川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

二人のエイキュー

 どちらもエイキューには違いないが、二人は余りにも違い過ぎる。

 エイキューの一人は、一般的な分類に従えば、シュールリアリズムに則った洋画家ということになるのだろうが、その作風の幅の広さが、これぞ彼の傑作というに足るような作品を、私に印象づけさせることはこれまで絶えてなく、彼を、戦後の現代絵画の世界に対する知的チャレンジャーとは感じているものの、その作品は多様繁雑にすぎて、これまで茫漠たるイメージしか私に残していない。

 そのエイキューこそ「瑛九」である。しかし、無論「瑛九」が本名であるはずはないとは思っているのだが、その本名を尋ねないできているし、また何故「瑛九」と名乗ったのか、また名乗りの文字の意味が何なのかも知らないでいる。つまり、私にとって瑛九は全く得体の知れぬ存在であり、その知れない得体の朧が、これまで私に英九を引き留めさせてきた。

 その瑛九の、五百点を越す作品を総括的に集めて、埼玉県の二ヶ処の美術館で見せるというのである。見知らぬ土地の迷路にはまり込むような、瑛九に対する心許無さに私は魅せられて、その二ヶ処の埼玉県立美術館とうらわ美術館とを訪ねることにしてしまった。そして、十月十五日、私は埼玉へ出掛けたのである。

 まず行き慣れた北浦和駅西の県立美術館の方から、私は訪ねた。

 展覧会の冒頭、まず、私は瑛九がエスペランティストとして青春を迎えていたことを知らされて驚く。会場で最初に出会った彼の作品は、小品ながら油彩のザメンホフの肖像画だったのである。ザメンホフの肖像を写真で見た記憶もなく、私の見る最初のザメンホフ像なのだが、洋画家としての瑛九の力量を、これに充分感じ取ることができた。そこには資料として、彼が、妻となる女性谷口ミヤ子に当てたエスペラント語書きの書簡なども展示されてもおり、エスペランティストとしての彼ののめり込みが、半端なものではなく、宮沢賢治を遥かに超えた取り組み方であったことを伺わせる。そしてこのコーナーには、ミヤ子のテーブルに向かって読書する上半身の肖像画があり、その白襟に半袖紫色のブラウスを纏った、左からの日差しを受けた女の知的な面差しの表現には、描き手の愛の眼差しを気持ちよく感じ取ることができた。この一点から、昭和十年頃と言えば、私の生まれて三歳頃の事になるが、当時の宮崎生まれの瑛九と彼を取り巻く環境が、私とはくらべものにならぬ、随分文化的にモダンで、経済的にも恵まれたものであったことが伺える。

 次いで、その瑛九の、一九三〇年代から戦後の五〇年代へかけての画壇における活動の経緯が、彼の様々な挑戦的発言の紹介と十数点の作品とによって、「思想と組織」のタイトルの下に展示される。

 その中で、最も象徴的に見えたのは、一九三七(昭和一二)年、つまり日中戦争が始まる時期に、彼が主体的に、その創立から参加し活動した組織が、「自由美術家協会」というものだったことである。「自由」という語こそが、戦争への暗い道を辿る中での、彼の創造活動の闘争的理念であったことが、エスペラント語との拘わりとも兼ね合って察せられる。紹介されていた「自由コソ唯一の生活のキソである!」、「画家としての生活態度のアカデミズムから自己を解放しなければならない」といった言葉が、そのことをよく裏付けている。画家としての絵画的自由の追求の方法として、これまでの表現形式から己を解き放ち、自由で多様で真新しい表現手法への挑戦が企図されたことを、それぞれの表現の少数のサンプル作品によって伝えていた。

 そういえば、朝鮮動乱後の一九五五年頃だったろうか、私は、瑛九の活動が「アカハタ」の(日曜版だったか)紙面を飾っているのを知って驚き、彼が共産党員であることを知ると同時に、その作品が、私の思っている共産党のプロパガンダ的芸術志向からはみ出しているように感覚されて不思議だったことを思い出す。同じ洋画家の共産党員であった内田巌(注1)の写実的描法に徹した姿勢とは大いに違っている。「前衛(アヴァンギャルド)」という語は、共産党の考えと深い関わりを持つ語だろうが、瑛九が、そのアヴァンギャルドという語に相応しい芸術活動をしたのは間違いない。そのことが、ここで私たちに知らされたことになる。

 七〇センチ程の油彩の「窓をあける」や「鳩」には、曲線を主体にした色彩の組み合わせの美しさに、クレーなどの影響の濃い抽象主義が見え、同じく一メートル近い油彩の「街」とか「窓」は、直線主体の色とりどりの四辺形を組み合わせたような作品で、間違いなくフォーヴィズムの影響が見え、油彩の他には、三〇センチにも至らない、映された写真の印画紙に細工を加えた「プロフィール」や「芝居」の、フォト・デッサンと瑛九が呼んだ作品、切った写真を組んでシュールな画面に仕上げたコラージュ作品、そのコラージュやフォト・デッサンの面白さを生かしたエッチング作品、さらにそれをカラフルに着色したリトグラフ作品等があり、小品ながら実に多様な領域での、実験的と言っていい絵画的挑戦の跡が、そこに示されていたのである。

 こうして五十年代後半には、自らを「画壇のままっ子、絵描きの落第生」と言い、「純粋に芸術家として静かに前進的な仕事をして行きたい」と言った瑛九だが、一九六〇(昭和三五)年一月には、その四八年の生涯を閉じてしまったことが分かる。

 この瑛九の芸術活動の概略の紹介のあと、現代画家である 瑛九の最も新しい側面としての写真を使っての創造の成果が、八〇点近い作品によって示されていた。フォト・コラージュとフォト・デッサンとによる、光と陰との、重層的に仕 組まれた様々な映像の表出へのチャレンジが、正しく現代という時代の軽い明るさをシュールに示していて面白い。

 見ていて、私は、かつてその生誕百年展で観たマン・レイ(注2)のことを思い出し、瑛九が、紛れも無く第二次世界大戦以前に活躍したマン・レイの仕事振りの、日本における最大の発展的継承者であったのだと痛感する。まだ二十年頃の昔、マン・レイ作品の、写真のソラリゼーションの光の逆転した映像の面白さや、映像を組み合わせるコラージュの技法の面白さを、雑誌の『カメラ』を通じて知ったことも思い出す。その『カメラ』に載っていた、レイが撮ったジャン・コクトーの手の写真があって、それが、高村光太郎の手の彫刻(無論、実物にはまだ出会っておらず、美術本に載っている写真で知っているに過ぎなかった)より、はるかに私に衝撃を与えたことまで思い出す。

 ともあれ、写真が、マン・レイによって現代芸術として広く認知されたことは確かだが、彼は単に芸術写真家として、存在したのではなく、その時の生誕百年展を通じて、彼が写真の技法を生かして、リトグラフやアクアチントの版画を多数残しており、それが、油絵や、現代彫刻の一種である、日常的合理性を破壊することにその意義を持つオブジェの作成にまで及んでいる、多能多才振りを発揮した芸術家だったことを窺うことができたものだ。そしてその多才振りを、今、私は瑛九に改めて認めることになったのである。

 瑛九が唱えたフォト・デッサンやフォト・コラージュの写真表現は、版画(瑛九の場合は、エッチングとリトグラフである)になり、油彩・水彩・色鉛筆のシュールな絵画作品になり、そうした色彩が今度は写真の世界に、正に映像的に取り入れられていく、その活動の過程を目まぐるしく味わうことになった。瑛九が、マン・レイを受け継がなかったのは立体的なオブジェの表現だけである。

 そして、展示は「点へ......」のコーナーに移る。そこには、大きさも色も様々な点で画面全体を埋め描いた、極めて抽象的な点描作品が、大は二メートル近いものから、小は五十センチ位のものまで、四十点程あった。制作年を見ると、一九五七・八九年のもので、死ぬまでの最後の三年間に描かれたものばかりだった。解釈の仕様によっては、様々な点が、無限の宙に散り、宙を埋めている、言ってみれば、己が体が粉々に分解して四散し、宇宙に吸引されていく、終焉に対する夢想願望の表現なのだ。夢想であればこその、色彩的明るさが、我々を救っていた。

 埼玉県美での展示はここまでだった。時間は十二時になっている。

 北浦和から浦和へ一駅戻って、駅前の地図で目的地のうらわ美術館への道を確かめ、人通りの賑やかな商店街を通って十分程歩き、センチュリー・シティビル三階の美術館に着いた。埼玉県美では、敬老手帳を示し無料で入館できたが、こちらはそういうサービスはなく、入館料八百円を払う。

 こちらの展示はまず、瑛九と名乗って画家としての生を始めるまでの、杉田秀夫という本名で美術評論家として活動していた初期の実情が、文献資料によって紹介される。

 二十五歳の時『眠りの理由』というフォト・デッサン集を出版したとき「Q、Ei」のサインが始めて記されたのだが、それがどうして「瑛九」と文字化されたのかは分からぬ。ここで、芸術家瑛九が、写真の映像作品を基点として出発したものであることが、保証されることになった。そしてこのフォト・デッサン集の契機になるものとして、マン・レイの写真が紹介されており、私のマン・レイの記憶の蘇生が、どうやら身勝手なものではなかったようだと嬉しくなり、歩行の疲労も軽くなる。

 次いで、「絵筆に託して」と題して、瑛九の油彩を中心にした絵画作品が並ぶ。印象派的な明るい色彩の光景画や、元の実態を様々に解体変形させて描いたカラフルなフォーヴィスム的作品や、線と色彩の錯綜する全くオートマティックな作品や、点と円によって彩られた晩年の作品までの八〇点が並ぶ。そこには、パウル・クレーや三岸好太郎や古賀春江の参考作品が数点添えられてもいた。私には、初期の写実的な 風景画や、室内の妻のミヤ子の顔を描いた「逆光」という作品に、画家の優しい眼差しを感じいとおしむことができた。それは瑛九の作品の多くが、カメラという機械を基にした無機質な様相のものが多いだけに、傾いた心情だったかも知れない。

 そのあと、その無機質性から逃げ出すために描いたような、筆で瑛九のサインを入れた水墨画が十点ほどあったが、どれも作品とは言い難い代物で、演じきって生きることの弱さを彼も人並みに持った証しのように見えた。

 そして、締めは、晩年の五年程を過ごした浦和での、瑛九の自らの切り開いてきた芸術領域の教育と普及の跡が、そのフォト・デッサンとリトグラフ、エッチングの領域の作品三〇点程によって飾られる。ここで、私の目は、最早何かを求めるようには働かなくなっていた。草臥れもあったかも知れないが、埼玉県美の方の最後に比べて、こちらの最後には花がなく、かといって四十八歳でその生涯を閉じた晩年の作品としての、情調を感取することも叶わないからだった。私はブスッとした面持ちで会場を後にした。

 それにしても、瑛九に些か馴染めたことはよかった。彼が、向後妻ミヤ子の二点の肖像画によって鮮明に記憶されるであろうと、私には予感される。私は急に何か食べたくなってきた。既に二時になっている。

(二〇一一、一〇、三〇)

 

 

 

 注1 内田厳については、『緑』五一九号(二〇〇六年六月号)に、「横顔のリリシズム」と題して記載している。

 注2 マン・レイの纏まった展覧会に接したのは一九九〇年のことで、その生誕百年を記念して五百点にも及ぶ 作品を集めてのものだった。それを尼崎のつかしんホールで観たのだが、あのホールは今もあるのだろうか。

 

 追記 後日、『マン・レイ展』については、去年の夏、六本木の国立新美術館で歴とした展覧会を見たことに気づいたが、私はそれを全く忘却してしまっていたのである。何より、その時上京して観た二つの展覧会、上野の西洋美術館で催されていた『カポディモンティ美術館展』(これについては『緑』五九八号に掲載)と、東京芸大美術館で開催されていた『シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い~交錯する夢と前衛~』展(これについては『緑』五九九号に掲載)とが私の関心を引くところ強く、また国立新美術館で同時に観た『オルセイ美術館展』に比べても印象が弱く、それで記憶の底に滅却してしまったのであろう。改めて二つの『マン・レイ展』をその図録を基に比較してみても、二〇年前のつかしんホールでの作品群の方が、現代芸術における刺激的な仕事振りをよく伝えていることが分かった。私は自分のボケを嘆かないで済み、 一寸救われた。

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