十月二十七日、初めて新橋のパナソニック汐留ミュージアムを訪ねた。それまで新橋に美術館があるなどまるで知らず、その界隈に足を踏み入れたことは全くなかった。
お陰で、今度、一八七二(明治五)年、新橋横浜間に日本で最初に鉄道が開通した折の、その新橋駅(後、汐留駅になる)が、往時の姿を今に留めているのを、お上りさんの私は、初めて目の当りにできた。その新橋駅の遺跡のすぐ隣に、パナンニックの東京汐留ビルが建ち、その汐留ビルの四階に目的地のミュージアムはあったのである。
そのミュージアムに、「サーカス・道化師」の副題を持って『ジョルジュ・ルオー』展が催されていることを知った時、暫く御無沙汰していたルオーに、私は、矢も楯もたまらず会いたくなった。
ルオーは、私が、その当初から、魅(ひ)かれた画家だった。にも拘らずこれまで私に、ある蟠り(わだかまり)を重く残しもしてきた画家でもあって、忽ち会いたくなったのもその蟠りのせいだと言える。
ルオーの絵に初めて出会ったのがいつで、どんな作品だったのか、今となってはまるで定かでないが、私がルオー展を観た最初は、恐らく東京の出光美術館で、一九七三(昭和四八)年の暮れに、ルオーの油彩画の連作「パッション(受難)」五十四点と黒の石版画の連作「ミゼレーレ」五十八点が美術館の所蔵となったことを記念して催されたものだった筈である。
この出会いから、聖書と深く関わったその画風の独特な佇まいに、私がすっかり魅せられたことだけは間違いない。人間の計り知れない精神性の深さを、これ程秘めている黒く太い線の表現に、私は出会ったことがなかった。その黒太の深さを現実に抱え持っている画家ルオーという人物に、その時、脱帽降参してしまった。そして、その時のパンフレットに「今、世紀、キリスト教画家と称することのできる画家は、ジョルジュ・ルオー唯一人だ」と記されていた柳宗玄の言葉に、私は迷いもなく首肯承允(しょういん)していた。
しかも、悪いことに、その翌一九七四年、手元に届いた『志賀直哉全集第七巻』に、直哉のルオーについての発言を、私は読むことになってしまったのである。「風貌」という語の最も美しい実体を、志賀直哉という作家にこそ私は見ていたのだから、彼の言葉が、私に大きな陰を落さない訳がない。その直哉が、随想文の中で、「現在の家で一番好きなのはなんといつてもルオーだ。ピカン、マーチスもいいが、特に好きなのはやはりルオーだ」と断言していたのだ。
彼は、続けて、
ルオーの繪の宗教的な感じはわれわれには本統にはわからないものだと思ふ。われわれはさういふ傳統を身につけてゐないからだ。彼の繒の奥行の深さ、その眞実を求めてやまぬ誠實さには頭が下る。(中略)たとへ模索するだけであつても、彼の繒から受ける感じは實にたまらない。先年(注1)、巴里の近代美術館でみた畳一帖程の大きなキリストの顔などは、僕がその旅でみた最も感心した畫の五指を屈するうちに入れていい傑作だと思った。
と、言っておいたのである。
終戦後に、少年から青年への成長期を迎えに私にちは、戦前戦中の反動もあって、唯物史観によって思想形成をされるというのが、ごく普通のことだった。それは当然、神仏の存在の否定を私たちに齎した。
それに、二〇世紀という世紀は、既に一九世紀半ばの印象派の絵が、宗教的素材から全く離れてしまったこと一つとっても分かるように、最早、神の存在を認め得ない、唯物思想が、人間の観念を支配するようになってきたことを、私は身をもって知らされてきた。
そんな中で、キリスト教を素材にしたルオーの絵は、時代の趨勢とは真逆の表現姿勢と言ってよく、そこに、黒の表現法と併せて、時代を超えた個性の斬新な魅力を痛感したということになろうが、それが、志賀直哉によって金縛りにされたという訳だ。
しかし、造成されたこの思い込みが強かった分、次のルオー体験が、私のルオー受容に大きな影響を齎すことになった。それも、一九七三年から二十五年経った一九九八年、四十過ぎの私が、六十も半ばになっての体験なのだから、それまでの自分の思い込みに対するショックは大きかった。
その『ルオー展』は、パリ市立近代美術館所蔵の作品による、新宿の小田急美術館で催されたものだったが(注2)、百点ほどの出展の中で、黒く太い輪郭の中に重厚感の盛り上げられた宗教画は、数点しかなく、二〇点ほどは、「エスキース」と断られた、大雑把に描かれた様々な人物のスケッチ、下絵だったのだが、そう断られていない完成作品も、その始どが粗い描き殴りの、エスキース的感じのものばかりだった。その意味で、対象の人物たちに対する、作者の、あれこれと働く落ち着かない心情の働きが、ストレートに見て取れる、作品としての定着性のまるで窺えぬ作品ばかりだったのである。
そこにある様々な人物像は、どれも滑稽で不潔だった。その滑稽と不潔が汚れた画面に仕上げられている。それは常識的な美化、美的意識を全否定することによって成り立っていた。だから裸婦像はどれも娼婦に見え、法官も被告も教育者もレスラーもピエロも貴夫人も、中にあった「グロテスク」と題した数点の人物像よろしく、どれもがまさにグロテスクに、笑うに足る存在として描かれていた。そして、それらの絵が描かれたのが、どうやら一九八二年から一九一八年の間のことであり、それはルオーの三十一歳から四十七歳までの期間のことになるのだと知らされた。
省みて、あの「ミゼレーレ」は一九二二年から二七年の間に制作され、「パッション(受難)」は一九三五年に描かれていたのだ。つまり、前者はルオーの五十代、後者は六十を過ぎてからの作品だったのである。
柳宗玄が今世紀唯一のキリスト教画家だと高評した、その評価の前提として、三十代から四十代半ばにかけての、滑稽でグロテスクな作品世界があったことを、ルオーがルオーになる以前の混沌的世界があったことを、そしてそれが私のルオー観に生々しい感動と混沌とを樹したということを、改めて痛感させられたのだった。
この動揺が、翌九九年、岐阜県美術館で催された『ルオー回顧展』に、当然私を誘い込むことになる。
そこでは、グロテスクな混沌の世界から、美しいピエロの顔と、それと重なるようにして描かれたキリストの「聖顔」とに表徴される、ルオーらしい重厚な世界へと、変化造形されて行く過程、つまり「キリスト教画家」ルオーの成立していく過程が、六十点を超える本画によって証されていたのである。
しかも、この展覧会では、それまでに見たこともない、ルオー二十代の作品四点に出会うこともでき、目を見張らせた。二点は一メートル五十位の、「臼をまわすサムソン」、「死せるキリストと嘆く聖女たち」と題する、ルオー作品としてはそれまで見たことのない大作で、一点は、これも一メートルを十分越す大きな「人のいる風景」と題する風景画で、残る一点は、七十センチはあろう「自画像」だった。
それらは、どれも暗い色合いの沈静な作風で、三十代のグロテスク作品のような荒れた動的な筆遣いとは全く逆の、しっかりした筆遣いの、写実的表現の暗い色合いの中に、対象の世界の見難い奥行き(内面性)を語りかけているように見えるものだった。キリスト教的題材の二点は無論のこと、川と岸辺の森とが、三日月の月明かりの下にこんもりと暗く広がり、僅かに光を帯びた川に、何人かの人の姿が見える風景画にも、とても透明な緊張感があって、ルオーの資質を知らせる啓示性を持っているように思われた。
どうやら、二十代の静から三十代の動、その動から、四十代過ぎてからの動を飲み込んだ静への過程、聖から俗、俗から俗にこそ存在する聖への過程が、この時私に見えてきたのである。
そして二〇〇六(平成一八)年、『出光コレクションによるルオー展』が名古屋市美術館で催された。三十三年前、出光美術館で初めて見た五十八点の三倍を越える、出光所蔵の二百九点からなるルオー展だった。それは、これまで見たルオー展で最も出展数の多い充実したものだった。
そこでは、六十三点からなる「受難」以外の油彩画は、三十四点出展されていたが、その中にグロテスクな作品は僅か。二、三点しかなく、しかも、残る三十点ほどの三分の一は、「キリスト」を初めとする「ピエロ」「道化師」「優しい女」等の首から上の肖像画になっていて、初見の『回想録』に収録の「自画像」や、「ボードレール」を初めとする「ギュスターヴ・モロー」「レオン・ブロワ」「J,K,ユイスマンス」等の石版の肖像画と併せ見ることになった。
それは、ルオーが、人間の存在の姿として、自らの存在の意味を知るために、如何に人間の顔、つまり肖像に意味の大きさを見つめ出していたかを、語っているように思われた(注3)、そういう展覧会だった。
(ニ〇一ニ、一一、一〇)
注1
一九五二(昭和二七)年を指し、直哉六九歳。この年、五月三一日、梅原龍三郎、浜田庄司、柳宗悦と渡欧。イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスと巡り、七月中旬ロンドンで病を得、八月一二日帰国した。出発を前にして、「私には先で、しなければならぬ仕事もないので出来るだけ物々とした気持で旅をしたいと思つてゐる。大機、美術を見る事が目的であるが、それも餘り欲張らずに一流のものだけを見、それ以下は見過す位にしなければ、見るものが多過ぎて、却って頭に残らないかも知れぬと思ってゐる。」と言っている。
注2
この美術館は、今はもうなくなってしまっている。
注3
因みに、モロー(一八二六~一八九八)は、ルオーの師であり、聖書と神話に題材を求め、その神秘的・唯美的表現によって独自の境地を残した画家であり、プロア(一八四六~一九一七)は、一旦棄てたカトリックに再び戻り、反キリスト教的思想に対決して作品を残した作家であり、ユイスマンス(一八四八~一九〇七)は、自然主義の作家として出発しながら、熱烈なカトリックとなり、唯美主機的になった作家である。
以下次号