川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

昭和モダニズムが醸し出した世界ー少年時代の世界への印、藤谷虹児ー

 私にとって、蕗谷虹児は、少年時代、樺島勝一や梁川剛一のように身近な画家では決してなかった。虹児は、少年の私が、遠くからいつも密かに視線を送っている、好きな良家のお姉機のような存在で、少年の私の心に強い影を落とした画家である。

 彼の絵は、少年時代、私達が最も親しんだ『少年倶楽部』に登場することはなく、『少女倶楽部』の方に登場していたが、私には、それより『少女画報』の表紙絵を飾っていた、大人っぽさの見える少女の方に引きつけられ、武平町にあった図書館で、その雑誌を手に取る時の快感は、私の密か事になっていた。一般に男の子は、大人の女性雑誌に興味を抱くものだが、『主婦の友』や『婦人倶楽部』に、蕗谷虹児の絵を見つけることはなく、彼の絵は「令女界』というどこか高級感のある雑誌の表紙をいつも飾っていて、これも書店で手に取ることが、私の内緒事になっていた(注1)。

 蕗谷虹児は、私にとっては、いつも女性の側にいる画家だった。同じように女性の側にいても、円らな瞳の、あどけなく可憐な少女を描く中原淳一とはまるで違っていた。長屋暮らしの私などからは、育ちも家柄もまるで遠くて、憶測さえままならぬ、それだけに不可解な魅力に溢れた、上品で取り澄ましたお姉様のような女性を描く絵描きとして、その「虹児」という名前と共に、ミステリアスな趣で記憶されていたのだ。

 その蕗谷虹児の展覧会が、刈谷で催されるというのだ。昔憧れたいいとこのお姉様に会える機会が訪れるというのだ。少年の日に還って、私の胸の時めかぬ訳がない。

 私は四月二九日の祝日、刈谷市美術館を訪ね、「ーー魅惑のモダニストーー蕗谷虹児展」を見た。不思議な気分を味わう午後になった。

 子供の時には、その不可解にこそ魅せられていたお姉様の、生みの親の隠れた内側を、年老いた今の覚めた視線で垣間見た結果、不思議な思いが私を包み込んだのである。

 展示は、虹児の一九二〇年代前半ーー因みに、一九二〇 (大正九)年、虹児は二三歳であるーーの、デビュー当時の作品から始まるが、その当時の口絵・挿絵の原画を見ていくと、その女性の多くが、面を伏せ気味にした俯いた和服姿で描かれていて、竹久夢二(注2)の影響は歴然としている。しかし、夢二のような、下半身の異常に長く胸の窪んだ、病的に誇張された姿ではなく、どれもバランスの取れた姿態で描かれている。何よりも夢二と違うのは、虹児の絵が、どれも区切られた四角の中に、きちんと引かれた線によって図柄が決められ、それが、黒、あるいは多色によって、極めて高い図案性を持って飾られていることである。そこには線や彩色を暈す手法は介在しない。とりわけ、挿絵や口絵は、現在のようにカラフルにはゆかず、白黒のものだったから、その白黒の図案的デザイン性の高さが、彼の絵のモダンな風合いを高めていたのである。

 これらの絵は、額には収まっても、軸に作られることはない。夢二の作品の多くが軸装されて残されているのとは、決定的な違いになっている。そこに描かれた、大正時代の末の和服姿の女性は、最早殆どが日本髪を結っておらず、身を置く場所は、ソファであり、椅子であり、ベッドであり、縁側ではなくカーテンの下がる窓辺であって、それは、夢二にはない、東京山の手の新しい洋風仕立ての邸宅での暮らしというものを、間違いなく反映させていた。

 そして、次に、二七歳の一九二五年から二九年までの作品が並ぶ。それは、虹児のバリ滞在時代に該当する。竹久夢二が海外旅行を企てたのは、二十代の終わりだったはずだが、その挙行は叶わなかったのに、どうやら、虹児の旅立ちの送別会には、加藤武雄、南部修太郎、沖野岩三郎といった当時の少女小説作家や西条八十と一緒に参加して、虹児の壮挙を祝したようだ。その時の夢二の気持ちがあれこれ勘ぐられもしてくる(注3)。

 このパリでの作品で、最も新鮮だったのは、独立した絵画作品としての、何点かの所謂本画に出会ったことだった。それらは、どうやらサロン・ドートンヌ(注4)に出品した作品らしい。しかも、それらはどれも油彩画ではなく、日本画の絹地に洋画的な手法で彩色してあって、不思議な佇まいを見せていた。油絵のような着色でありながら、脂ぎった面はなく、かといって水彩画のような色の淡さはまるでない。この奇妙な中和性に、虹児の自己認識があったということか。

 それをまるで象徴するかのように、サロン・ドートンヌ最初の入選作「混血児とその父母」と題する一点があった。船長スタイルの金髪金髭の男性と、その左側に控えて立つ長袖の和装に身を固めた島田髷の女性と、男性の膝元に抱えられて立つ袴姿のオカッパ頭の幼童との三人が描かれている作品である。男性の背後には屏風が立ち、女性の背後の窓外には薄曇りの日本の漁村が臨まれる、そういう絵だ。ここには、プッチーニの「蝶々夫人」の影響がほの見え、縁こそあれ確かさなどどこにもない関係が、絵として定着させられただけの三人の表現に、寂しげな固さを感じてしまう(注5)。

 そして、虹児の絵の特徴は、その混血児の作品にも伺われるのだが、パリの街の佇まいを描いた作品を初めとして、どれも明るい晴れやかさから遠い、暗い憂鬱に閉ざされている点にあった。これは自分が少年時代には感じたことのない、今となって改めて初めて見えた虹児の資質だった。

 と同時に、明らかにキュビズム的表現の影響を素早く受けとめ、まさにアール・デコ時代のパリという都会の表情を、風俗的に巧みに描いた作品が、何点もあって、若い虹児の時流を読み取る反応のよさを見て取ることもできた。しかし、それらの作品の多くが、雑誌『令女界』の口絵として描かれていることを思うと、虹児のパリの風俗に対する敏感さが、彼の功利に縛られざるを得ない生活に深く応じたものであり、それが、金銭的に解放されない彼の、作品の暗さに繋がっているのではないかと思われたりする。

 実際、虹児は、この金銭的窮乏のために、一九二九年日本へ戻らざるを得なくなったようで、帰国後の彼の一九三〇年代、三十代の展示作品を見ると、そこには、彼のパリでの学習が、美事に生きた挿絵群があり、恐らく他の児童向け画家にはない洗練されたモダンを、往時の少女たちに齎したのであろうと納得が行く。それが、『令女界』に連載された江馬修の小説『悩みをとおして』、龍胆寺雄の小説『燃えない蝋燭』(注6)の挿絵や、虹児自身が『少女画報』に書いた小説『霧に咲く花』の挿絵、いずれもペンの線描と墨彩で描かれた小さな作品群に、最もよく示されていた。

 こういう挿絵を見ていると、アール・デコのパリ・モダン が、少女向け画家としての蕗谷虹児という名前を決定的にしたであろうことがよく分かる。と同時に、竹久夢二の子供向けの絵から感じるような微笑ましい温もりがまるでない、虹児の資質の冷めた冷ややかさが伺われてもくる。それが子供だった私に、彼の絵に対して、どこか、いいとこのお姉様といった近づけない距離感を齎していたのかもしれない。

 この時期の仕事として、吉屋信子、加藤武雄、飯田蛇笏、野口米次郎、鶴見祐輔等の著作の装丁本や、多くのレコード・ジャケットの装丁画なども出ていたが、そういう虹児の仕事が、一九三五年に出された彼の『詩画集花嫁人形』に集約しているのだと、その詩画集に関して描かれた多数の作品の展示から伺うことができる。その詩画集は、凡そ文庫本程の大きさだが、厚表紙で箱入りに作られており、幾つかの章ごとの扉絵と何点かの詩に添えられた挿絵のペン画が、本と一緒に並んでいた。その挿絵の原画は、一点を除いて、どれも本のサイズに応じた、縦一三センチ×横一〇センチ位の小さな作品なのだ。例外の一点とは、縦二〇センチ×横一五七インチ程の大きさに描かれた「花嫁人形」である。

きんらんどんすの帯しめながら

花嫁御寮はなぜ泣くのだろ

文金島田に髪結いながら

花嫁御寮はなぜ泣くのだろ

と、遠い遠い昔、誰から習うともなくして唄っていた歌を思い出さざるをえない。無論そのころ、「花嫁人形」のその歌が、蕗谷虹児の作詞になるものだということなぞは知らなかった。それを思うと、この一冊が、虹児に持ったであろう意味の大きさを察することができる。無論そこに描かれていたのは、金襴緞子の帯を高く締め、高島田を角隠しに覆った横顔をこちらに見せて、扇で恥じらいを隠した振り袖の花嫁の立ち姿である。

 ここに、洋のモダンを和に纏めた虹児の成果が示されたわけだが、そして、それが、やがて到来する戦争の時代、つまり彼の四十代に、よからぬムードを醸すものとなるであろうことは知れたことだ。無論彼に反戦的な作品が積極的に描かれるなどというようなことはないが、私にとって、最も働き盛りの彼の四十代の作品は、最早魅力が乏しい。

 以後、戦後の「講談社の絵本」の仕事などが、カラフルな作品を通じて紹介されていたが、そこには、私にとっての「お姉様」的表情がすっかり失われてしまっていて、そこに新鮮な興味をもつことは、もうできなかった。

 アール・デコのモダニズムの洗礼を、パリの現場で受けることができただけに、故国日本の辿った道の現実は、探偵物や冒険物の挿絵画家だった樺島勝一や梁川剛一には、同調しやすかったであろうが、虹児にとっては、おそらく己が理念からどんどん乖離していくことだったろう。

 私は、虹児の懐かしい作品の中に、暗い嘆きの声を聞き初めていた。

(二〇一一、五、八)

 

 

 

 注1 子供だった私は、いいとこのお嬢様を「御令嬢」ということを知っていたから、「令女」というのは、いいとこの大人の女を表すことばなのだろうと思っていた。

 注2 一九二〇(大正九)年当時、一八八四(明治一七)年生まれの竹久夢二は三六歳になっていて、厳谷小波、 島村抱月、永井荷風、有島武郎、武者小路実篤などとの交流も持ち、既に前年、代表作「黒船屋」が描かれ、その世評は極めて高かったと言ってよい。

 注3 因みに、竹久夢二が海外に渡ったのは、一九三一(昭和六)年、四七歳の時である。虹児が渡仏して六年後のことであり、アメリカとドイツとの二年五ヶ月の旅を経て一九三三年に帰国しているが、帰国後の夢二の余命は一年よりなかったのである。

 注4 Salon'dAutome(秋の展覧会)で、フランツ・ジュールダンをリーダーとして、マチス、ルオー、ヴュイヤールらが一九〇三年に設立したサロン。ドラン、ヴラマンク、ブラックなどが相次いで参加し、フォー ヴィズムやキュビズムは、このサロンから生まれることになった。藤田嗣治は、一九一九年このサロン・ド ートンヌの会員に推され、二一年には、審査員に推挙されている。

 注5 後で、図録に記された年譜によって分かったことだが、虹児は十代に、家の破産、一家の離散を体験している。学校は尋常小学校を出ただけで、十三歳から丁稚奉公に出るという生活だったようだ。この点では、虹児がパリで交際を持った藤田嗣治や東郷青児の恵まれた生活基盤とは、まるで違う。

 注6 ここにある江馬修のも龍胆寺雄のも、私は読んでいない。彼らの作品が掲載されていたことからしても、「令女界」が、成人の女性を対象にしていた雑誌だったことが分かる。

 

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