川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

「炎踊」の中に舞続ける愚

 前日十一月二十日、私は六本木の国立新美術館で友人Sと会い、同館の『ザ・ハプスブルク展』とサントリー美術館の 鏑木清方の『清方ノスタルジー』展を観ていた。

 「ハプスブルク」の方は、ウィーン美術史美術館とブダペスト国立美術館の所蔵になる、絵画から彫刻・工芸品にまで及ぶ作品群によって、ヨーロッパに君臨したオーストリア帝国の栄光を紹介しようとするもので、それだけに、これまでに見知っている作品も多く、親しみやすいものだった。その親しみやすさを裏付けるためにも、作品の幾つかを下記に注しておくことにする (注1)。

 それに対して清方の方は、それとは全く対照的、光沢を帯びた濃厚な油絵の世界に比べて、その邦画の色彩は余りにも淡く頼りなげに見え、滑方に対するかねてからの親愛の気持ちが大きいだけに、また初めて鏑木清方の展覧会を見た時(注2)の喜びが鮮明であるだけに、今回その観客の閑散振りとも相俟って、何とも無力で肌寒いものに思われてしまう。

もう、鏑木清方が、人を呼ぶ力を発揮できる時代ではなくなっている、これが現実なのだと知らされたのだ。肌寒くもなるわけだ。

 ともあれ、その日最大の収穫は、原宿の駅から遠からぬビルの海鮮料理店で、Sとゆっくり語らう時間を持てたことだった。

 そして今朝、私は、御徒町のホテルを九時過ぎに出て、今度新しく建てられた山種美術館へ、開館記念展として催されている『速水御舟』展を見に向かっていた。

 一体、私の速水御舟という画家への関心は、彼の代表作で重要文化財の指定を受けている「炎舞」一点に発している。この一点がなかったら、私の速水御舟への拘りがこんなにも深いものになることはなかったはずである。

 私が画集などで知った「炎舞」、それは闇の中に燃え立ち舞う朱い一つの炎と、その尖煙に舞い飛ぶ蟻の群れが描かれた縦長の一点で、そこには日本画が理念として抱え持つ静謐の美というものが、闇の中の命運の揺らぎとして、暗示表徴的に、かつ極めて知的に造形されており、私にはまさしく昭和以後の現代日本画の傑作中の傑作に見えた。そこに私は、詩的叙情的に結晶した人間の情念とでもいうべきものを、新鮮に受け止めていたのだ。そして、「炎舞」に相会う時の訪れるのをずっと待ち設けてきた。その、待った甘露の日の到来は、二〇〇一年の秋だった。名古屋に来てくれた(注3)のである。

 このとき、御舟の絵は十点ほど出展され、中には金地に描 かれた「翠苔緑芝」という四曲一双の屏風の大作もあったが、「炎舞」の魅力を越すものではなかった。

 またこのとき、それまでに見たことがある竹内栖鳳の重文になっている「班猫」や、小林古径の「清姫」の「日高川」、前田青邨の「大物浦」や土田麦僊の「大原女」、村上華岳の「裸婦図」や伊東深水の「婦人像」等、それぞれの画家の個人展でそれまでに見知っている作品が出展されており、それらが全て山種美術館の所蔵になるものだということを初めて知って、この美術館の収蔵品の美事な豊饒さに脱帽したものである。

 爾来、山種美術館は、私には一度は訪ねてみなければならぬ美術館となった。だが、名古屋人の私には、その美術館は何とも交通不便な場所に思われ行きそびれていた。それが、二〇〇四年の秋、その「生誕一二〇年」を記念した「速水御舟展」が山種美術館で催されると知り、私は漸く千鳥ヶ淵にあったその美術館を訪ねることができた。そしてその時、名古屋で観た「炎舞」「型苔緑芝」に再見できた上に、御舟今一点の重文「名樹散椿」以下五〇点近い作品に見えることができ、御舟という画家の仕事振に、いささか触れえた喜びを得たのだが、その五〇点ほどの半数は、五〇センチほどの小品ばかりであったにもかかわらず、壁は隙間なく作品で一杯なってしまっていて、凡そ美術館とは名ばかりの、極めて狭い展示場なのには驚いた。

 だからこそ今度新しく美術館を造営し、そのお披露目の展覧会を、館自慢の所蔵である、御用の作品全点によって催してみせることにしたのは、山種当然の自負というものであろう。

私は御舟との三度目の出会いを、新しくきっと広くもあろう展示室でたっぷり見得る幸せを予想したのである。

 私は山手線を恵比須で降り、渋谷橋の四つ辻を渡って、広い駒沢通りの坂を北へ十分程上ると、山種美術館の白いビルの前にたどり着いた。

 早速ビルに入り、通りに面して明るいカフェのある一階のフロントでチケットを求めると、ロッカーにバッグを預けて会場へ向かう。ところが、意外にもその会場への矢印が地階に向けられている。

 これから、美術館所蔵の百二十点に及ぶ御府の全作品を、外光から全く遮断された地下の密閉空間で見ることになるわけだが、私は、そこに閉じ込められる圧迫感を予感しながら、

地下への階段を下りねばならなくなる。

 しかし幸いにもその迫感は、御丹の作品の前に出たら薄れ、ホッとする。

 「それは、初期の「瘤取之巻」「赤城路巻(小下図)」の絵巻等の、これが御舟作品かと思ってしまうような筆の幼い作品が、圧迫感や緊張から解きほぐしてくれたからである。とりわけ「赤城路」を描いた山や草木や村の家は、とても画家の卵とは認めがたいほどの稚拙な描き振りなのだ。お義理にも

上手とは言えないこの筆先から重文の「炎舞」が生まれることになるというそこに、御舟という画家のミステリアスな深さがあって面白いと思い始める。

 その御舟に、一九二三(大正一二)年の関東大震災の写生二点と「灰燼」と題する作品一点が出てくるのだが、それは震災という現実が、これまで存在した現実を全く壊された非現実乃至は超現実として、つまり信じられない世界に造形されてしまった(実際は破壊されてしまった)現実として、御舟に見えていたのではないかと思わせる出来になっている。こういう御舟の目が、庇に鳥が数羽いるほかには何もない藳屋根農家の軒先を描いた、翌年作の「春昼」という作品にも色濃く伺われ、それが行き着いて、二四年の「炎舞」や二五年の「葉陰魔手」という八手の葉の下に巣をかけている蜘蛛を描いたもの、同じく「桂城舞戯」という渦状の光の中へ吸われるように舞う色とりどりの蛾を描いたものに結晶して行ったのだと見えてくる。つまり、日常的現実が抱え持つ非現実の現実=人気のない静謐な空間=一種の異空間として、御丹の絵は緩められて行っているように思われるのだ。そこに、

御舟に痛した関東大震災の影の大きさを伺わないではいられなくなる。

それに続いては、昭和に入って、一九三〇(昭和五)年に渡欧するまでの、御舟の専ら草木を主題にした作品群が並ぶ。その最高傑作が、一九二九年に描かれ重文指定を受けている今一点の、「名樹散椿」と題する二曲一双の屏風絵なのだが、そこに至るまでの作品群の中で、私が最も魅せられたものは、著名な様々な桜の樹の樹体を写生したものだった。その写生は、御舟が、桜の樹の細い枝振りを描くことに関心を持ち、その細い枝振りが、樹を吹き渡る風の中で成り立ってきたものであることに目が留められていた。見ていると、御舟がそれら桜樹の枝振りを描きながら、その中に風の音楽を聴いていたことがよく分かる。つまり描く草木の世界が、その草木自体の姿を決定づける動の結晶として存在しているという認識を、御舟は抱いていたようだ。それあって、「名樹散椿」の、椿の樹体が、流れるような動のリズムをこちらに伝えてくる静謐な光景として、成立しているのだと納得がゆく。

 そして、御舟渡欧時代の作品が登場する。行く先々でのスケッチや写生、日本画として仕上げられた作品が並び、異国の風物に対する御舟の驚悸驚倒ぶりが伝わってくる。それらの作品の、従来の作品にはない御舟の新鮮さは、人物の風俗的表現と建造物の西欧風な風景表現との二面において際立っている。建造物の表現から伺われるのは、これまでの作品には見られなかった仰視と俯瞰の視線であり、人物表現が語るのは、極めて私的な生活の場における身なりと仕種への注視である。描かれる西欧の裏町の景の中に、そこに生きる人の姿が描かれているなどは、御舟の眼差しの新しさそのものである。

 しかも、帰国後の昭和八年、朝鮮へ渡った際に描かれた一点が私を驚かす。それは室内の二人の朝鮮の女性を描いた「青丘婦女抄蝙蝠」という作品だった。「蝙蝠」とはさそりのさなぎの意だろうが、朝鮮の再下級の遊女を指す言葉だというのだ。無論「青上」とは理想郷=ユートピアのことであろう。

客を待つ賊女の、御舟の楚々たる彩色と筆遣いによって清楚にさえ見える表現に接していると、アイロニーを超えた、御舟のと言うべきか日本画のと言うべきか、憂愁とでもいうものが伝わってくる。

 こうした経緯の挙げ句、昭和九年、死の前年に御舟が取り組んだ大作「婦女群像」の未完作とその大下絵二点ーーこれら三点はいずれも縦二メートルに横三メートルを越す大きさだったーー、その作品の婦女の、個々のポーズをとった和服姿のスケッチや、更には、そうした婦女像と取り組むための作業だったと思われる、昭和八年に試みられた十点を越す裸婦のデッサンに出会う。そんな人物像は、これまでの御舟には一点もなく、それはヨーロッパから帰った御舟が、その影響を内面化し、新しい自己への挑戦を始めたことを我々に布告している。何よりも、この人物像との取り組みには、これまでの静物画を中心にした日本画の静謐清澄さとは異なる、人間という生臭さを当の日本画に取り込もうとする、大きな境地への志が伺え、その意味で御舟絵画の以後の展開を、非常に新鮮な思いで期待させる。

 しかし、「婦女群像」の完成を見ることなく、御舟は翌十年春に四十年の生涯を閉じてしまうのだ。岸田劉生の死にもこれに似た口惜しさを抱かないではない(注4)が、新しい取り組みの大きさが具体的に残されているだけ、御用の早逝が日本美術のその後に残した損失の大きさが思われ、残念でならなくなる。

 そして最後に、その昭和八・九年に描かれた御舟らしい花と草木の絵が十数点並ぶ。その内の、格別黒っぽい濃淡の花や葉に幽玄の趣深い、「桔梗」「牡丹花」「秋茄子」の絵に別れの名残を抱いて、私は会場をあとにすることになる。

 私は御舟のこの展覧会に得るところはあったはずなのに、会場が地下だったせいもあってか心晴れず、一寸重い気分で、明るい地上に戻ることになった。

 さてその日は、もう一つ、日曜美術館で紹介された『聖地チベット』展を見ようと決めていた。TVに紹介されていた、鍍金の輝きの美しい特異なチベット仏像群に、私は魅入られていたからである。上野へ急ぎ、美味くもない蕎麦を喫してから私は上野の森美術館に入館する。

 会場に鎮座した像は数体の釈迦像から始まったが、これに違和感を覚えることはなかった。ところが、次の何点もの祖師像になると、それぞれ高さ一メートルはあろう金の座像が、あるいは眼を剥き、あるいは怒りを痛めて睨みして、間違いなく周囲を威圧する者として造形されており、日本の空海を始めとする祖師達の穏やかで瞑想的な表情とは似ても似つかぬものだ。祖師たちは、どれも現実の人間を睨む存在として造形されている。

 その驚きは、続くチベット密教の仏像群に出会うことで極まる。まず千手観音が、半端でない。丈は一メートルに満たぬ小柄だが、八幡十一面の本体の左右に、円い翼状を成して六層に干手が彫られ輸されている像で、その十一面は、三面が三段に積み重ねられ、その上に、一面ずつ二段に重なっており、その二段の二面を除けば、どれも若く美しい女性の顔が、笑まいをもって彫られている。やや開脚気味に立つ足は、五指を広げて何とも愛らしい。しかも両翼の千手の掌には一掌ごとに眼が開かれているのだ。そういう銅製鍍金の像が、トルコ石の装飾を付け、剥げ落ちた所など全くなく金色に輝いて立っているのだ。塗色の落剥した古色によって仏像を有り難がっている私には、極めて異様な気配に襲われることになる。

 その異様さは「カーラチャクラ父母仏(注5)立像」によって極まった。

 大きさは五・六〇センチの立像なのだが、多数の頭と腕とが入り組んだ二体の男女像がどうやら相擁し合体している姿らしいのだ。思わず数えてみると、憤怒の相の男仏は、四面で二十四臂、女の方は四面に八臂の像で、男仏の二臂は女仏を抱き、二仏の足は邪鬼を踏みつけて立っている。横から見ると、向き合った男女四面の内の一面ずつが鼻擦り合わせ口づけせんばかりに鋳造されている、その細部の細かな造りにも驚かされる。正面からこちらに目を注いでいるのは、泡かれた女仏の背中側の面になる。怒りと和合とが一体化した金色の仏像の奇妙。しかも、別に、四面二十四臂の男仏に一面二層の普通の女性が足を男仏に絡め抱きついている「父母像」さえあって、私は唖然とする。

 そういえば、座したり立ったりしているターラー仏(注6)は、どれもリアルな乳房を見せていて、顔の造りも、日本の仏像のように中性化・無性化されていない、美しく理想化された現実的な女なのだ。そんな、日常には存在しない、しかし現実的な美女の顔立ちを持った仏像達の中で、開いた脚下にそれぞれ人間を踏んづけ、腰を捻り落として立つ、若い乳房の彫りもあらわな「ダーキニー立像」ーーダーキニーが茶吉尼だとすれば、日本では狐の精として信仰される稲荷明神のことになるのだがーーは、私には格段のものだった。何しろ額には三つ目の目を持ち、笑う口からは牙立った犬歯が見え、つり上がった批の怒り顔は、ほとんど艶と言うに足る。四十個はあろう髑髏を繋いだ大きな数珠を首に下げ、同じ髑髏五面を並べてできた宝冠をかぶり、金剛杵の上に三つの人頭を載せた錫杖を左肩に立てている様は、私の仏像イメージを全く超えてしまっている。と同時に、生と死の厳しい寒冷の現実世界と向き合うチベットの人達の、観念的とは言い難い祈りのありようを垣間見ることができたように思ってしまう。

 私は、空気の薄く澄んだ四千メートルの高地の、五色のタルチョの旗がなびく遠い遠い世界を思い遣った。馴染むことなどとても叶わぬであろう、その地の気候・風俗・生活を思い遣った。そういう地にこそ適うのであろう希有な多数の生々しい仏たちに出会えてよかったと、つくづく思った。

 帰りの列車での、席を倒して乗る満ち足りた気分が、ちらと想像される。そして、車中で美味しい駅弁を食べたくなってくる。

 

(二〇〇九、一二、一)

 

注1 まずハプスブルク家の肖像では、

①顎のしゃくれた長い顔で名高い「皇帝ルドルフ二世」像、②赤い軍服を纏い鼻下の偉大な白で著名な「皇帝フランツ・ヨーゼフ一世」像、③青い衣を纏った「女帝マリア・テレジア」の十一歳の少女像、④裾長く豊かに白い夜会服を身に纏い、肩なす黒髪に宝石をちりばめ、こちらを振り向いて立つ、美女の評判高かった、周知の「皇妃エリザベート」の像など。

イタリア絵画では、

①ラファエッロの「若い男の肖像」、②ティツィアーの「イザベッラ・デステ」の肖像、③ティントレットの「キリストの答打ち」、④ヴェロネーゼの「ホロフェルネスの首を持つユディット」、グイド・カニャッチの有名な「クレオパトラの自害」など。

ドイツ絵画では、

①デューラーの小品ながら著名な「若いヴェネツィア女性の肖像」、②クラナッハ(父)の「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」など。

オランダ絵画では、

①プリューゲル(父)の「森の風景」、②ルーベンスの「懺悔のマグダラのマリアと姉マルタ」、③ヴァン・ダイクの「聖フランチェスコの法悦」、④レンブラントの肖像画として知られた「読書する息子ティトゥス」、⑤ライスダールの「渡し舟のある川の風景」など。

スペイン絵画では、

①エル・グレコの「受胎告知」、②スルバランの「聖家族」③ベラスケスの著名な「白衣の王女マルガリータ・テレサ」と「皇太子フェリペ・プロスペロ」④ムリーリョの「悪魔を奈落に突き落とす大天使ミカエル」⑤「ゴヤの「ホセ・アントニオ侯の肖像」など。

なお本展では、明治天皇が皇帝フランツ・ヨーゼフ一世に、日墺友好のしるしとして送ったという、各五十図を貼った画帖二冊と蒔絵棚二点も展示されていた。

2  私が「鏑木清方展」を見たのは、一九九二年のことで、没後二〇年を記念してのものだったが、大阪難波の高島屋でのことである。それは清方の最高傑作とされる「築地明石町」こそなかった(代わりに下絵が展示されていた)が、水仙を手に美登利が墓にもたれ掛かるように身を寄せている「一葉女史の墓」や、心中しようと相擁した梅川と忠兵衛を描いた「薄雪」や、足許の踏み絵を前にして立つ長崎花魁を描いた「ためさるゝ日」、肖像画として評判の高い「一葉」像や「慶喜恭順」図、風俗画として秀でた十二の軸からなる「明治風俗十二ヶ月」や「朝夕安居」、挿絵画家としての器景を残す「にごりえ」や「金色夜叉」や「注文帖」や「朝顔日記」といった主要作品を網羅した展示で充実した内容だった。

 今回の「清方ノスタルジア」も、ここに記した主要作品の多くを出展しており、前回見えなかった六曲一隻の「妖魚」や、二曲一双の「道場寺《山づくし》・鷺娘」、二曲一隻の「早春」などの屏風絵の大作が出展されており、内容的には充実していたはずである。

3 その展覧会は「山種美術館名品展」と名乗り、副題「日本画うつくしきものの系譜」の下に、二〇〇一年一〇月から一一月にかけて、名古屋市美術館で催された。

4 このことについては、既に『緑』五八八号(二〇一一年十月)の『忘れえぬのは何だったのか』で触れた。

5 図録によって後で知ったことだが、カーラチャクラは一切の悪に勝つ最強の仏で、明妃ヴィシュヴァマーターと一体になって、その力を発揮すると考えられているらしい。その際に、慈悲の象徴として働くのが男(父)仏、智慧の象徴として働くのが女(母)仏だとされるようだ。

6 ターラーは、観音菩薩の瞳から放たれた光明をもとに生まれたと考えられ、観音の救いから洩れた衆生を救う女の仏らしい。したがってチベットでは幅広い信仰を得ているようである。

 

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