一体、こんな絵を描き残した奴は、どんな面構えの、どんな風体をした男だったのか知りたくて堪らなくなってしまう、それが曽我蕭白という画家なのだ。それほど彼の絵は異様な衝撃をこちらに齎す画家なのだが、生憎、その肖像に接したことはない。
そんな気掛かりな蕭白の展覧会に、私が初めて接し、仰天したのは、もう十四年も前の、一九九八(平成一〇)年五月のことである。場所は三重県立美術館だった。それは『江戸の鬼才曽我蕭白展』と銘打ち、ボストン美術館、プライス・コレクション、バーク・コレクション等からの出品にも与かって、七十余点で催された、今思えば、非常にスケールの大きな展覧会だった。それが三重県で催されたのは、蕭白が、鈴鹿や津や松阪の寺々に多くの絵を描き残している縁の地だからだった。
それは、蕭白が放浪の画家だったことを窺わせはするものの、その生涯は、一七三〇(享保一五)年、京都の商家丹波屋三浦氏の子として生まれ、一七八一(安水一〇)年五二歳で没したこと以外、曖昧な言い伝え以外殆ど分かっていないことを、その展覧会で知らされもした。曽我の姓も、京の曾我派に因むらしいが、それを名乗る経緯も定かではない。その不分明な生によっても、彼の絵の異様さはいよいよ際立ってくる。
全く、蕭白の作品は、山水画以外の、人間の登場する歴史風俗画や禽獣画の殆どが、一度会ったら、その図柄と筆捌きによって、こちらの常識が吹っ飛んでしまう激越ぶりで、驚天動地、忘却不能となること必至である。その忘却不能と化した作品は、お陰で美的快感からは程遠いにも関わらず(或いは、美的快感から程遠いからこそ)強烈な印象をこちらに刻印することとなり、心の平穏安定のためには、その刻印を消去したいと願わねばならぬ羽目になってしまうのである。「全く、「奇麗」の語は、蕭白には無縁のもので、彼の作品が「美術」というなら、一体美とは何かと問いたくなるに決まっている。だが、だとすれば、彼の作品は、皮肉な見方をすれば、芸術の美的快感の貴重さを裏付け保証すべく、その異様さの価値を我々に提示していることになる。それほどその作品は、不思議な負の魅力を発揮しているのだ。
それを、蕭白研究の第一人者辻惟雄は、「狂気の里の仙人たちーー曾我蕭白」の中で、蕭白の記した署名(それが記されている作品は、後記する「群仙図屏風」である)を基にして、「権威や因習に対し股ぐらのぞきをするような蕭白の態度」と評しているが(注1)、誠に言い得て妙である。
蕭白の活躍した時代は、尾形光琳が琳派を大成させた後の、十七世紀後半のことで、伊藤若冲と活躍の時を等しくするのだが、その若冲が、花鳥風月的世界における細密絢爛の美的描写によって、正に「キレー!」の歓声を挙げるに最適の色彩的美的快感を、我々の脳裏に刻印してくれるのに対して、その御利益とは全く正反対の刺激を齎しくれるのが、他ならぬ蕭白なのである。しかし、とかくお化け屋敷にまでも首を突っ込もうとするのが人間で、だから、そんな蕭白なのに、私はいつも何処かで彼のことを気にしているという体たらくに陥っている。「その蕭白の作品展が、今年六月、再び三重の県立美術館で催されるというのだ。無論即座に私は出掛けることに決めた。
それにしても、一体何時から蕭白に出会い、蕭白病に陥ったのか、定かでない(注2)が、十四年前の作品群に出会った時、唖然呆然、振り回されて、今の私の蕭白病を発症してしまったことだけは間違いない。
六月二十八日、私は妻と津へ出掛けた。美術館のレストランで、ランチを食し終われば早三時、展覧会の鑑賞はそれからになった。
今回は『蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち』と題されていたが、十四年の差は、展覧会のタイトルに、客寄せを期しての劇画調が齎されていた。そこには、蕭白の絵を、「美術」「芸術」という堅苦しい枠の中に閉じ込めないで、面白おかしく遊ぶ、劇画的世界として解放しようという企図、つまり、現代の蕭白に対する評価の、新たな視点を啓蒙する意図が勘ぐられる。
ところで、展覧会は、大きく分けて三つの項目に分かれ、「蕭白前史」と呼ばれる十点ほどの作品、それに「曽我蕭白」の作品群三十数点、「京の画家たち」に属する十四、五点から成っていた。
まず、「前史」の項に足を運ぶ。ここで私の目に留まったものは一点、高田敬輔の六曲一双の「竹林七賢図屏風」で、一隻の縦一二〇センチ、横が三メートルほどの水墨画である。目が注がれたのは、前回の「蕭白展」で、高田敬輔が蕭白の師だとされていることを知っていたことによる(注3)。無論初見だが、その敬輔の大作で、一見して、人物を描く敬輔の筆捌きが、蕭白のそれに通底していると感取できた。ただし、七賢人と童子三人の顔はどれも穏やかで、大人は大人、子供は子供同士人相が似ているところは、蕭白の描く個々相異なる表情の仰々しさとは全く無縁である。
その後、蕭白の作品が並ぶことになるが、展示は「蕭白出現」「蕭白高揚」「蕭白円熟」の三部から構成されていた。
「出現」の項では、いきなり、前回も見た二曲一隻の「柳下鬼女図屏風」に、やはり驚かされる。「柳下」とあるが柳の嫋々たる風情などさらになく、幹の下部に生じた、落葉した何本もの枝が風に靡き伏し、その柳枝の中、短い角を生やした鬼女が、風に靡く毛髪の先を右手に握って立っている。鬼女は三つ目婆で牙の生えた大口を開けて笑い、吹き来る風に向かって振り返っているのだ。
その後、六曲一双の「李白砕臥図屏風」、同じく六曲一双の「林和靖図屏風」、六曲一隻の「鷲図屏風」、双幅の重要文化財「寒山拾得図」等の作品をいずれも再見することとなったが、とりわけ、傍らに童子を置いて椅子に寄りかかり、梅花の巨木の下に座す林和靖の屏風では、その巨木の幹が渦を巻くように筆致激しく描かれていて、穏やかな情景に怒声の一喝を浴びせたような効果が再確認され、寒山拾得では、二人の風貌の奇妙さもさることながら、その足首から爪先までの骨と爪の際立つ度外れた身体描写に、またも辟易してしまう羽目になった。
そうした中で、初見の大作としては、七人の唐人と童子一人を描いた六曲一隻の「唐人物図屏風」と、六曲一双の「牧童群牛図屏風」があったが、後者は、蕭白らしからぬ作品で、不思議な思いをした。右隻に、二頭の牛と二人の牛飼い童子、左隻に、角突き合わせる二頭を含んだ三頭の牛と、それを樹幹上から見下ろす童子一人を描いていて、その牛も人も、剥き出しの目が全て蕭白的でマンガっぽいとは言え、面差しが皆優しく、蕭白には珍しく、穏やかな仕上がりになっていた。
この蕭白らしからぬ穏やかな和みの作画も、「高揚」の段に入ると、忽ち覆ってしまう。
まず何よりも、それまでにない明確な輪郭線と鮮烈な色彩とで描かれた三点に、また改めて仰天する。それは、一メートル程の軸の、浮世絵風な姿の「美人図」と、六曲一双の重要文化財「群仙図屏風」、それに、一七OX一三〇センチ位の軸仕立てになっている「雪山童子図」である。
「美人図」の女性は、元禄袖の青い着物に深緑の帯を下げ、元禄髷の白い面を伏せぎみにして、破れた文を口に咥え、真っ赤な下着の裾を踏まえるようにして裸足で立っているのだが、その姿は極めて浮世絵的でありながら、その顔立ちは浮世絵風美人からは遠く、そこに目の優しさを失った蕭白風美人が造られている。そして何よりも「群仙図」にこそ、色と線との表現スタイルにおいて、正しく蕭白的な美の結集が窺われる。特に右隻の、左から右へと荒れる大きな二つの風の渦と、立つ荒波の動きの中で、荒れる龍の角に足を掛けて、髪も衣服も風に靡かせて立つ仙人の姿は、その衣装の青と腰紐の赤との鮮烈な表現と併せて、作品を激しく締める決定的効果を持つ。それは、左隻左端の、風に傾く大樹の前、扇に顔を隠す西王母を右に吹き誘うように描く手立てに見事応じており、蕭白の最高傑作の一つだと、私には見える。それに比すれば、「雪山童子図」は、画面左下に、爪鋭い足を投げ出し、牙を剥いて座る青鬼に対し、右上の樹上から、赤い布を腰に巻き、まるで女性のような肉付きの長髪美肌の裸少年が、笑いかけるかのごとく、両手を広げて立っていて、その少年の背後に満月のように向背が描かれていることからすると、温和で、蕭白的激しさからは遠い。
その後何点もの絵が並んだが、中では、襖八枚に描かれ た、初見の「竹林七賢図襖」の、師だと目される高田敬輔のそれとはまるで違う、七賢の蕭白らしい異形の風貌を楽しむことができた。
最後の「円熟」欄では、屏風や襖に描かれた山水図がほとんどで、人物を描いたものは、「関羽図」「達磨図」の二点だけだった。どちらも再見ものだが、激しく太い一筆書きのような墨の流れの中に描かれた達磨の顔が、笑いを誘う形相に結晶している。
こうしてみると、蕭白の人物風俗画の素材は、全て中国を中心にした、古典的な逸話、人物であって(注4)、その教養が相当幅広く長けたものであると知らされる。そして移動放浪の中、憧れ通そうとしたのが脱俗の生であり、それが侭ならぬ世俗の自己を意識するとき、招いた技法こそが、激しい筆捌きによる怒りと、嘆きの、表情と形の造形を齎したものであろう。
ただ、当然のことではあるが、再見の作品が殆どで、しかも、前回に比し点数も半数に満たぬ有り様なので、蕭白の確認を越える面白さはなかった。致し方あるまい。
ただ最後の「京の画家たち」の項で、若冲、大雅、蕪村、応挙等の作品を見たが、中で若冲・大雅の「関羽図」と蕪村の「寒山拾得図」が、蕭白の人物像との関連もあり、見甲斐があった。とりわけ、重文に指定されている蕪村の「寒山拾得図」は、蕭白の逸を越えた貫禄を備えており、画家蕪村の重さを実感させられ、今日の大収穫となった。めでたし、やれやれである。
ところが、ショックの蕭白作品十点余が、今度は名古屋のボストン美術館へ、『ボストン美術館、日本美術の至宝』と名乗った展覧会に、同館所蔵の日本美術の多数の優作と共にやってくるというのである。六月の行き掛かりもあり、展覧会前期の八月十日と、後期の十一月七日の二度に亙って金山へ、今回もいずれも妻と出掛けることになった。その二回の蕭白作品の鑑賞体験を記して置く。
蕭白の出品作最大の売りは、そのポスター、パンフレットを飾った初来日の「雲龍図」の大作である。それは、一面が縦一六〇×横一三〇センチぐらいのものが八面から成る、長さ一〇メートルを越す大スクリーンに、左右に亙って一匹の龍だけが描かれているのだから恐れ入る。どうやら元は八面からなる襖絵だったらしいのだが、一つの作品として修復を完成させ今回の出展に及んだというのだ。よくこんな大作として保存され得たものだと、背筋に驚きの戦慄が走る。
右の四面には、巻き上がる蕭白的波浪の中に、鱗に鎧われた龍尾が走り、左の面には、その右側二面を占めて龍頭が右を向いて牙を剥き、その頭の左には、巨大な龍足の爪が、渦巻く風の左に向かって翳されている。
その巨大な横長画面が、一続きの絵として鑑賞できるように、白い展示台の一室が設定されていたのは、当節の美術館の配慮として見事で、嬉しくなる。
こんな巨大な龍頭など、まず他には見られないであろうと、思うだけで愉快になり、その愉快に呼応するかのごとく、かっと剥かれた龍の目が、目の上の庇の毛と相俟って微笑ましく惚けた風情に仕上がっているあたりは、これぞ蕭白風というものだろう。
作品がこれだけ大きいと、描かれて見える部分より、黒く塗り込められた見えない部分が、闇の深さをまざまざと見せつけて、それが惚けた龍の風情と相俟って、絵に心理的な奥行きを造っている。龍頭のスケールに腕を組んで対峙することになろうとは、これぞショックである。
前回の三重の蕭白展で見た、二点の屏風絵に再見した。二点とは六曲一隻の「風仙図屏風」と六曲一双の「商山四皓図屏風」だが、特に前者は、私に蕭白の印象を決定付けた傑作である。なにしろ屏風の左三曲が、巨木を巻き込んで吹く風の、逆巻く巨大な真っ黒な渦で描かれているのである。風を明確に渦として描いた作品など見たことがない。蕭白ならではの異様な表現というものだ。しかも、右の三曲には、吹く風に向かって剣を手に立つ豪傑と、その右に、折り重なって風に吹き倒されている二人の従者が描かれており、それが、風の齎す異様で動的な光景を、マンガチックに仕立て上げているのだ。それを改めて確かめ直した。
初見の風俗画では、二曲一隻の「浅比奈首曳図屏風」と六曲一隻の「酔李白図屏風」の二点かあり、前者は、おそらく豪勇無双の浅比奈三郎義秀が縄で鬼と首引きをしている滑稽振りを描き、後者は、杜甫の「飲中八仙歌」の李白の部分(注5)を踏まえたもので、左三曲の中央に小舟の上で櫂を肩に手を翳して右方を見やる船頭を描き、右三曲には大樹の下、 何人もの男に抱え起こされて危うく立つ、髭面の豊満な李白が描かれている。これにも自ら酒仙と称した李白の滑稽が描かれているが、李白を見やる船頭の姿によって、哀しさが漂っており、そこに蕭白を重ねると、この作以上の侘しさを己が生に被せて生きたのだろうと思いもした。初見、再見のいずれもに鑑賞の悦楽を得ることができ、やれやれ、ケッコー。
(二〇一二、一一、一五)
注1 辻惟雄の「狂気の里の仙人たち」は、岩佐又兵衛他、若冲・蕭白等六人の画家論を纏めた『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫)に収められている。因に、そこに紹介されている、「群仙図屏風」に記された蕭白の署名は、以下のようなものである。
従四位下曽我兵庫頭暉祐朝臣十世孫蛇足軒蕭白左近次郎曾我暉雄行年三十五歳筆 (右隻)
式部太輔蛇足軒暉王入道十世曾我左近次郎蕭白暉雄筆 (左隻)
注2 一八八三年には、ボストン美術館所蔵の『日本絵画名品展』(東京国立博物館)が、翌八四年には『近世日本の絵画京都画派の活躍」展(京都国立博物館) が、更に八五年にはニューヨーク・バークコレクションの『日本美術名品展』(名古屋市博物館)が催され、そこでそれぞれ蕭白の作品に出会っており、それが蕭白体験の最も古いものだとすれば、それはほぼ三〇年の昔で、私は五十歳過ぎて、蕭白の夢魔に取り憑かれることになったということか。
注3 高田敬輔は、京狩野の狩野永敬の弟子として独立した画家だが、蕭白が高田敬輔の弟子として学んだ証拠はどこにもなく、画風に似たところがあって、高田が蕭白の師だったと見なされているに過ぎない。高田の没年からしても、蕭白が高田に師事した期間は短いものだったと見られている。(マニー・L・ヒックマン「曽我蕭白と高田敬輔」《『江戸の鬼才曽我蕭白展』朝日新聞社、一九九八年》による。)
注4 以下、本展図録の作品解説により、簡単に紹介して置く。
Ⅰ「柳下鬼女図」は、謡曲「鉄輪」に由来するかと言われている。
Ⅱ 林和靖は、西湖のほとりに隠遁した北宋の文人である。
Ⅲ 「牧童群牛図」は、禅の教え「十牛図」に基づくと言われている。
Ⅳ「群仙図」は、中国の八人の仙人を描いた吉祥画 で、女の仙女は桃と共に描かれているところから西王母と見做されている。
Ⅴ 「雪山童子」は、修行中の前世の釈迦が、帝釈天が釈迦を試すために姿を変えた飢えた鬼に、自らの身体を投げ与えようとする説話による。
注5 今、岩波文庫の松枝茂夫編『中国名詩選』(中)を借りれば、「李白は一斗、詩百篇/長安市上酒家に眠 る/天子呼び来れども船に上らず/自ら称す臣は是れ酒中の仙と」とあり、「天子呼来不上船」について、「玄宗が舟遊びに召したとき、李白は泥酔のあまり、玄宗近侍の寵臣高力士に助けられてようやく船に乗ったと いうエピソードがある。」と記してある。