私は西洋美術館から、次の目的地、東京芸大美術館へ向かった。そこで見た展覧会が、『シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い~交錯する夢と前衛~』というものだった。それは、シャガールの展覧会であることを名乗りながら、これまでのシャガール展とは違い、シャガールの作品のみによるのではなく、シャガールと同じ時代を生きた「ロシア・アヴァンギャルド」の画家たちの作品との共演になっていて、それらの作品に初めて出会うことの出来た新鮮な体験が、ロシアにおけるシャガールの青春の、歴史的社会的現実というものを、改めて私に実感させてくれることになった。
それは暗い印象だったけれど、シャガール独特の飛翔する人体像を彼に齎した必然の、悲しさとでもいうものを私にリアルに語りかけてきて、こちらの心を豊かに潤わせてくれる、少なくともそう錯覚出来る幸せな時間になったのである。
そして、その幸せの到来が、決して今日一回の鑑賞によって得られたものではなく、これまでの何度かの私のシャガール体験があった上での結果だということも、私は自分の過ごしてきた命の響きとして感じ取っていた。
そのシャガール体験とは、どんなものだったのか。
記憶に残る大きなシャガール展の最初は、竹橋の東京国立近代美術館で見たものだが、それは一九七六年、もう三五年も昔のことになる。そこに出展されていた一三〇点余の作品は、全て一九五〇年以後の、パリでの、画家としての評価と名声に共に恵まれ、安定した生活の中での制作になるものだった。その幸せが、作品にそのまま正直に現れていると思われるような多数の画面に接して、嬉しくなったものだ。赤と黄と緑の大きな花束と、その上を小鳥と共に、抱き会って浮遊するように翔ぶ若いカップル、その彼等に見下ろされるエッフェル塔を初めとするパリの街影が下の方に描かれた画面に接すると、その中にシャガールの平安と幸福が全て包括されているように見えてしまったものだ。ただ割合夜の青の美しい絵が多くあり、その夜の絵の中には、彼の出生地ロシアの雪の田舎街を描いたものが何点もあって、故郷に対する懐旧への拘りを感じることができた。
それから八年後の一九八四年、今度は愛知県美術館でシャガール展を見ることになった。この時も、平安と幸福の雰囲気を感じることは前と同じだったが、前回のような大きな花束が持つ華やぎの明るさは、減っていた。何よりも前回はなかった一九三〇年以前の初期の作品が数点あって、その中には、シャガールの生まれ故郷「ヴィテブスクの眺め」や、ユダヤ教の牧師がトーラー(注1)の大きな箱を背負っている「牧師」というペン画や、農婦の顔をグァッシュで描いた「ローソクを持つ女」等があって、シャガールの生活環境が、ほの見えていた。また五〇年以後の油彩画作品の中にも、夜の村に浮かぶように描かれた、赤いトーラーの筒を抱え持った「牧師」や、月光の夜の村の中、羊や鶏と一緒にいる「緑色の農婦」があって、シャガールが拘る故郷が、ユダヤ教徒の村であり、彼がユダヤ人であることを意識せざるを得なかった現実が、役の根にあることを告げていた。
三度目のシャガール展は、一九九〇年の二月、今度は名古屋市美術館で見たもので、百点を越える大きな展覧会だった。その内八十点近くが、一九二〇年までの、シャガールがロシアにいる時代、つまり彼の二十代から三十代初めにかけて描かれたものだった。そこには、それまでのシャガール展では見かけなかったキュビズム的線描のはっきりした大作が何点かあり、故国ロシアにユダヤ人として生きる運命を背負いがら、ピカソやブラックの運動の影響を間違いなく受け止めていた、飛翔しようとする彼の目の若さを実感出来て打たれたものだ。直接的には「アポリネール礼讃」(注2)という、アダムとイヴの下半身を一体化させ、同心円と対角線との織り成すバックの中に描いた大作ーーそれは私には傑作だったーーが、それを証明していた。
それに、そこには、宙に飛ぶ幸せそうなカップルの、これまで見たことのない鮮明な解析と輪郭とで描かれた「町の上で」「散歩」「誕生日」等の作品もあって、それが飛翔するカップルの絵のルーツになっていることを窺わせるが、同時にそこには、ロシアにおけるシャガールの、自分の愛する青春ーーそれはユダヤ人であることの自覚の上にある青春であるーーに対する冷めた眼差しも感じることができた。
さらにこの時、こんなに写実的な絵は他にはないのではないかと思われるような、「緑衣のベラ」の一点に出会って嬉しかった。愛妻ベラへのシャガールの愛情が、その白扇を持った手を膝に置いて伸びやかに座した、既に四十を過ぎていると見える知的な風貌の肖像に、見事結晶していた。特別な制作としての意識が、シャガールに特別な写実的表現を齎したように思われたものだ。
ともあれそれは、シャガールへの私の親愛の情を一段と深くした展覧会だった。
この三回目のシャガール展には、トレチャコフ美術館所蔵の作品が二十点の余出展されていたが、そのトレチャコフ美術館所蔵の「ユダヤ劇場大壁画」(注3)を中心にして、「青春のシャガール展』と題する展覧会が一九九五年一一月に催された。大阪阿倍野の近鉄百貨店の近鉄アート館でのことで、私は、それを見に行っている。
そこでは、かつてユダヤ劇場の壁面を飾った七点の大作、その一番大きな作品は縦三メートルに横八メートル位だったが、それが、どれも前回のシャガール展で私を喜ばせたキュービズム的手法によって描かれており、しかし、赤・青・黄・緑の色彩の溢れるようなシャガール的濃密さからは遠い、淡泊な色調で描かれていて、それは、前回の「町の上」や「散歩」の色調に近く、その優しさに親しみが持てた。と同時に、「大壁画」とは言え、この七点の絵によって飾られたモスクワの「ユダヤ劇場」は、極く小さな劇場(注4)であったことが想像されもしたのだが、シャガールがこれを壁面に飾って開場したその小劇場は今は無くなっているということだ。一九一七年の十月革命によって、ロシアではユダヤ人の差別がなくなり、まさにその徴として「ユダヤ劇場」は建てられた筈なのに、革命後僅か二十年にして、スターリンは、そのユダヤ人をこれまで以上に粛正し弾圧したーー私の記憶では、そうなっている。
シャガールの絵が劇場の壁から外され、迫害の難を免れ得たのは有り難い限りだが、ソヴィエト革命の歴史を思うと、この絵の色調に、私は祖国に対するシャガールの絶望的な悲しみを勝手に読んでしまったものだ。
この時、水彩や素描の小品が十点ほどあったが、この展覧会のもう一つの見物は、五十点からなる『死せる魂』(注5)のエッチング版画の挿絵だった。それは、ロシアを脱して初めて習得した版画技術を、パリで試みた最初の作品で、絵はどれも三十×四十センチ位のサイズだったが、彩色はなく、黒い線と、筆で刷いたようなアクアチントの黒が、ダイナミックに作動していて、何ともシャガールらしい動画的表現を生みだしており、それが、ゴーゴリ作品のグロテスクでユーモラスなアイロニーを見事に伝えていた。私はこの銅版画を介して、シャガールのこれまでの絵を見直す新たな視点を貰ったような気がしたものだ。と同時に、この作品が、シャガールが脱出した故国の美術館に所蔵され、それを当の故国から日本へ運んで見せているのだと思うと、そこに歴史のアイロニーを見ないではいられなくなる。
そして、この、シャガールの版画群を中心に見せてくれた『シャガール展』が、二〇〇七年に上野の森美術館で催された「生誕一二〇年記念、色彩のファンタジー」と銘打ったものだった(注6が、今また思い返すと、その中の百点余からなっていた大作『聖書』が、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダヴィデ、エレミヤと順次描かれていくのを知れば、旧約聖書世界に対する、ユダヤ正教に則ったシャガールの近親ぶりが読めもする。
こうしたシャガール体験があって、今度のシャガール展を見ることになったのである。
そして今日ここで、私はシャガールと同じ時代に、彼と同じように新しいソヴィエト・ロシアの到来の波に巻き込まれて生きたアーティストたちの、数多の作品に出会うことになった。出会って、そういうアーティストたちの運命を、最も代表する形で美術史に名を留めた者こそがシャガールなのだということを、ひしと感得させられたのである。
私はそこに、ワシリー・カンディンスキーの、彼の抽象絵画からは程遠いプリミティヴで色彩豊かな農村風景画ーーどうやら、それはドイツからロシアへ一時帰郷した時に描かれたらしいーーや、ナターリャ・ゴンチャロワ、ミハイル・ラ リオーフ、ジャン・ブーニー等の、解体と再構成に面白みのあるキュビズムの影響著しい絵画、アレクサンドル・アルキペンコ、ジャック・リプシッツ、オシップ・ザッキンのこれまたキュビズムの影響間違いない人体彫刻、カジミール・ マレーヴィチの立方体の集積として抽象化された巨大な建築模型を見たのだが、これらの芸術家達の中、ロシアで生涯を閉じたのはマレーヴィチただ一人なのだった。みんな、シャガール同様、故国を捨て異国で異邦人として生涯を終えているのだ。
そんな中で、とりわけ、二十数点出展されていた、女性画家ナターリャ・ゴンチャロワの作品は、その鋭角的な線描と 配色のモダンで女性らしいセンスとが、私には新鮮な魅力だった。その彼女の、ロシアの農民の暮らしを扱ったプリミティブな表現から、幾何学的に抽象化されたキュビズム的図像へと変わり行く過程を辿ると、それは、シャガールの絵画表現の推移と見事重なって見えてしまう。と同時に、故国を逃れ捨てても、自らの創造の自由を守り生きようとした、若い芸術家たちの感性を、感取しないではいられない。
そして、最後に、モーツァルトの歌劇「魔笛」の舞台美術に関する、殆ど殴り描きに近い筆致の、四十数点もある色彩豊かな作品群が、シャガールの世界・宇宙を、にこやかな氾濫として我々に提示していて、彼の命の弾みをまさしくリズミカルに伝えてくれていた。
舞台装置や背景幕、登場人物ごとに描き分けた舞台衣装など、どれもがお洒落なシュールで、音楽的動きに溢れており、それと一緒に掲示されていた、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演された時の白黒の舞台写真の数々を併せ見ると、その舞台がどんなに色と形の溢れんばかりの魅力、まさに「自由」の横溢を劇場一杯に齎したか、充分想像できるものだった。
一九六七年といえば、シャガールは八十歳になっている。ユダヤ人であるコンプレックスを背負わねばならなかった運命故にこそ到達することができたはずの、その幸せな晩年そのものが、いかに自由溢れた仕上がりになったかを、こんなに見事に世間に対して謳い上げた画家もいないのではないか。私にはそう思われた。
私はためらいなくシャガールの生涯に祝福のエールを贈ることができる。それは展覧会見て歩きをする私に齎されるささやかな幸せでもある。
(二〇一〇、八、七)
注1 ヘブライ語で「律法」の意味を持つ語だが、ユダヤ教では、「生活を律する祭儀・倫理に関する法規集」『岩波キリスト教辞典』を言う。
注2 アポリネールとは、言うまでもなくピカソやブラックたちのキュビズムの運動に共鳴し、その運動を理論的に支え、写実から脱した新美術の展開に貢献した、二十世紀のフランスを代表する詩人である。一九一八年、第一次世界大戦での負傷がもとで、三八歳で没している。美術用語「シュールリアリズム」は、彼が使い初めたことばである。
注3 劇場は、チェルヌイシェフ通りのビル内に設けられた。壁画が描かれたのは一九二〇年、劇場のオープンは翌一九二一年である。
注4 図録に従えば、座席九〇の、六×10メートルの小さな客席フロアだったらしい。この場空間は「シャガールの箱」と呼ばれたという。
注5 一八四二年に発表され、その第一部だけで終わった、ゴーゴリの未完の長編小説である。ゴーゴリ(一八〇九~五二)は、文学史的には、ロシアの生んだ一九世紀最大の風刺喜劇作家として高く評価されている。
注6 この展覧会については、既に「緑」の二〇〇九年四月号で触れている。