私は、若年の砌、その若年の故にこそ、悲劇的に短い生涯を終えた、樋口一葉や石川啄木に、同情的な親しみを寄せ、 爾後その親情はずっとこの年まで続いてきているのだが、その心情は、当然夭折した画家に対しても、同じように働いてきた。その画家とは、青木繁であり、関根正二であり、それ に村山槐多であった。音楽家では、無論滝廉太郎がそれだが、ここでは措く。
さて、夭逝画家三人のうち、最初にその展覧会を観ることができたのは関根だった。もう十年以上の昔、一九九九年の秋、私は愛知県美術館で、生誕百年の『関根正二展』を観ている。それから四年後の二〇〇三年の春、今度は、竹橋の東京国立近代美術館で催された、青木の『青木繁と近代日本のロマンティシズム』展を観に出掛けている。残るは村山だけになったが、青木からもう八年が過ぎていた。
その村山槐多の展覧会が、どうやら今年の見て歩きの締めになりそうになってきた。それは、『天才詩人画家22年の生涯!村山槐多の全貌ーその芸術の神髄と大作の謎?山本鼎との真実ー』と長々しく銘打ったもので、村山槐多・山本鼎両人の出生地の縁を以て、岡崎市美術博物館で、師走の三日から開かれることになったからである。
私には、それは、何故か年の瀬に最も相応しいものに思われ、十二月七日、早速妻を誘って岡崎市美術博物館へ足を運んだ。
因に、山本鼎は一八八二(明治一五)年、村山槐多は鼎より一四年後の一八九六(明治二九)年に共に岡崎で生まれた。二人は従兄弟同士の間柄にあったのだ。無論、正確な年次を記憶しているわけではないが、鼎が、明治の三十年代末には、その版画活動を通じて美術界で評価を得ていたのに対して、槐多の画家への挑戦は大正に入ってからのものだということ位は、分かっていた。とりわけ、峠は、雑誌『明星』にその版画が掲載されていたり、北原白秋の『邪宗門」にその版画が挿絵に使われていたりしていたこともあって、版画家としての彼の名には馴染んでいたから、展覧会のタイトルにその鼎の名が登場しているのに出会うと、槐多展への関心が一際増幅したこともあったのである。
しかし、来てみれば、歳末でウイークデーだということもあろうが、観客は少なく、槐多には気の毒な侘しさだった。 加えて、ここの会場は、回路の展示壁面が黒く、それが、村山槐多の作品のイメージに大きな影響を齎し、この侘しさを助長しているようにも疑られる。
その黒く蔽われた壁面に最初に登場したのは、彼が中学二、三年の頃に描いたものからだった。それを見ると、彼が絵好きであると同時に本好き、つまり出版文化に自分の未来を重ね見る少年であったことが分かる。一枚は五〇×六〇センチ位の紙に、紆曲する河の青色の先、地平を昇る太陽に向かって、右手を挙げて立つ男の後ろ姿が、水彩で描かれていて、上部に「A HAPPY NEW YEAR」と「1911 JUNUALY」の大きな文字、下部に一行「DOKUJIN・SHA」の文字が見える。そして今一枚は、それより一回り大きな紙に鉛筆描きされた、自分たちの雑誌のポスターである。絵は、満開の桜の林とその奥に広がる近代的なビル街を背にして、柵に仕切られた手前の広場を背後に顔を向けて逃げ走るジャケット姿の青年を描いており、左肩に五段に分けて、「雑誌、強盗、不定期刊行、一部金十銭、発行所毒刃社」と書かれている。誌名「強盗」の二文字は太く大きめに書かれている。
どちらも、構図には見るべきものがあるものの、人物像は、デッサン力を欠く幼さが露呈していて、そこに笑まいを添えることになる。と同時に、その社名や誌名の語に、社会的良識にイモラルに刃向かおうとする横着な少年の姿勢を読まざるをえなくなる。
そういえば、自分も中学三年の頃、友人と語らって、小さい文字で書いた新聞を作り、記事の写真を絵で描いたり、見出しの文字を、記事に応じて活字風に大小に書き分けたりして、回し読みをしていたが、私たちにこんな横着な遊びの調子はなかった。あの新聞が何新聞と名乗ったか、今はその記憶すらなく、それが残ってもいないことを思うと、槐多のこういう資料がよく残されていたものだと、それが不思議になる。と同時に、彼の家が、そういうものまでも保存し残す、 私などからすれば、恵まれたものであったことが想像され羨まれもする(注1)。そこには雑誌に使われた小さな水彩画が何点も展示されていたが、少年の遊びの面白さはあっても、絵画を造形しようとする技術的拘泥・挑戦は窺えなかった。遊ぶ楽しみに現を抜かしてはいても、学ぶ楽しみに溺れてはいないのだ。
続いて、一七歳の折り描かれた油彩画三点が登場した。その内の一点は一メートルに六〇センチ程の大きさで、荷物を肩に負った人物一人が行く林の中の道を描いた風景画だったが、道に落ちる光と木々の形の交錯する地面や、木立の中に射す日差しの表現は、印象派以後、一般に見かけるごく常識的な描写に倣ってはいても、色彩の印象派的な微妙繊細な写実的明るさはなく、色彩にも線描にも未整理な湿っぽさが漂っていた。他の二点は、花器に生けられた花を描いた五〇セ ンチ程の静物画だったが、これも、描写に斬新さは見られず、脳裏に、岸田劉生を始めとするフューザン会のメンバーの作品の色具合や、かつて見た、花瓶のチューリップかなんかの花を描いた関根正二の静物画の色具合が蘇ってきて、その色彩に、明るく透明な爽やかさは矢張りなく、重く濁った薄暗さを感じさせる絵だった。
つまり、若くして既にどこか重苦しく、スマート・洗練からは程遠い、どうやらそれが槐多らしい色使いというものらしい。しかし、こういう油彩の色使いの重さは、大正初期のその時代の風景画や静物画が持つ一つの風潮でもあったことは、岸田劉生の作品などを思い出せばよく分かることで、決して槐多の独創性とは思われない。もし槐多の独創があるとすれば、劉生たちのように都会的に洗練されることのない、 泥臭く稚拙な力強さにある言とえば言えるか。
同じ年頃に描かれた、A3サイズの鉛筆描きの風景画「千曲川風景」「信州風景(子守の少年)」ーー手軽なスケッチではない、手を込めた完成品だと分かる二点があったが、その鉛筆の線を重ね描き込んだ風情も、暗い重苦しさを感じさせて、爽やかな明るさを欠き、同時にやはり写実のデッサンカを欠いた稚拙さを露にしていた。以後今回の展覧会で、この暗さと、中学時代の都会的な発想からは全く離脱してしまった泥臭い稚拙さとに、私は囚われ続けることになった。
つぎのⅡ章のコーナーは、「画家を志して上京」した、槐多十八歳の作品二十数点が並ぶ。まず鉛筆の輪郭や形の線も定かに描かれた藁半紙大の水彩画「紙風船をかぶる自画像」 の作品が目を引いた。頭に畳んだ紙風船を被った自画像で、 飾り気のない眼鏡の奥から、目はこちらの視線を外して脇に注がれ、紅を点したような下層によって、顔が少年っぽく造作されている。若者に通有の自己主張自己宣伝の企図を、多少のユーモアで救っている作品に見える。他にも自画像が二枚あったが、どちらも絵筆の太いタッチで大雑把に描かれているところからすると、槐多は己の顔と向き合い、自己という存在と、しかと対峙しようとはせず、自分に自惚れ、自惚れた気儘な自分に振り回されている混沌に、自分の個性を矜恃していたように思う。大人に成り切れない生意気な資質がよく見える。
ここには、気儘な態度が筆遣いにそのまま現れたような、 私からしたら、残すに耐えないような水彩の風景画が、何点もあったが、そんな中に一点、庭の草木を背景にして、左向きに俯き加減に腰掛けている、着物姿の「庭園の少女」と題する、六〇センチほどの水彩画は、青い色で情調を統一しようとする算段がよく生きていて、始めて調和のとれた作品らしい作品になっていて、ほっとできた。
そして、槐多十九、二十歳の作品群を展示した「野生へのまなざしヘーアニマリズムの時代」纏とめたⅢ章のエリアに移る。この「野生」の代表作こそは、胸先で合掌して立つ素っ裸の男が前に向かって威勢よく放尿している状態を描いた 「尿する裸僧」という作品である。つまり、人間もアニマルであることから逃れられない存在であることを直接的に表現した、八〇×六〇センチはあろう油彩画の結構な力作であり、実のところ、私における村山槐多という画家は、この作品のお陰で記憶されることになってしまったのである。
この作品が、偶発的な遊びの結果ではなく、このテーマに拘りがあって描かれたものであることは、下書きに当たる鉛筆画と、それとは構図の異なる版画の放尿裸男像が併せて展示されていることによってよく分かった。拘った「野生」は、槐多にとって、決してスタティックな存在ではなく、どうやら、合掌する以外に手の打ちようがない、動的で始末のつかない何者かなのだ。それは、その何者かを見据えようにもそれに振り回されてしまっている己への、哀しみの表現になっているように見える。その意味で、この作品は彼の作品の中で、最も透明感を持ってもいた。
その哀しみがあったればこそであろう。この時期の「野生へのまなざし」で捉えられた人物画には、牽かれるものが多かった。どちらも六〇センチ位の木炭画の「猫を抱ける裸婦」と油彩画の「裸婦」の、これまでにない存在感、油彩画の「自画像」の、激しく力強い筆のタッチで描かれた眼鏡の奥の眼差しの凝縮された力、また、前項でみた「庭園の少女」と同じような構図で、同じように水彩で描かれた一メートル近い「カンナと少女」の、前作には見られなかった少女の可憐な目の確かさなど、槐多の対象への視線が、自己顕示的にではなく、ある優しさに包まれて注がれていることが感取された。そして、相変わらずデッサン力の乏しい描写の稚拙さが、この際少女の幼さの表出に効果的に働いていることもよく分かった。
なお、このコーナーには膨大なスケッチや書簡類が展示されていたが、デッサン力の幼い稚拙さが、最早笑いで逃げすますこともならぬほどに、カットの殆どに顕著に認められた。ただし、書かれた文字世界については、ここでは触れない。
こうして、最後のⅣ章は、槐多の死ぬ前の二年、二一・二歳に描かれた作品が、沢山の詩文やスケッチ画と共に八十点並んで、死を控えた時間の充実振りを感じさせるが、ここでも、完成した絵画作品だけを鑑賞の対象として見て行きたい。
まず、四点の自画像(一点は油彩)があったが、それは十 八歳当時の自画像とは違い、視線がどれも、見るこちらに注がれており、眉間の太い縦皺の表現とともに、しっかり自己に向き合って描かれた粘りを感じさせる。しかも、その内二点は、頭髪と目元において、他の二点より年配の大人っぽい顔立ちに仕立て上げられてもいる。間違いなく、槐多は、自画像」の、激しく力強い筆のタッチで描かれた眼鏡の奥の眼差しの凝縮された力、また、前項でみた「庭園の少女」と同じような構図で、同じように水彩で描かれた一メートル近い 「カンナと少女」の、前作には見られなかった少女の可憐な目の確かさなど、槐多の対象への視線が、自己顕示的にではなく、ある優しさに包まれて注がれていることが感取された。そして、相変わらずデッサン力の乏しい描写の稚拙さが、この際少女の幼さの表出に効果的に働いていることもよく分かった。
なお、このコーナーには膨大なスケッチや書簡類が展示されていたが、デッサン力の幼い稚拙さが、最早笑いで逃げすますこともならぬほどに、カットの殆どに顕著に認められた。ただし、書かれた文字世界については、ここでは触れない。
こうして、最後のⅣ章は、槐多の死ぬ前の二年、二一・二歳に描かれた作品が、沢山の詩文やスケッチ画と共に八十点並んで、死を控えた時間の充実振りを感じさせるが、ここでも、完成した絵画作品だけを鑑賞の対象として見て行きたい。
まず、四点の自画像(一点は油彩)があったが、それは十 八歳当時の自画像とは違い、視線がどれも、見るこちらに注がれており、眉間の太い縦皺の表現とともに、しっかり自己に向き合って描かれた粘りを感じさせる。しかも、その内二点は、頭髪と目元において、他の二点より年配の大人っぽい顔立ちに仕立て上げられてもいる。間違いなく、槐多は、自己の心身の変化を感じ取っている。
ここでは、さらに、何点かの女性像があったが、とりわけ成人の女性を描いた作品は、私には、彼の大人に成ったことを示す、最も詩的な情調を持った作品に見えた。
中でも、六〇センチ程の、山に囲われた丸い湖を背景に手 を握って座る和服姿の面長の女性を描いた「湖水と女」という油彩画は、暗い色彩の中に深い色気を漂わせていて、それまでの槐多の色使いが最も洗練されて見え美しかった。モデルが誰かにかかわりなく、描かれた女の細長の目が、背後の湖の底知れぬ深さに呼応した哀しみを伝えていた。
細かな線描に精彩を持つ、鉛筆書きの「コスチュームの娘」や二点の裸婦像もそれまでに無い行き届いた仕上がりを示していて、それが、間違いなく作品の力になっていた。
そして、ここでも、それが最後の少女像となる油彩画「バラと少女」があったが、描かれている少女は、前の二作と違ってバラを背にした立ち姿で描かれており、その前方を見やる「少女」の面差しは最早「娘」のものになっていて、そこに幼さを窺うことはできなくなっていた。
こうした女性像や少女像が語りかけてくるものは、紛れもなく、大人に憧れ、成人の世界に脱出し落ち着こうとする、 槐多の寂寥であり、日常的な分別の世界に落ち入り安着しなければならぬと覚悟することへの槐多の夢だった。言い方を変えれば、野生に振り回され、それこそを自己の個性と得々と生きてきただけに、近代的絵画に通有の洗練と明るさの中に身を置くことが叶わぬまま、野生の生に終止符を打たねばならぬ、自らの身体的命運ーー結核が基で二一歳の半ばには一度危篤に陥り、二三歳を迎えた大晦日には、遺書を認めていたーーに対する寂寥だった。私には、そう見えた。無論年譜上の事実については後で確かめたに過ぎないが、作品は定着性のない我が儘生活を伝えており、それが往時にあって、 どういう危険を身体に齎すかは、ごく普通に想像出来ることだ。
また、この最後の作品群には、一三〇×三〇センチ位の、水彩で描かれた和装の女性像や山水画的風景画の軸装の物が五点(どの作品も稚拙な出来である)あったが、それは、槐多の感性が、近代的な洋画家としての意識によって培われてきたものではないことを裏付けているようにも思われたものである。
その点でも、槐多の画家としての生は、正にその道筋において混沌の中にあり、混沌の内に、混沌ゆえに閉じられたものであったと言ってよさそうだ。常識的には全く馬鹿な生き方をしたものだということになり、そこに並の者の成しえない個性的生を、他を絶する才として評価することになってきたのであろう。
その意味で、槐多的風趣は、こちらの胃腑に消化しかねる苦味を届けることになった。
これでは、現代の一般には持てないよナ、と観客の少なさを受容して、私は槐多展を見終える。
山本鼎の方は、別室に纏めて九〇点近い作品が、展示されていて、こちらは気分よく鑑賞できた。だが、その快感を記すのは、この年の瀬、槐多を観た後の私にはしかねることだ。
(二〇一一、一二、一五)
注1 後で図録に記載された年譜によって知ったのだが、槐多の父村山谷助は、教員を目指し上京、森鴎外の弟潤三郎の家庭教師を勤め、同じ鴎外邸に女中奉公していた岡崎藩御典医山本良才の娘たまと、陽外の取り持ちによって一八九六(明治二九)年結婚し、鴎外が「槐多」の名付け親だと言われているらしい。谷助は高知県の中学校、師範学校の教員を勤めた後、京都に転じ、京都府立一中、府立五中の先生になっており、槐多も府立一中を出ているところからすれば、その家庭は、文化的都会的で、経済的にも恵まれた、それだけ気儘な生活が許されやすい環境下にあったと言ってよいだろう。