川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

殿堂の等伯から駄菓子屋の英朋へ

 今年の雛の節句は、母の四七日になった。

 法要の翌日、生まれたばかりの赤子を胸奥に抱いたような気分で重苦しくなっていた私は、直ぐには解けるはずもないその気分を少しで紛らそうと、妻と連れ立って上京した。上野で、妻は昔からの友人Tと落ち合い、三人で国立博物館に歩き、平成館で「没後四〇〇年」と銘打った『長谷川等伯』展を観た。

 館内では、妻とTは一緒に歩き、私は一人離れて鑑賞することになる。

 長谷川等伯と言えば、私には、国宝になっている六曲一双の「松林図屏風」に極まってしまっている画家で、その水墨画屏風は、否やをのべるなど思いも寄らぬ傑作として観念づけられてしまっているのだが、それだけに、私には始めてのこの等伯展に対して、それ以外の、水墨画や彩色画に多数出会えるであろう期待があり、結構わくわくしていたのである。

 展覧会は、等伯が北陸・能登で過ごした初期の仏教画から始まっていた。

 四体ずつ三面に描かれた「十二天像」に始まって、軸に描かれた「弁財天十五童子像」「釈迦多宝如来像」「鬼子母神十羅刹女像」「法華経本尊曼陀羅図」等、信仰の対象として具象化された多数の人体的仏像の、或いは立ち或いは座して並ぶ姿に接することになったのだが、そのどれもが、絹本・紙本の、暗い焦げ茶色と化した背景の中、暗い色彩ながら着衣も持物も線描のしかと残った仏像の姿が見え、お蔭でその暗い仏像たちの集う世界に、北国の人々の暮らしの重厚さが現われて、暗くても深く澄明な気分の不思議に落ち込んでしまう。その不思議は、それらの軸を五百年近くも、古びこそすれ傷みのない状態で守り続けてきた、北の地の人々の信仰の厚みに由来しているに違いない。言ってみれば、私は、彼等の暮らしの歴史的温もりを感じ入っていたことになる。

 とりわけ、「鬼子母神十羅刹女像」は三点(内、色の剥落のもっとも少ない富山高岳の大法寺の一点は重文に指定されている)あり、それらは赤子を抱いた鬼子母神を中心に、十人の女の羅刹、即ち鬼女が描かれているのだが、彼女たちはどれも白い豊頬の母性的な優しさを湛えて描かれていて、そこにも、北陸地方なればこその信仰の温もりが滲んで見える。

 その一郭には日蓮聖人像二点(その内、やはり大法寺の一点は保存状態もよく重文に指定されていた)や、その日蓮の教えを継いだ「日乗上人像」の軸があったが、してみると、「十羅刹女像」の信仰は、その日蓮宗の北陸における浸透と深く関わっていることを語っていそうである。

 ともあれ、七尾生まれの等伯が若き日に北陸の地に残した仏教画の世界の韻律は、画家としての彼の原点にそういう世界があったという驚きを新鮮に齎したのだが、同時に、それは今は亡き母が齎している私への精神的気圧に、この時確かに共鳴してのことだと思われた。

 そのために、次に、私は、上京した等伯が仏教画を離れて描いた、初期の山水画や人物画に出会うことになったのだが、その山水画に私の足が引き留められることはさっぱりなく、ただ肖像画だけに目がいくことになった。

 中でも、画集や映像等で見覚えのある「武田信玄像」「千利休像」の重文の二幅は、名僧の肖像とは別して、かつて「狩野永徳」展で「織田信長像」「豊臣秀吉像」「大友宗麟像」にだった。既に北陸に残した作品中にも「仏涅槃図」一点が下げられてあったが、この涅槃図のスケールの大きさは、その五、六倍はあろうか、縦十メートルに横五、六メートルはあろう、一幅に仕立てられた「仏涅槃図」なのである。こんな大きな軸を下げることのできる展示壁面などあるわけがなく、この部屋の床に斜面を作り、その斜面上にこの曲を寝かせ広げて、周囲を回って見ることができるようにしてあった。

 雲中を突き抜けて、満月の天に向かって伸びる沙羅双樹の林の下、身の丈二メートルを越す涅槃入寂のお釈迦様が横たわり、その回りを大勢の仏弟子をはじめ、さまざまな人達、動物達、竜・鳳凰らの想像上のものたちまでが、取り巻き号泣悲嘆している(もっとも、こちらの絵には、北陸の涅槃図に描かれていた釈尊の母、摩耶夫人の降下する姿は描かれていなかった)。しかし、絵が大きすぎるからであろうか、線と色彩の鮮やかに残る画面は、号泣の声も聞こえてこぬ不思議な澄明さーそれは「涅槃」の煩悩を脱した絶対的静寂を私に伝えてきて、何の暗も鬱も覚えないすがすがしい爽やかさなのだ。むしろ、私はこの澄明な爽やかさの中、決して巫山戯た気分ではなく、人間達と画面一番手前の動物達との間あたりに、相擁し合体している恍惚の男女の姿を置きたいとさえ願う、そんな作品だった。画面最上部中央の白い満月が、私の妄想を導く無我の冴えを見せていた。こんな経験は初めてのことだ。この得難い経験を呉れた涅槃図の部屋を過ぎた隣からは、等伯の水墨画が並ぶことになる。しかし、その多数の水墨画が齎す印象は、彼の代表的水墨画「松林図屏風」のイメージとはまるで違っていて、それが私に新鮮な不思議を齎す。

 何よりもその水墨画は、初期の水墨画には全く感じられなかった、岩と樹木の強ばった描きっぷりだった。すっかり馴染んでしまっている「松林図」の柔らかな筆捌きとはまるで違う筆致なのだ。とりわけ山水図に描かれた近景の岩や樹木(松や梅)は、その角張って佶屈した直線によって表現された水墨の走りが、角張った世界を主張して、その画面にリズムを生み出している、そんな作品が多かったのである。

 どちらも重文の、「商山四皓図」(注1)や「禅宗祖師図」の襖絵では、その登場人物の姿までが、屈曲した直線によって表現されており、およそ優雅からは程遠い線描の衣装を纏っていて、周囲の岩や松と異を齎さぬよう、つまり人物が風景化するように描かれている。狩野永徳の水墨画には、こんな佶屈の徹底した岩も樹もなく、登場人物の衣服の線描も、直線の筆勢は持ちながら、いつも瀟洒な美が湛えられていた記憶が残っているが、そういう優しさを伝えてはこない。いずれにしろ、その明確な線の筆致によって、どの絵も朧ろな印象を与えない、ごつごつ角張った強々しい表現、そこに齎されるものこそが、水墨を通して主張したかった等伯の情調だったように見える。対社会的に肩肘張って生きた芸術家らしい孤高の姿を、私は勝手に妄想して楽しんでいる。こうした揚げ句、展覧会の最後は、国宝の「松林図屏風」によって締め括られることになるのだが、それはこの作品が、等伯という画家を代表する、彼を表徴する作品であるとする主催者の(と同時にそれは当然一般の鑑賞者のものにもなっているであろうが)認識を語っているだろう。

 この水墨画を見ていると、霧に覆われた松の林の無限の広がりと奥深さを感じざるを得ないが、その広がりと奥深さをこちらに実感させるのは、この絵が、墨の濃淡によって松を描きこそすれ、それが生うる大地が全く描かれていないことと深く関わっていることに、改めて気付かされる。さらにこれも以前から気になっていたことだが、こうして間近に見ると、描かれて居る松の根が、木の背丈に比してどれも細く弱い線で表されていて心細い生えざまになっているのだ。

 それまでに出展されていた水墨画のどれもが、濃淡による遠近の手法はごく普通に用いられていても、樹木が生える大地の表現を欠くような作品はなかったし、木々の根は、常識的に大地に根付くそれの力の表現として描かれていた。水墨画だけでなく、等伯が描いてきた樹木は、たとえ柳木であっても、木というものの生命の逞しさを現していたのに、ここにはそんな逞しさが消されてしまっている。

 つまり、ここにある広がりと奥深さは、空と漠とに近い。松の木々は、松という実体でありながら、実体としての自己を示す存在感を持っていない。だからといって無というわけではない朧げなもの、そういう実体として存在する、そんな世界の頼りなさをこれ見よがしに表出しているのだ。それが傑作として広く認められているのは、朧げな頼りない存在も、負の世界として間違いなく存在するものだという、その力を我々に語りかけているからだろう。

 それにしても、どうしてこんな絵を描いたのか。ここまで 見てきた等伯の絵の世界からしても、その描き方からしても、これは全く対極的な遠く離れた作品であり、しかもその特異な一点が、等伯の代表作だと思われている以上、この疑いにどうしても嵌まらざるを得なくなる。

 これは展示こそ最後になっていても、決して等伯最晩年の作品ではない。等伯は、慶長十五(一六一〇)年七十二歳で没しているようだが、どうやらこれが描かれたのは五十代半ばの事ではないかと考えられているらしい。

 そういえば、京の画壇でその力を認められてきた等伯が、御所の障壁画の制作を狩野永徳によって阻止され、狩野派の力の大きさを思い知らされたのは、彼が五十を過ぎた頃だったはずだ。しかしその永徳が死し、漸く世に認められだした頃、自分の後を継ぐ者としてその実力が世に認められ始めもし、最も期待していた息子久蔵を亡くしてしまっている。この松林図は、等伯のこういう事態を踏まえた上で描かれたように私には思われ、この松林図のような作品が他に見られないことからしても、ここに画家等伯が陥った空漠朦朧の虚無的現実が裏付けられていると思わないではいられない。

 いずれにしろ、この暗灰色のほの暗い、どこか基域に近いイメージの「松林図」の世界から、私は解き放たれたくなってきていた。

 そして、明るいこの世に戻って、妻の友人と三人で精養軒に行き、昼食を攝った。「午後は、妻は友人と別れ、私たちは同じ上野の東京都美術館に趣き、そこで『ボルゲーゼ美術館展』を観た。ローマの ボルゲーゼ美術館には、そこが、私には、ゲーテの訪れた場所(注2)として記憶されていたこともあって、イタリア行の自由時間に、日本で入場予約を取っておき、妻と出掛けたこともあった。だから懐かしさひとしおと見に寄ったのである。

 かなりの点数は、ローマの美術館で観たものだったために、かつて美術館周辺の公園を散策した記憶がたっぷり蘇ったりして、揚げ句、美術の鑑賞から逸脱してしまうことになった。

 ただ、最後に、特別展示として縦二メートルに横一、五メートル位の、支倉常長の鮮やかな背像画が展示されていたのには驚いた。常長は、さすが仙台藩の家臣に相応しく、着ている紋付き袴の着衣の絵柄が何とも伊達で、柄も鍔も金ぴかの腰の刀に手を添えて立っていた。その足げには、立派な首輪を付けてこちらを向いて座る一匹の黒犬が、なぜか描かれている。作者はアルキータ・リッチ、「ローマ、個人蔵」とあり、ボルゲーゼ美術館の所蔵ではないのに出展されていたのだ。

 支倉常長は、伊達政宗によって企図された慶長遣欧使節団の正使としてローマに渡り、一六一五年一一月にローマ教皇パウルス五世に謁見しているが、その教皇こそは、枢機卿として最高の権力の座についたボルゲーゼ家のカミッロだったのである。その教皇のヴィラ・ボルゲーゼにどうやら支倉常長は食事に招かれもしたようだが、そのヴィラこそがボルグーゼ美術館の建物のそもそもなのだ。

 絵に添えられた解説からそれを知り、展覧会がそれによって締め括られている奇妙に得心がいき、と同時に、丁髷袴姿の常長がヴィラを訪ねたとき、彼が壁面に飾られていたどんな絵を見たのだろうかと思いやることになった。それは、ゲーテがボルゲーゼを訪ねる一五〇年以上前のことだ。

(以下次号)

 

 

 

 注1 「商山四皓」とは、中国の泰の末期に、四人の老人が、商山(陝西省商県の東)に隠棲した故事を言う。 「皓」とは、髪も鬚も眉も真っ白で清らかなことを表す。

 注2 ゲーテの『イタリア紀行』(相良守峯訳)によれば、例えば一七八八年三月の記事に、「一年ぶりで、ある の私はボルゲーゼ画廊に出かけてみた。そして嬉しいことには、私は自分が前よりもずっと進んだ鑑賞力を もって、この画廊を見物しえたことがわかった。」と書かれている。

 

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