めて、以下のような言葉を書き残している。
(タバランに)入りて直ちに人の目を眩惑せしむるものは、煌々たる燈火の下に張り。動く女の衣服の色彩なり。重き空氣の展迫と、音樂笑聲の喧しさに、馴れざる人は到底十五分間をその座に堪ふる事能はざらん。地へ得たりとするも、見るもの皆何物かの作り出せし幻影の如く思はるベし。
更には、打騒ぐ男女の叫びは、轟く奏楽の音と共に、波の如き律をなして、其一律毎に、良心の判断を消滅せしめ、人を放蕩の海に突入れんと迫るが如し。
酒に酔ひ女に戲るゝ事の愚なるは人巳に知れり。されど其の愚なる事も極みに達すれば、又解すべからざる生ず。われは實に、人の血には何故かゝる放蕩の念の宿れるかを、究むるに苦しむ。
この『ふらんす物語』を書いた荷風のパリ体験(注4)は、先にも記したルオーがグロテスクな作品に溺れた「一九〇二年~一九一八年」に紛れもなく重なっている。
荷風の文章が、エトランジェとしての感傷だとしても、それはルオーのこの時期の作品の混沌ぶりを納得させる視線を、充分持っているように思われる。
いずれにしろ、荷風が帰国後、「放蕩の海」に沈む現実の美を『墨東綺譚』にまで結晶させて行ったのに対して、ルオーがその現実に神の示現を見ようと志していったことだけは、私には確かなこととなった。
一巡し終わって、例によって、図録を求めたところ、これが中々面白い造りになっていて、表のカヴァーを外すと、その下の衰紙が、その表側も裏側も、四つ折に畳まれた厚紙で、それを開くと、そこにそれぞれ四六センチ×三六センチ大のポスターが現れたのである。ポスターは、「パリのサーカス」の所にあった、シャルル・レヴィ製のシルク・フェルナンドの二枚だった。
また、図録中には、何編かの展覧会のガイド文が乗っていたが、中に、愛知淑徳大の山田登世子教授の「サーカスー夜の戯れ」の一文があって、その「バル・タバランの『夜半の舞踏』」の章中で、彼女は、私が回想した永井荷風の『フランス物語』の文章の一節を引用紹介していた。どうやら自分の反応が特別のことではなかったと分かり、私はすっかり嬉しくなった。
こうしたことだけでも、本展が、ルオーの作品の絵画的表現の側面だけに止まらず、作品を齎したルオーの生の実態、時代環境の中のルオーの生を見つめさせるものであったことをよく物語る、これまでのルオー展図録にはない面白さを持っていた。
そして、その面白さを、図録の帯紙に印刷されたルオーの言葉、「私たちはみな、程度の差こそあれ道化師なのです」で括ったのは、ルオーを身近に引き寄せるなかなかの洒脱ぶりだと、私は感服した。
お陰で、愉快!爽快!の一日になった。
私たちは、二階の喫茶コーナーで一服した後、外へ出、また、新橋駅の遺跡の方へ歩いた。歩きながら、あゝ、ルオーが生まれたのは、この新橋駅が生まれた頃だったのだと気づき、すると、たかが百年ちょっとの歴史から、自分が遠く見捨てられた存在と化しているように思われ、苦虫を噛み潰したような気分に落ちた。
(ニ〇一ニ、一一、一〇)
注3
パリのサーカス劇場シルク・メドラノが発行した『MEDRANOMAGAZINE』誌(一九三三年三月)の表紙を飾っている、当時の人気道化師オーギュスト・ラムの額の大きい顔写真が、ルオーの自画像に似た趣を持っていたのである。
注4
永井荷風のアメリカとフランスへの渡航期間は、一九〇三(明治三〇)年九月二二日からO八(明治四一)年七月一五日までの足掛け六年間、荷風二十四歳から・二十九歳のことであり、フランスに滞在したのは、その終わりの、〇七年七月二七日から五月二八日までの十箇月で、パリにいたのは三月二八日からの二箇月間に過ぎない。なお、荷風の海外への渡航は「外遊」と言えるような旅行ではなく、鴎外や漱石のような「留学」でもない海外生活だった点に、荷風的特徴がある。その点を簡単に記せば、ミシガン州のカラマッズウ大学で半年の聴講生生活、ワシントンで日本公使館の用員としての三箇月、正金銀行ニューヨーク支店勤務の七箇月、同じくフランスのリヨン支店の行員として七月の生活があり、そういう中で娼婦イデスとの戦潮生活や、オペラを初めとする芸術世界へ没入する生活があったのである。