京浜東北線の北浦和の駅前の広い路の歩道を、埼玉県立美術館の方に向かって私は歩いていた。電柱の許に積もり残る雪を確かめながら、私は歩いていた。
なのに突然、私は足をすくわれ、残雪の上に腰からすとんと落ちた。目を周囲に馳せたが幸い近くに人影はない。尾融骨を打ったはずだが手を支えに体を起こそうとすれば、腰は普通に反応して立つ。冬の厚着に救われたか。立ち上がって着ているコートの尻を見るに、ウールのせいでか汚れて濡れた様子もない。
私は大きく吐息した。
何とかソーローモーローとしていたことだろう。足が宙に浮いていたのだ。
二週間前、数えで百二歳になった母が、Tクリニクルに入院し、リハビリ病棟のターミナル病室に移されていた。肺に溜まっていた胸水を抜いて、一先ず苦痛を脱したものの、既に点滴の注入がままならなくなっており、余命のないことを知らされて一〇日が過ぎていた。
葬儀までのことを妻と語らい決めたりしながら、病室で介護されている、殆ど物は言わぬものの、意識のはっきりしている穏やかな母を見守って過ごす時の移ろいに、私は追い詰められていき、どんどん息苦しくなる。
二月二日の早朝、私は横着にも一日の外出を妻に請い、卒然上京してしまったのだ。妻がどんな思いで私を送り出したのか、気にしなかったのではないが・・・。
小寒い曇り空に、思わず首を鎮める朝だった。
上野に着くと、公園口の改札口を出て、東京国立博物館へ向かって歩いた。『国宝土偶展』を見ようとしたのである。その会場は、本館一階に、ほの暗くして設えられていた。
この土偶展は、ロンドンの大英博物館で開催された『日本土偶展』の帰国記念展ということで、北海道から長野までの東日本各地から出土した、土偶・土器・土面等、全六十七(国宝三・重文二十三)点の出展だった。
どれも、二十センチから三十センチほどの、掌に乗せうるものばかりで、まさに埴輪(haniwa)の発音にふさわしい、小さく微笑ましい土の温もりを発していた。刻まれたその目と口が、どれも何かを語りたげにしているように思われ、しかもその声を聞き得べくもないだけ、それだけ輪の表情が、どんな表現にも増して深いものに見えて、時々胸が詰まった。
中に一点、まるでこちらのそういう気分を見透かしてでもいるかのように、足の欠損している女性の土偶があって、それが丸顔の切れ長の両目の下に二筋の線を刻んで立ち、泣き顔然とこちらを見ていたのには、思わずぎくりとなった。
腕を組んでしゃがんでいる二点の土偶では、どちらも顔を上げて表情が明るく、「考える人」のように、下手に考え込んだりしていない分、その小ささもあって親しみが沸く。しゃがむ姿の土偶には、今一点、合掌している作があって、それは国宝に指定されていたが、口を丸く開けて祈りの言葉を中空に発しているように見え、私はそこに自分の怨言を聞いてしまいそうだ。
こうした埴輪のほとんどは女性像で、その徴である乳房の小さい造りが、日本の土偶の優しさを楚々と際立たせることになっていて、辿るうちに、その小さな乳首の作りがこよなくいじらしく愛しいものに思われてくる。乳房を葡萄の房のように一杯下げたトルコなどの逞しい豊饒の女神とは異質の、日本民族の優しさを私は読みたくなってくる。
つい二週間前までは、母は、朝起きれば一人で布団をあげ、部屋の縁側に出て、東の方に合掌して祈る仕種を欠かさないできた、長島の田舎で育った女なのだが、その母の、もはや、房とは言えない胸に残っている今の乳首ーー私たち六人に含ませてきた乳首が、目に浮かんでくる。
そして、「縄文のビーナス」「中空土偶」と名指された国宝の二点に会う。ビーナスは、豊満な腰と太い足で安定感を持って立つ、しかしその乳房はやはり小さい突起状に作られていて、表情にあどけない笑みさえ伺わせる何とも初々しい女に仕上がっている。
もう一方は、「ビーナス」のような女らしさはなく、上半身の胸と肩背の部分が、衣装を纏ったかのように左右相称に縄文式模様で装飾され、下半身もまるでズボンを履いたように同じ模様が施されていて、あたかも墓の死者を守るべく正装をして埋められたと訴えているような、愛嬌を断った生真面目な顔に仕上がっている。そこには、死者の傍らでそれを守る重みに耐えて立つ者の、ある力が漂っている。
後半は、壺や鉢の土器や仮面などが置かれていた。
土器の側面には人の顔や姿が貼り付けられ、線状に彫りが入れられて、見やすく細工が施されているものが多く、その顔や姿の無邪気なあどけなさは、ほとんど無心に成立しているだけに、また土器が小さいだけにこちらの胸にこたえる。
こういうものを、回りに一杯納めて埋められたであろう大昔の死んだ人の、その生きている者からの思われ方を思わないではいられなくなってくる。
それでも、一時間を経ずして私は、太古に関わるそのほのぐらい空間から出ることになった。しかし、天候のせいもあってか、会場の空間のある音さから解き放たれる感じが全くない。
私は、上野発十一時三十分の高崎行で、浦和に向かう。浦和で、京浜東北線に乗り換え、十二時十分頃北浦和に着いた。
こうして、埼玉県立近代美術館への道を私は辿っていたのである。
私の歩行に違和は生じていなかった。
私は『小村雪岱(せったい)とその時代』展を見るべく美術館に入館する。
小村雪岱について、私はその名前を聞き知っている他は何も知っていない。泉鏡花本の装丁を手掛けた、鏑木清方の頃の挿絵画家だということを知る程度だが、その装丁本を手にしたこともない。
しかし彼の展覧会を知ったのは例によって「日曜美術館」からである。雪岱の、人気のない和室を青柳の枝垂れる庭の高みから俯瞰した、陰影の濃淡をまるで持たぬ、淡い色彩でひっそり描いた一点の日本画、それをTVの画面に見た時、そこから穏やかながら不思議に緊張した空気がこちらに伝わり、この日頃の私に響いたのである。
しかし、一人の画家の展覧会としては、何とも奇妙な落ち着きのない展覧会だった。それは、雪岱という画家が、単行本や雑誌の装丁画家であり、新聞小説などの挿絵画家であり、有名な芝居の、舞台美術の作成者であり、そして当然日本画も描いた画家でもあったという具合で、その取り留めのなさが、そのまま今の私の落ち着かぬ状態に重なって、奇妙な佇まいを私に齎す展覧会になっていたのだ。
しかも、作品は、挿絵にしろ装丁にしろ舞台装置図にしろ、大きなものになるはずはなく、どれも小品として完成していて、本画でさえ、丈一メートルを越していたのは軸仕立てになっている「河庄」(1)という作品ぐらいだったろうか、TVで見た人気のない和室の作品「青柳」だって、五〇センチに満たない小品だったのである。
こうなると、展示された作品から迫力を感じるなどということは、まずあり得ないことで、作品に、鑑賞者に向かって屹立し問いかけるような対峙の姿勢はさらに感じられず、従ってその佇まいは楚々たるものにならざるを得ず、それだけ、どの作品も、掌の内にあるような身近な風姿を取りながら、その実ガラスを隔てて触れることのできぬ距離を置いて見なければならぬ、そんな心寂しいじれったさを負わされることになったのである。
それは奇妙に落ち着かぬ鑑賞だった。そしてその奇妙さが、こで、私が見知っている「一本刀土俵入」の取手宿の場や、「国定忠次」の赤城神社前の場などが、実は雪岱の作ったものだったことをはじめて知ったのである。
見甲斐あり、見終わればやがて二時。
私は、品切れになっている図録を売店で注文してから、レストランに行き、一番奥の壁沿いのテーブルに腰を下ろし、ランチを注文した。そして登場してきたスープの暖かさに一息ついて、上体の力が緩んだ時、ショルダーバッグの中の携帯が鳴った。ぎくっとして携帯を取れば、妻の声が母の病状の改まったことを伝えてきた。それでも食事だけは済ませ、後は、急いで北浦和から京浜東北線の快速に乗った。東京に十五時過ぎに着き、十五時三十三分のひかりに乗ることが出来た。このタ、病室の母の枕元に着いたのは六時過ぎになった。
母が息を静かに引き取ったのは、その翌々日、二月四日の昼過ぎである。
五日の朝、ちらちらと雪が舞った。それは旅立つ母の私へのささやきのように見えた。
(二〇一〇、二、一五)
注1
「河庄」とは、近松門左衛門の『心中天網島』の前半「河庄の場」の舞台になる曾根崎新地の茶屋の名前である。遊女の小春が、心中を企てるほど相愛の男治兵衛の女房からの手紙の訴えに接し、治兵衛に偽りの愛想尽かしを言って、心ならずも別れる場面が「河庄」である。