川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

煙靄のモネ

 描かれた対象の日本的である点からしても、描かれた作品の目に触れる機会の多さからしても、モネの「睡蓮」は、日本人に最も親しまれている作品の一つであろう。今や、当の睡蓮の花咲く池に太鼓橋のかかった日本庭園の見物旁々、モネのジヴェルニーの邸宅を見学するツァーも催されるとか聞く御時世、パリのオランジェリー美術館の地階の広い楕円形の部屋の壁面をぐるりと取り巻いて飾られた睡蓮の池の松がテレビで紹介されたりもして、モネの「睡蓮」、「睡蓮」のモネというのは、日本人のモネに寄せる共通の親昵認識になっているのではないか。無論、私も「睡蓮」の絵を、モネを代表する絵として認めることに吝かではない。吝かではないほどにモネの絵は私に美しいのである。

 モネの絵の美しさがその詩的抒情性にあるというのは、大方の認めるところであろうが、この詩的抒情性こそが、日本人の私達に彼の絵に対する懐かしい慕わしさを齎していると思われる。そのことは、モネと並んで日本人に親しまれているいま一人の印象派の画家ルノワールの場合を考えてみれば納得が行くはずである。ルノワールの絵は、その殆どが人物画であり、人物画の圧倒的な部分は、豊満で明るく大らかな裸婦像の軽やかさで占められている。それは、少なくともこれまでの日本人の趣向からは、全く異質のものだと言ってよかろう。つまり、ルノワールへの共鳴は、日本人には欠けているものへの憧れによるものだと分かる。

 さて、「睡蓮」の絵の美しさはこれを認めるものの、私にとってのモネということになると、それは多くのモネファンにとってもおそらくそうであるように、決して「睡蓮」ではない。私の最も好きなモネは、一八七四年第一回印象派展に出品された『印象・日の出」のモネであり、一八七七年に製作された『サン・ラザール駅』のモネであり、一八九九年以後、再三ロンドンに渡って製作されたテムズ河風景の連作のモネである。そのうち、『印象・日の出』は、一九八二年の秋に国立西洋美術館で催された「モネ展』で、「サン・ラザール駅』は一九九六年の初夏神戸市立博物館で開かれた『オルセー美術館展」で、テムズ河風景の連作は、一九九四年の初夏名古屋市美術館で行われた「モネ展」他の幾つかの展覧会で、それぞれ私は見たのである。

 『印象・日の出」のそもそもは、単に『日の出」と題されていたに過ぎぬが、出展に際しその芸のない表題を咎められたモネが、即席に「印象」の語を付け加えて題にしたということだ。そして、付け加えられたその語を用いての揶揄嘲笑として、「印象派」の語が誕生したというのだから、この絵は近代絵画史上の記念碑的作品ということになるが、私がこの絵に引かれるのはその故ではない。

 ところで、この絵は、ル・アーブル港の日の出の景色を手早く荒い筆掃きで描いていて、船も港湾施設も煙突も深い朝靄に打ち霞んで物の形を定かにしない。定かならぬ朝焼けの靄の中、太陽の朱色だけが丸くかっきりとこちらの眼を捉え、波上に落ちる朱い陽かげのゆらめきと、まるで彫のように黒い手漕ぎの遠近二艘の小船とが、絵のアクセントをなしている。なすり付けたような筆捌きが、技巧として煙霧に霞む模糊の景に、美事に結晶したところ、つまり視界に映ずる定かな姿形ではなく、刻々変わって定まらぬ煙霧への印象、印象としてより描きようのない物の、巧まぬ技巧の巧みな表現に私は引かれるのだ。そして、モ不自身が苦慮した揚げ句でなく咄嗟に名付けただけに、この絵が、まさしく風県の嘘偽りのない「印象」画であることを裏付け、表題の真実を保証している。

 無論、定かな形姿を霧の中に封じ込めるような模糊たる絵は、既にターナーに多くの例を見ることができる。モネもこの絵を描いた三年前の一八七〇年、普仏戦争を避けてロンドンに逃れた折にターナーの絵に出会っていて、その影響は否めないということになるが、ターナーが、物の姿を靄の中に覆うことで物の形を現実から遠ざけ、古めかしく錆び漬けにしてしまっているのに対して、モネは靄そのものの動く現実を、印象という一瞬の相として表現することで新しさを獲得しているのである。

 新しさは、『サン・ラザール駅」における、産業革命による近代の表徴としての汽車の白煙の濛々を描くことによって一層の磨きがかかる。高い鉄の天井に向かって白く青く煙を噴き上げながら向こうへ出て行く機関車を中心に、大きな屋根の下、構内に吐き散った煙りに、遥か向こうの街の背景が煙る景観が描かれている。ここでも、一方に、一九八六年の秋に国立西洋美術館の『ターナー展』で観た、それこそ広漠たる朦朧模糊の空間の中、鉄橋を渡ってくる黒い列車を描いた「雨、蒸気、速度ーーグレート・ウェスタン鉄道」が思い出されもするが、途端、ターナーの絵の古さを感じないではいられなくなってしまう。ターナーの画面からは「蒸気」の動きも汽車の「速度」も感じられない。ターナーがこの絵を発表した一八四四年、彼は六九歳の晩年に達しており、モネが『サン・ラザール駅」を描いた一八七七年は、彼の三七歳の時点である。フランスで言えば、ナポレオン三世の登場直前と、彼の第二帝政時代が終わり共和制恋法が制定されるに至った頃との時代差もあった。煙を描くモネは紛れもなく近代の申し子だったのである。モネのこの絵が描かれた三五年後の一九一二年、澤木四方吉は、この『サン・ラザール駅』をリュクサンブール宮で観て、「その当時には 手法においても題材においても突飛なものであったかも知れないが、今ではもう疾うにクラシックにはいってしまった」(『美術の都』)と言っていて、印象派の絵画が完全に市民権を得たことを伝えているが、と同時に、澤木に「クラシックにはいってしまった」と言われたその時点より、さらに過去なるターナーの絵が、それこそ古典的絵画の範疇で把握されても致し方がないことを裏書きしてもいることになろう。

 モネの『ナン・ラザール駅」と題する絵は、他にも一九九四年の『シカゴ美術館展』に出展された一点ーーこの絵はオルセーの絵と相似た構図で、到着した列車の機関車の煙りが構内に噴き上がって大都会の駅の息づかいを伝える素敵な作品であるーーと、同じ年開催の『モネ展」に出展された日本の個人蔵になる一点ーー残念ながらこちらの出来はオルセー美術館やシカゴ美術館のものより数等見劣りがするーーを見ているが、こういうシリーズによる連作は、これ以後モネの画業の特徴となり、モネという画家の特質を作り上げることになる。そういう連作の代表的な一つに、一九〇四年に三七点を一挙公開した「テムズ河風景」があることになる。一八八九年から三年の間両三度ロンドンを訪れて取り組んだこのシリーズは、テムズ河に架かるチャリング・クロス橋あるいはウォータールー橋を描いたものと、テムズ河岸の国会議事堂を描いたものの三種類からなるようだが、このうち私が展覧会で見たのは、チヤリング・クロス橋の絵七点、ウォータールー橋の絵七点、国会議事堂の絵三点である。このうち国会議事堂の三点は、どれも、夕焼け空の雲とその光を映し返した河波との中に形のように議事堂の建物が描かれていて、絵全体に定かなるものは何一つない烟霧芒洋の景である。二つの橋を描いたものも輪郭線の明瞭な絵は一点たりとなく、横長の画面を左右に走る橋は、僅かな陽差しの無天の下、河面に揺らめく影を落とし、ウォータールーの橋上に は馬車や人の行き交いが、チャリング・クロスの橋上には通る汽車の靡く煙りが、全て影のように描かれて、シャーロック・ホームズの登場を首肯させる、「常の倫敦」の近代的風情を表現して遺憾がない。

 要するに、以上語ってきた私の好きなモネは、全てと霧と靄と煙りによる刻々の変化を予測させる可変的光景ーーその実態定め難い可変性こそが近代というものの特質であろうーーばかりだったということになるが、全く他の印象派の画家たち、ルノワールは無論のこと、ドガにしろ、ピサロ、シスレー、セザンヌにしろ、モネのように霧と煙りによって模糊と化した風景に拘った者は、寡聞にして一人もいないように見える。

 モネが『印象・日の出』を描いた六年前に、既にこの世を去っていた近代詩人としての先達ボードレールは、その『巴里の憂鬱』の中で、「凡そ固定した芸術、実証的なる芸術は、純粋なる夢、解析せられざる印象に較ぶれば、寧ろ冒涜である」(三好 達治の訳による)と詠ったが、してみるとモネは、ボードレールの詩的近代を絵画において裏付けて見せようとした、果敢な実験的画家ということになりはしないか。

(二〇〇一、八、二五)

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