川柳 緑
508

えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

菩薩と飛天

 二〇〇〇年一一月、私は上野の国立博物館の平成館に、『中国国宝展」を観た。

 上野の公園口を出ると、目の前に東京文化会館があり、道を挟んでその北側が西洋美術館という寸法だから、折しも西洋美術館で『死の舞踏展』を開催中ともなれば、かねてより西洋における骸骨の跳梁ぶりには、大いに関心するところのあった私のこと、まずこちらを一見しなければということになった。しかし、何しろタイトルが禍々しく、観客も閑散とし、館内の静謐、足音を気遣うほどともなれば、私の心もシーンと静まり殆ど虚ろと化してしまったが、その虚心のままで、今度は人込みの平成館の、正面の階段脇にあるエスカレーターを上ることになったのである。

 上ると右手が入り口で、その正面の暗がりに体を向けた刹那、私は、思わず声にならぬ声をアッと発して息を呑んだ。息を呑んで釘付けになった足の先に、一体の白い石造りの仏像が立っていたのである。それは、無明を切り裂いて今しこの世に立ち 現れたかのごとく、こちらを向いてきりりすっくと立ち、展覧会の印象この一瞬に決する演出もさることながら、それに見事応えている像の絶妙に舌を巻いた。

 あらためて瞬きをして刮目すれば、両腕ともにない人体大の細身の体で、蓮台の上にすらりと伸びやかに、しかも優しい艶やかな香気さえほの見せて立つ菩薩像である。艶やかな香気は、微かに残る首飾りの金や、肩先の朱色、襟元の白緑の醸す人肌のような温もりによって立ち上がっており、優しさは、目尻を切れ長に涼しげに上げ、こちらの眼差しをさりげなく受け止めてくれている、笑まいを湛えた少女のような面差しから発している。

 この湛えられた笑まいの神秘は、不可解の一語に尽きるが、決してモナ・リザのマダム・ジョコンダの微笑みの不可解と軌を一にはしない。どちらの唇も等しく微かな笑みを浮かべながら、マダム・ジョコンダの眼は大きく見焼かれて笑ってはいないのに、こちらは眼の切れ長が既に笑みを浮かべている。眼と口との表情の乖離によって永遠の謎などと言われる笑いは、つまりはマダム・ジョコンダという固有の名を持った者の俗を証すものなのであり、この菩薩像から立ちのぼる脱俗の聖から全く遠い。

 そう思った途端、私は続いて、この腕のない昔薩像をミロのヴィーナス像と比べようとしている。ミロのヴィーナスの腕のないことについては、昔、丸谷才一がどこかで書いていて、それは、腕のないことによってミロのヴィーナスはかえって像としての完璧性を獲得しているといった話だったと思うが、その伝でいけば、この菩薩像はまさに腕を失っていることによって、その完璧な聖性を獲得していると言うことができる。腕を欠くことで、ヴィーナス像が肉体のまさに肉体的部分である乳房から腹部・腰部(のボリュームを体現しているとするならば、これは、腕を失うことで、人体的現実的保としての肉体性を完全に消し去ることに成功してしまったのである。その結果、ミロ のヴィーナス像が、紛れもなく大理石像である重量をどっしり実感させるのに、この菩薩像は、それが石灰岩という石ではなく、まるで木製であるかのように錯覚させる軽さを、その身につけることになったのである。

 おそらくその「軽さ」こそがこの菩薩像の最大の長所で、とかく、重いもの大きいもの強いものが、支配する力としての価値の絶対性を主張する世界にあって、追い求めて「軽み」の詩的理念に到達した芭蕉を先達に持つ我々には、誠に有り難い限りの美である。まったく、この像は、羽こそなけれ、宙を飛んでも不思議はない軽やかさを備えている。黄河下流、山東省青州市の龍興寺址の土中から、菩薩像がその姿を現したとき、腕を見出しえなかったことを、発掘の担当者たちがどう思ったか 知る由もないが、発掘の不足が発掘物の美的完全を観る者に齎すという不思議がここにあることだけは、私にとって確かである。

 お陰で私の眼は「軽み」に拘束されることになったのか、出展されている仏像群を見ながら、本尊の如来三尊や昔薩五尊の像をろくに見もせず、専ら舟形の光背に彫られた飛天の群像に 心奪われる体たらくとなった。

 飛天、それは、天空を飛翔し、如来や菩薩といった仏とわれわれ衆生との仲立ちとして、仏の使いの役を果たす天女、いわば仏の侍女である。天女たちは、光背の天頂部にある宝塔を捧げ持つ形で、左右対になって六躰、時に八躰、領巾と裳裾を上に高く翻して飛んでいる。飛天を穿った石像の殆どは彩色の落ちた白大理石製で、浮き彫りにされた白く小さいどの飛天像も、顔の彫りの鮮明さを失って殆ど顔立ちが分からない。

 私は、敦煌の莫高窟で、色鮮やかに描き残された数多の飛天像を見ていたが、記憶の中のそれらの飛天は、楽器を奏でたりしながら、実に優雅で軽やかに洞窟の天空を飛翔していた。それに比べれば、この飛天たちの飛びさまは稚拙そのもの、それが摩滅したように不鮮明な顔立ちと相俟って、私に幼稚可憐な 印象を齎した。私自身の幼児が私に蘇り、蘇った幼児の眼によって、飛天の可憐さが今見えているといった感じだった。莫高窟の飛天の線と色彩の鮮明な優雅さからすれば、これは、生まれたばかりの赤児の幼さ、そういう可憐さだった。

 そして、可憐といえばあれも可憐だったと、私の中にもう一つの可憐が蘇り、肝腎の如来や菩薩の像を閑却する自分の今日の眼の働きは、この可憐にもよるのかもしれないと思われた。何しろ、その可憐は同じこの平成館で、この六月に観た『国宝平等院展』に由来していたからである。

 その展覧会の評判は、平等院の壁面を飾る五二躰の国宝雲中供養菩薩像全てが展示されるところにあった。平等院鳳凰堂の内陣の壁面高い暗がりに懸かる供養仏は写真でこそ姿かたちをみることができても、実物を目の当たりにすることはまず叶わなかったが、雲に駕して、五二躰全ての仏たちが見る者の眼の高さにまで降臨されるというのである。この至福の出会いを求めないでなんとしょう。早速上京して出会ったその雲中飛翔の仏たちが、何と、可愛かったのである。

 飛天の如く雲に浮く仏たちは、あるいは座して楽器を奏で、あるいは領巾を振って舞い、一つとして同じ姿態を象るものなく、弘誓の海ならぬ天空から、迦陵頻伽の妙なる音色を遍く注ぎかけながら、衆生来迎の手招きをしているかの風情である。日頃内陣の高みから見下ろしているからであろう、仏たちの眼の彫りは瞼を伏した慈しみの眼差しを示し、圧倒的に多い鼻梁の短い丸顔と、様々な振りを見せる手の甲のふくよかさが、その慈眼を優しく暖かなものに仕立てている。そこには、西洋のエンジェルとは異なる、子供でも大人でもない慈悲という抽象 的な観念の具現としての可愛さが、歴として存在していた。

 名付けも名付けた鳳凰堂という堂宇に、この雲に乗って飛ぶ菩薩群によって齎される至純の世界を作り上げた藤原頼通の贅を、権威権力と傲慢の徴と見るならば、私たちの現代受け止めているその余沢としての「可隣」は、すっぽりそれを包み込みさりげなくしてしまっている点で、美という観念の詐術の有り難さを私に実感させてもくれた。

 この一体一体独立して空を飛ぶ平等院の様たちの可愛さ は、今では彩色も落ち、木目が浮き出るまでになりながら、残るそれぞれの顔形の、彫りの鮮やかさに生きていたのだが、今、目の前に見る飛天たちは、空飛ぶ名もない天人として、相貌も定かならぬ小さな姿を、光背、それは仏の慈悲の光りの射すところ、仏の恵みのたなごころを意味していようが、その光背の宙に、互いに手を繋ぎながらその身を漂わせているに過ぎない。その天人のありようは、身を天上に置くとはいえ、仏によって救われている存在にほかならず、下界の衆生に、身をもって教われることの極楽を演じて見せる役割を、果たしていることを物語っている。それはただ仏のために尽くす、見目の見分けもつかぬほどの小さな存在なのである。可憐と思うのは、そういうただひたすらな小さな存在に対する愛しみ、つまり私の愛ではないか。ひょっとして小さく無名のものに寄せる可愛さこそは愛の本源なのかもしれない。それをこの天女たちは、自らの飛翔の姿によって示現しているということになるのかも知れない。そして、ひょっとして、街の少女たちが「カーワュイ」などと揚げる歓声の蔭には、彼女たちの本源の愛に触れようと欲する潜在的な願望が隠されているのかも知れない。だが、何故か、こういう場所に、そういう少女たちの姿が極めて少ないというのは、なんとも皮肉な現実で寂しい。

(二〇〇一、九、一)

 

 

 

 

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