承前
三
三つ目は、三十日の午前、渋谷の区立松濤美術館で観た「花ひらく挿絵本の世紀」の副題を持つ『藤田嗣治と愛書都市パリ』展になる。
これは、初めから観ようと企画されていた展覧会でなかっただけに、鑑賞は、お洒落な拾い物をしたような喜びに操られることになった。
藤田嗣治の、画家としての表の世界ではなく、脇の、遊びの世界と言ってよいだろうが、それだけに、本の表紙絵や挿絵という、小さな作品世界が、書斎的で日常生活的な風合を強くし、それだけ藤田の気張りのない私的な世界に触れたような親近感を持つことができる、そんな展覧会だった。
藤田は、戦時中を除いて、フランスで活躍した画家だったから、彼の挿絵本は、殆どフランスで作られており、ということは、挿絵画家としての活動が、戦前と戦後の二つの時期に別れていることになるわけだ。
その最も初期の仕事に、『Quelquespoemes(詩数篇)』というKomakiOhomia(小牧近江)(注4)の仏語の詩集に対して描いた挿絵があるが、一九一九(大正八)年のことで、作品は、人や動物が線描きで描かれている。それが、一九二三年になると、藤田自身がフランス語に訳し、編集した「Legendes japonaises(日本昔噺)』の、表紙と六十余点の挿絵が、すべて色彩を取り入れて描かれている。噺は、「道場寺」「浦島」「養老の滝」「姥捨山」「羽衣」「草薙の剣」といったものたちだが、それを選んだのは、藤田自身だったということか。
それに続いて、二六年から七年にかけて、日本に縁の深いポール・クローデルの『東方所観』や『朝日の中の黒鳥』、同じくピエール・ロティの『お菊さん』や『お梅が三度目の春』、更に『芸者のうた』とか『八景(注5)』(注6)で、日本の伝統的な風谷や風景を、描いているが、これらの挿絵は『八景』以外は全て、水彩の色彩画で刷られており、大体五百部から一千部ぐらいの限定本として、出版されていたようだ。
それにしても、これらの日本の人物・風俗を、藤田は、どちらかと言えば、日本の近代的な姿で捉えるのではなく、明ちらかと言えば、日本の近代的な姿で捉えるのではなく、明治以前の前近代的な人物・風俗として、懐古的に描いている。藤田的白い肌の表出に上って、エコール・ド・パリを代表する作家の一人としてパリに認められていた彼が、自分の母国、日本の伝統文化に対して、これ程の郷愁を持ち、それを、西洋モダンの油彩画の表の世界とは別に、こういう裏面で語っていたのだと思うと、そのセンチメントが、こちらにいじらしいものとして響いてくる。
エコール・ド・パリの画家たちは、みんな異国からの流入者だったが、モディリアニにしろ、スーチンにしろ、自分の母国の伝統文化への郷愁を藤田ほどに示し残した画家はいないのではないか、そう思う。母国の伝統への拘りを残したのはシャガールぐらいではないかと、乏しい美術体験の中で気づく。パリにおいて肌の色の異なる異人種としての孤独が、今のようにひとっ飛びでは行かぬ遥か離れた、その距離に呼応した故国への邪心となって、藤田に根付いていたことを窺わせ、それがこれらの本の、小さな挿絵群に対するこちらの共鳴となったように思われる。
それが戦後、日本国籍を捨てフランスに帰化してからは、一九五五(昭和三〇)年こ、ジャン・コクトーの作品『海龍』、の挿絵を最後に、日本を回想しての挿絵は見えなくなる。その『海龍』(注7)の、白と黒以外に着色のない優れた線描の挿絵は、戦中の帰国以前に描かれた挿絵群に比しても、最も優れた出来栄えに私には見えた。力士や歌舞伎役者などの出来もすっきりと描けていて良いが、何と言っても髷を結った女性たちの、髪と襟元の織り成す線の見事さは、殆ど近代日本画の素描の傑作と錯覚するほどだった。
そしてその線描から受けた快感は、『魅せられたる河』(ルネ・エロン・ド・ヴィルフォス著、一九五一年刊)と『しがない職業と少ない稼ぎ』(アルベール・フルニエ、ギイ・ドル ナン著、一九六〇年刊)(注8)からも、そのまま引き続き得られたのである。無論この二編以外にも、藤田の表紙絵や挿絵の本が何点も展示紹介されていたが、この二編は、フランスへの帰依・同化を決断実行した藤田の、フランス人としての新たな自負の結晶のようなものに見えた。
『魅せられたる河』の、線描のエッチングで描いたパリの街の風景・風物のさわやかさ、それに水彩を施した何点かの怪やかな美しさは、藤田の「日本」という呪縛から己を解き放った明るさがあり、それが戦後のパリの明るさと見事重な知って見えた。
一方『しがない職業』の方は、どれも三十センチ位の挿絵二十点程から成っていて、パリの日常の底辺を支えるような職業、掃除夫、洗濯婦、煙突掃除夫、活版工、左官屋といった者たちが、全て子供の年格好で、多色刷の木版画で描かれていた。したがってその子供たちには、社会的にも経済的にも貧しい立場で笑まいがなく、しかし子供である故の可愛らしさは備えている、そういう挿絵だったのである。或いは、藤田のような達者な筆遣いが出来た画家にとって、彼の職業は、芸術家と言うよりは、画工だったのかもしれない。その笑わない子供たちは、藤田の晩年になって到達した画工としての自分そのものだったかもしれないと、小さな挿絵を見ながら思ってしまう。因みに、数えて見れば、この作品は藤田七十五歳、八十二で死ぬ七年前に作られていた。もって瞑すべしである。
(二〇一二、九、八)
注4
小牧近江は仏文学者・翻訳家・社会運動家で、法政大学教授を勤めた人物で、一八九四年に生まれ、一九七八年に没している。若くしてパリに渡り、パリ大学を出て、ロマン・ローラン等の影響を受ける。帰国後、志賀直哉が『暗夜行路』の前編を出し、斎藤茂吉が『あらたま』を出した一九二一年、プロレタリア文学運動の先駆となった雑誌『種蒔く人』を創刊して、無産者たちの啓発運動の中心的存在として活躍した。因みに日本共産党が結党されたのは、この年である。小牧の帰国した一九一九年、藤田は、サロン・ドートンヌに出品した六点全部が入選し、パリ画壇で高く評価されることになり、彼がエコール・ド・パリの龍児として活躍する、その出発点になる記念すべき年だったのである。
注5
「東京」「京都」「宮島」「松島」「日光」「鎌倉」の六景に「山々」「海辺」の二景が扱われている。
注6
『芸者のうた』の著者はエミール・スタイニルベル・ベルラン、『八景』の著者はキク・ヤマタとあった・が、のような作家なのか、私にはわからない。
注7
一九三六(昭和一一)年、ジャン・コクトーが、世界一周の旅をした時書いた旅行記の、日本に関する記録を纏め、藤田の挿絵入りで出版したものである。藤田はフランスでコクトーとは親しい間柄にあり、コクトーが来日したとき、既に日本に戻っていた藤田は、歌舞伎座、国技館、吉原遊郭の跡などに、コクトーを案内したらしい。その記憶が、二十年後の一九五五年に、この本に結晶したことになる。
注8
この二作の著者三名についても、私は何も知らない。
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