川柳 緑
597

えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

仙境に遊ぶことの不可思議

 今年の春は、少しも気分が落ち着かない。いつになく寒暖の差が激しく、春風船蕩の気分から程遠い。加えて、新年度の始まりの慌ただしさがこの身にも襲いかかって、老いの狼狽払いようがなく、ただ時の流れに翻弄される自らに嘆息を繰り返すばかりの日々である。

 そんな時にも、そんな時だからこそと言うべきか、人間というものは、少しでもそういう自分を救う手立てを考えるものらしく、そして、そんな場合でも、持って生まれたけちな根性だけは健在そのもので、安価でお手軽な手立て探しに細心になる。

 そして、あっ、そうだ、小川芋銭の展覧会を、県の美術館でやるんじゃなかったかと、気付く。こんな気付き方をするのは、もともと小川芋銭については、既に以前名古屋で大々的に催された展覧会を見ており(注1)、彼についてはもう済んだという感じがあって、それがきっと今度の企画展に気が行かないできていたのだ。

 だから私は、齷齪している今の自分に些かの休息を与えようとしてこの展覧会へ出掛けたに過ぎなかったのだが、それが予想を越えた結果を私に齎して呉れることになったのは、「画惚眸」に応じた何とも有り難い仕儀だった。

 何故予想を越えることになったのか。展覧会は『小川芋銭と珊瑚会の画家たち』と銘打ってあったのだが、そのサブタイトルに当たる「珊瑚会の画家たち」の作品の方に、大きな出会いの喜びを感じたからだ。

 そもそも「珊瑚会」というものについて、私は全くの無知だった。会場における紹介・説明によれば、その会は一九一五(大正四)年に平福百穂を中心にして、芋銭、川端龍子、小川千甕、山村耕花らによって立ち上げられ、後に森田恒友、近藤浩一路、酒井三良、岡本一平らが加わった日本画の研究会だったらしい。本展では、その珊瑚会に参加した画家たちと、会に加わりはしなかったが、芋銭と親しくしていたこともあって、会友との交流を持った、未醒こと小杉放菴が、「珊瑚会の画家たち」として括られていたのである。この小杉放菴と、平福百穂他の珊瑚会の画家の作品が、思わぬ喜びを与えてくれたのである。

 放菴にしろ百穂にしろ、私はこれまで纏まった彼等の個展を見たことがなかっただけに、彼等それぞれの何点かの作品に纏めて接することができたのは、それだけでも嬉しいことだったのだが、中に私が知っている作品が何点かあったこともあって、その懐かしさが気分を増幅させることになったのであろう。

 それにしても、このメンバーの中に、どうして岡本一平のような漫画家が登場するのか不思議になろうが、実のところ、明治時代の画家たちの多くは、画家として独立するに当たって、新聞や雑誌といったジャーナリズムの世界に自らを投じ、挿絵やカット、表紙絵などを描くというのが、ごく普通の彼等の生活手段だったのである。例えば、近代洋画の代表的な画家藤島武二が世に出たのは、雑誌『明星』の表紙や挿絵・カットの作成に大きく関わったからである。

 出版物は、写真が普及するまでは、絵描きの絵によって成り立っていたわけで、その絵はカメラのスナップショットよろしく、当然即席のスケッチ風のものとなり、それだけに動画的・戯画的になりやすく、その時の画家の社会に対する批評性が、必然的に漫画を招来することにもなったのだ。そのことは、小川芋銭自身、明治二〇年代から成島柳北の『朝野新聞』や徳富蘇峰の『国民新聞』、さらには幸徳秋水・堺利彦の『平民新聞』においてまで風刺的漫画を載せて生きたこ花とによっても歴然としている。正岡子規の『ホトトギス』にも、芋銭は表紙に随分漫画っぽい絵を残しているのだ。その晩年に、多数の俳画が描かれたのも、『ホトトギス』との関わりがあったればこそであろう。

 今度の展覧会では、放菴と百穂、それに森田恒友の出品(注2)の中に、そのことを裏付けるスケッチ類が見られたのだが、それはまさに、明治末から大正前半にかけて(一九一〇年代)の、「白樺」や「青鞜」の運動が展開する、世相の雰囲気を伝えるものになっていて、まずそれが私には面白かった。しかし、何よりも私の興味をひいたのは、日本画研究のための珊瑚会に集ったこれらの画家の多くが、その出発を洋画に発しているということだった。

 そういえば、本展の取っ付きは、「彰技堂」と題して、国沢新九郎と本多錦吉郎という二人の人物の油彩画(静物画、風景画が一点ずつ、人物画が二点の)四点に発していたが、その展示紹介によれば、国沢は明治十年前に「彰技堂」という洋画塾を東京に作った人物らしく、本多の方は、そこに学び、国沢亡き後託されて「彰技堂」の運営と明治の洋画美術の教育に従事した人物のようで、本展の主役小川芋銭はその塾に少年時通っていたというのだ。つまり、そもそも芋銭その人が画家の出発を洋画に発していたのである。

 だから、この「珊瑚会の画家たち」のコーナーでも、芋銭の絵は、和風の軸仕立てではあるものの、一幅は「断琴の夕」と題した岩に斧を持って凭れるアポロンを描いた水彩画で、今一幅は丘上の細い道を辿る後ろ姿の洋服姿の農婦と、彼女に従って移動する山羊たちを描いた「隠家」と題した線描の明確なスケッチ風水墨画で、明らかにどちらも洋画的な素材だった。

 次いで未醒の作品が並んでいたが、そこでは美術全集を通じて見知っている油彩画の「水郷」(明治四四年)と「黄初平」(大正四年)に出会うことができた。それにこれは初めてだったが、「アルハンブラの丘」(大正二年)という油彩の小品もあった。三点を年次順に並べれば、明らかに、写実的表現から詩的浪漫的な表現に転化して行く過程が伺える。そして、そのあと、大正半ばからの作品として並べられた「窓辺佳人図」や絵巻「桃花源行」の日本画は、その詩的で浪漫的な情調が際立っている。

 それに続いては百穂の作品だったが、その「アイヌの子供」(注3)「アイヌ」の明治期に描かれた淡彩の二点と、同じく淡彩の大正期に描かれた「王祥」「神語」「法然上人」を比べれば、百穂が東京美術学校の日本画科を出ていたはずなのに、アイヌを描いた明治の二点が、殆ど西洋の写実的水彩画を思わせる出来になっているのだ。

 その後、森田恒友、近藤浩一路、岡本一平の作品が並んでいたが、皆油彩画と日本画が展示され、どの作家も、制作年代が古い油彩画から年代の新しい日本画へと並置されていた。森田の、海を望む崖上の民家を俯瞰的に描いた「房州風景」や、近縁の、電柱の下を大八車や路面電車が通る都市開発の進む光景をやはり俯瞰的に描いた「京橋」や、一平の、黒いマントを着て鳥打ち帽を被った「自画像」等の油彩画はどれも時代を鮮やかに現していて新鮮だった。

 それに対して、小川千甕、山村耕花、酒井三良の作品は全て日本画だったが、それがまた作品造形の筆捌きと選ばれた色彩とにおいて、当時盛んになってきていた二科展などの、前衛的なモダニズムを思わせる、洋画的な雰囲気を生み出していた。それは、明治以後、岡倉天心を中心に発展してきた日本美術院の、それまでの日本画の伝統的筆致とは、明らかに異なる風情を創出していた。

 千甕の、収穫時の山村の農民たちの仕事の合間を、殆ど不透明な水彩で、油絵の筆捌きで描いたように見える『田舎楽』や『田人』、耕花の、宵闇迫る山を背後に川辺の家々が明かりを灯し、その室内に人影が点在する、まるでシャガールの青のように美しい青色の『楽淮のタ(注4)』、さらに三良の、渓流を前にした山中の露天風呂を、一日の仕事を終えた土地の女子供が楽しんでいる遠景を、背後の夜の山のこんもり深い緑の美しさの中に描いた『温泉図』など、どれも洋画への惑溺無くしては考えられない作品で、興味深く見ることができた。

 こうした後で、河童の絵に始まる小川芋銭の作品をみることになったのだが、それは、かつての芋銭展に遊んだ芋銭への共鳴を、すっかり冷ましてしまうことになった。

 まだ退官前のあのころ、準拠は、わたしにとって近代の汚辱の現実を脱して、山水の自然の命脈と共に息づき、現実にそれで生きた最も羨ましい存在だった。茨城県牛久沼の、芋銭が暮らした明治二十年以後の当時でさえ、恐らく日常の現実とは異なる理想化された姿として牛久沼の田舎を遠景化して、ということは現実的リアリティから脱した遠見の俯瞰図として描かざるを得なかったことだとは思うが、それでもその田畑の暮らしを包み込む水と山との牛久沼遠景図を描き続けたところに、その理想としての遠景、つまり、虚像の現実をそこに住み暮らして成り立たせたところに、私は芋銭への敬意と憧憬を持ち続けていたのだ。

 河童を初めとする芋銭の「水魅山妖」と称する化け物たちは、それがアニミズムの現れに過ぎないにしろ、彼の理想的遠景の象徴だったのであり、その意味では、多分に自虐的な自己記号として用いられた芥川龍之介の「河童」の絵や作品とは質を異にしていると思う。

 ともあれ、あの時、私が憧れてきた芋銭への思いが満たされていく、会場での快い時間の経過を忘れてはいない。教室で学生たちにその展覧会の喜びを話しもした筈だ。

 しかし、それが今日、珊瑚会の画家たちの五十点を越す作品に出会った後で、芋銭の作品ーーその作品の治が十七年前に見たものであるーーに会って見ると、かつての喜びの再現で済ますことができなくなっていた。遠景の魅力が、魅力ではなくなっているのだ。魅力でなくなるほど、遠景が遥か彼方に遠ざかっているのだ。それは、もうどこにもない、空想上にしかない芋銭的「桃源郷」のように遠く見えている。

 私は、いささか慌て、頭を振って喜びをとりもどそうとするのだが、すると、その遠景画が、今度は芋銭自身のこの上ない寂愛を伝えてくる。そしてその寂象が、今の自分の老いの心境に重なる。これも収穫ではあろうが、休息の目途からは美事外れてしまった。

 

(二〇一〇、四、二五)

 

注1

 一九九三(平成五)年六月、愛知県美術館で催された。

注2

 放菴については、「日光画信」と銘打って描いた、旅の通信記録の「放菴画冊」が展示されており、百穂は、衆議院の政友会幹事室の議員のスケッチや、本会議場の議員の演説風景のスケッチなどが展示されており、森田恒友については、遊里、射的場、写真館、花屋敷、停車場といった上野界隈の人の出入りを描いたペン画が展示されていた。

 

注3

 一九八八(昭和六三)年九月愛知県美術館で催された『創立一〇〇周年記念東京藝術大学所蔵名作展』に出品されていた。

 

注4

「秦淮」とは、中国南京城内を流れる秦淮運河のことで、詩人杜牧に「泊秦淮」と題する七言絶句があり、そこには、「夜秦淮に泊して酒家に近し、商女は知らず亡国の恨みを」の詩句が見える。「商女」とは無論、妓女、遊女の類を言う。つまりこの絵には、中国的エキゾチズムがモダンに表現されていることになる。






P /