川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

動は動か、静は静かー岡本太郎と牛嶋憲之ー

 三月から四月にかけての、年度変わりの慌ただしさを、年齢のせいか、巧く過ごせなくなり、気分が苛つき始めた。

 早速、最も手軽な私流応対として、美術展詣でに出かけることに決め、四月二十日、水曜日の朝、私は上京した。

 品川から渋谷に出、始めての渋谷区立松濤美術館に、訪ね歩く時間のロスを気遣って、駅前からタクシーで直行した。高台の、それぞれに木立豊かな庭を囲む塀と門との構えが美事な、お屋敷高級住宅街の一角に、それらの住宅と何の違和もなく、二層の円みを帯びた黒い石造の建物があり、前に二・三台分の車置き場があるだけの、それが松濤美術館だった。美術館は、渋谷の文化村界隈の人で溢れる雑多な喧噪の下界から離れた、通りの人気もない閑静な高台の、それでいて日常的住宅空間の一角にあることで、館として独自な個性を漂わせていた。

 その美術館に、私は、開館三〇周年記念特別展として催されている『牛島憲之』展を観にきたのだ。その展覧会は「至高なる静謐」のサブタイトルを付けて催されているのだが、 これほど美術館の佇まいと過不足なく照応している言葉はないと、私には思われた。

 一階のチケット売り場に行くと、六十歳以上は無料だと知らされ、老人手帳を見せて入館。展覧会場は地下一階から二階の順でと案内を受け、まず地下に下りる。円形だった外見に応じて、作品は展示室の壁面に円く展示されていて、辿りやすい。

 牛島憲之の作品はこれまで画集などで見た記憶もないの に、名前だけは知っているのはどうしたことか。いずれにしろこれが初めてのお目見えになる(注1)。

 辿り行くその作品はどれも、線を持たぬ、物と物との境界を定かにしない筆捌きで描かれている。その表現法によって空間のゆったりした拡がりを現したかったのかと想像されるが、それは、人間の目の自然な機能を全く無視した、極めて作為的な方法にも思われる。

 洋画における線の必然は、陰影によって齎されるけさやかな物の識別感覚に負うているのだろうが、その陰影そのものが、およそ線から遠く淡いものになっているのだ。つまり、自然の視力によって縛られ閉ざされている、線の世界からの解放を、画家は目論むことで、牛島は、自然の時空から解かれた「ゆったりした拡がり」を感じさせる画面を独創したわけか。

 ともあれ、明瞭な線を持たぬ描法は、初期の作品から始まっており、ただ二十代の作品は、それが光の明と暗の区分けの明瞭さを欠いて、ということは、それだけ光の明るさから離れ、その結果、線を失った世界が出現するという理屈の窺える、暗い色彩で覆われた画面に仕上がっている。「お稲古」の座敷の場面や「芝居」の上演中の小屋の水や、それらはいずれも、谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で日本的空間に抱いた美意識に通じているように、私には見える(注2)。

 ところが、日本に戦争の陰が次第に色濃くなる昭和十年代後半に入ると、光の明暗の区分のしかとしない世界は、光りの余りな強さのために、眩しくて眼にハレーションを起こしでもしたように、物の形そのものがはっきりしない画面に変化する。光を浴びる明るい外景は陰を失い、暈けてその形態すら失われ、一方、陰ることでそのものの形をどうにか定かにしていた事物も、その定かな陰を朧にして、その風景は、どういう景なのか分からなくなってしまっている。物の形の崩壊と喪失とを意識的に追い求めた結果としか見えない。

 それが、終戦を迎えて、相変わらず物の陰のような朦朧とした実体として「残夏」「炎昼」の糸瓜の絵が描かれるのだが、二点の糸瓜は、その陰のような緑が、物の形を取り戻して、終戦直後の炎暑の虚無的気分を表徴していて実にいい。 そして二十三年頃から、物の形はどんどん快復して、それも、 描く対象が巨大な建造物になってくる。「煙突」、「午後(タンク)」、「永代橋」、「水門(水辺)」、「樽のある街」といった 題名が、そのことをよく物語っている。無論どの絵にも、人っ子一人描かれてはいない。

 それらは、相変わらず輪郭的線描を一切用いず、中間色ばかりで、しかも多色ではなく色分け、その濃淡によって、対象の持つ不動の重量感を見事描き上げていて、私には昭和三十年代の時代のエネルギーを、緊張した無言の姿で表出しているように見えた。この無言の力を主張する牛島憲之という画家の独自の成果を、私はここで認めざるを得なくなった。私を捉えたものは、無言不動のダイナミズムなのだ。

 この無気質な建造物にひたすら注がれた牛島の眼が、昭和三十年代に入ると、有機的な樹木や大地に注がれるようになり、建造物もそういう物の中の一点景として描かれるように移り変わる。五十年頃になると、例えは、前作と同じ位置角度で描かれた「晩春永代橋」では、前作の煙を吐く水上の船に人影はなかったのに、今度は船上に一体の人影が見えるようになる。また四十年の「水門」に人影はなかったのに、五十六年の「春温む」の水門では土手の上に一体の人影が見える。その人影は、「並木路」の木陰にも、大きな銀杏の「並木」の下にも、巨木の満開の桜の淡い色彩で覆われた「うらら」の下にも、青い空を背に、海辺に聳える「岬の道」にも、すべて一体の人影が描かれることになる。

 それによって、決して濃く強い原色的色合いを持たぬ暈けた風景が、ちらと微笑ましくなり、温もりを覚えることになるのだが、逆にそのささやかな温もりのせいで、暈けて取り留めのない画面の広がりの中に、あまりにも小さな存在としての孤独を浮上させてもいる。そういえば、この時期の彼の風景の空には、しばしば昼の月が描かれていたが、それも、闇を照らす夜の月にはない、頼りない存在の孤独を表徴していたように思う(注3)。

 展示の最後は、シルエットとして描かれた二点の富士山ーー一点は「夕月富士」と題するもので、夕焼けの空に細い三日月が描かれているーーと、上に向かって延び、切り通しに細く消える一本の道を描いた「道一筋」とで締められていた(注4)。

 私は、一人の人間の静ではない紛れのない動、その足音をひたひたと聞いた気分になった。その人間の動きをこのように静かに語ってくれた美術館の佇まいに、ある幸せを感じる。ことができ、この美術館で生涯の作品展を催せた牛島の幸せを思った。

 私は渋谷駅に戻り、今度は九段下で乗り換え竹橋に出た。十二時を過ぎているので、地下の食堂街でカレーライスを食してから、近代美術館に行く。午後の目標、岡本太郎展を観るために。

 私は、今日まで、岡本太郎の美術館に赴いたことも、彼の美術展に接したこともない。こんなことになったのは、太郎が、メディアを借りて繰り広げるパフォーマンスが、御愛嬌の域を超えてしまい、それが自分の作品の売り込みになるという、コマーシャリズムに堕しての創造になっているように、私には感取されてしまって、それが太郎への私の足を遠ざけてきたからである。太郎の遊びを一緒に遊べなかったのだ。

 そのパフォーマンスの最も大きな叫び声が「芸術は爆発だ」として残され、人々は、その一言のせいで、岡本太郎を罪のない熱狂的変物として捷径に解釈し、素直に彼の作品と遊ぶことになっているのであろう。

 そしてある意味、それは太郎自身が、自分の作品の処遇として望んだことなのだろう。「芸術」と、取り澄まさないで、大衆と同じ次元でいる気安さを見出していたのかも知れない。

 それを証すかすかのように、会場の最初は、プラスチック製の木偶の坊的な置物が何点か並ぶ。そこには、「太陽の塔」の原型のような小振りな塔もあったが、鼻孔を開いて歯を剥いた木偶が、近付くものを拒むように、両手を開いて揃えてこちらに向けている、「ノン」と名付けられている像があって、その「ノン」を以て、この展覧会のプロローグのタイト ルとしてあった。それに始まって、以降に展開する七つの作品群を括るタイトルは、全て「...との対決」という言葉で括られていた。

 確かに、この「ノン」と「対決」という語に込められた、他を拒絶することで、自己を強烈に主張する活動的姿勢は、それぞれの「対決」ごとの作品に、ストレートに見えていた。

 それは、牛島憲之とはまるで対照的な騒々しい世界である。こんな騒々しい世界に取り付かれ続けるなんて、それが音の世界なら、耳がおかしくなってしまったに違いない作品の群れである。第一、その出展数だけでも、牛島の出展数六十余点の倍にもなる一三〇点というのだから、「ノン」と「対決」の騒々しさは尋常でない。

 しかし、絵画だけを辿っても、そこに太郎の変化・成長を見取ることは、甚だ難しい。

 私に岡本太郎の評価を決定づけている作品は、彼が二五歳の時、パリで描いた「痛ましき腕」だが、暗い背景の中の赤い大きなリボンと紐を掴んだ右腕を描いたこの作品は、ピカソとの対決がどうあろうと、太郎の間違いなく湿った暗い青春の表出を見ることができ、その意味で、作品の魅力を認めることができた。

 だが、その後、原色に近い色の鮮烈な組み合わせと、黒の線や黒のバックで、よく目立つようにした、岡本的色彩の氾濫する作品が登場するのだが、そこには、抽象的絵画を志向しながら、具象から完全に脱皮解放されることのない、つまり、いつも具象、とりわけ人物の像に囚われている岡本の、一般を常に前提とし、その眼を気遣って、鐘と太鼓で売り立てている滑稽が、窺える。そうした作品の代表作が、背中にチャックを付けた真っ赤な大魚が、人間に噛み付き呑み込もうとしている様を描いた「森の掟」と題する、諷刺画的大作ということになる。しかしここに氾濫する色の世界は、彼がパリにいた一九三〇年代、彼が対決したはずのピカソが、「泣く女」や「ドラマールの肖像」で発揮した色彩のそれに等しい。

 しかも、ピカソの色彩は、「森の掟」が描かれた一九五〇年代になれば、黒色の線や面こそあれ、渋い中間色で構成されていて、色彩表現の変化が明瞭だが、太郎のこの色彩表現は、最後の「岡本太郎との対決」の項に並べられた四十数点の絵画、つまり一九七〇年、太郎の六十歳以後の晩年の作品群に、全てに変わることなく発揮されているのだ。

 それに、ピカソの作品が、具象の解体に発しながら、全くの抽象に至ることなく、具象的な素材、人物の再構築によって作品を造っているのと同じように、太郎も、決して全てを抽象化するのではなく、抽象的な構図の中に具象を取り込むことで作品を仕立てているわけで、それは、万博の「太陽の塔」を見ても分かることだ。つまり、太郎の作品にどんなに激しい動的なものを感じようと、その底にあるのは、変わらないスタティックな方法だということである。

 私には、何と「対決」しようと、ピカソに影響されて以来、太郎には色彩と表現方法に変化の動きがないように見え、その意味で、太郎の芸術的成長を実感することはできかねた。そこに見えてくるものは、太郎の、叫び続けないではおられない寂しがりであり、その世界に呑み込まれてしまう恐怖に発するのが、太郎の動である叫びであることであった。

 そんな太郎を支え、彼の発言メモを作り、それを基に彼の著述を世に送り出した、平野敏子という陰の女性のいたことが、その写真とメモの展示によって、明らかにされていたのだが、それは、太郎の大きな救いであることを窺わせると同時に、私にとってのこの展覧会の大きな救いになったのである。

(二〇一一、四、二六)

 

 

 

注1 後で分かったのだが、牛島憲之の作品には、一九八八(昭和六三)年九月、愛知県美術館で開催された『創立一〇〇周年記念・東京芸術大学所蔵名作展』で出会っていた。出展されていたのは「九十九里浜」と「早春」の二作だが、「九十九里浜」は、本展でも出展されていたのである。

注2 因みに「お稽古」は一九二四(大正一三)年、「芝居」は一九二七(昭和二)年に描かれ、「陰影礼讃」は一九三三(昭和八)年に発表されている。

注3 後で図録の年譜で分かったことだが、どうやら、彼は結婚した妻を若くして失って以来、子供もなく、独身で暮らして来たらしい。

注4 牛島憲之は一九九七(平成九)年、九七歳で没して いる。「道一筋」は、その没年に作成されている。

 因みに、東山魁夷に、草原の中を上へと真っ直ぐに延びる一本の道を描いた「道」という作品があるが、それが描かれたのは一九五〇年、魁夷四十二歳の時で、 その意味では、牛島は魁夷の作品に着想を得たことになる。

 

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