(承前)
二
「忘れえぬロシア」展は、数点の風景画と、ロシアの市民たちの日常生活の中のイヴェントを扱った風俗画とで始まった。どれもが大作とは程遠い小品であったがために、ある親しさを持って見ることができた。
それに続いて、きんぴかの衣装で着飾った大道芸人の少女や、豪奢な民族衣装を纏って腕の鷹を高く差し上げたキルギス遊牧民の鷹匠の像、またタマネギ型の尖塔を備えた修道院が森の奥に佇む風景画などを見ると、ロシア的な異文化の風土民俗が好ましく伝わってくる。
そうした上で、その丈が殆ど一メートルを越す、立派な肖像画の一群に出会うことになる。そして、その肖像画群の中に、三人のロシア文豪の肖像画を私は見ることになる。
最初に、イリヤ・レーピンが描いた『文豪ツルゲーネフの肖像』に出会う。黒い服を着、眼鏡を膝上に持ってやや左向きに肘掛け椅子に掛けた、白骨豊かで中高の、鋭くこちらに眼を据えた大きな顔のツルゲーネフ像である。「偉容」と言ってよいほどのその堂々たる肖像に、私は落ち着かない。彼の「初恋」や「ルージン」から受けている、詩的で叙情的な印象から、その顔はどこかずれているのだ。しかし、いい顔だとは思う。
次には『文豪チェーホフの肖像』に出会う。ヨシフ・ブラースの作品である。
このチェーホフもやはり黒っぽい服を纏い、上体をこちらから見てやや右手に寄せ、左手で頬杖をつき肘掛け椅子に掛けている、真正面から描かれた絵だったが、私に納得のゆくチェーホフ像だった。眼鏡の奥からこちらに放たれる眼差しも、眉間に寄せられた皺のせいでか、どこか悲哀を帯び、口元を支えた手のせいで心持ち歪んだその口が、どこか笑みを含んでいるようにも見えるのだが、その表情は、その作品が私に齎してきたイロニカルなチェーホフらしさを、何ともよく体現していて嬉しくなる。鼻下から顎にかけてのまだ黒さの残る髭を蓄えた痩貌と、腰に構えるようにして握られた右の拳が、彼の作品がいつも私に伝えてきた人というものの痛ましさを物語っているように見えてしまう。
そして三点目が、ニコライ・ゲイの『文豪トルストイの肖像』になる。その前に立って、この作品は二度目だと気づく(注2)。気づいて、前に見た時もそうだったのだが、何とも座り心地の悪い思いを、あらためて感じ直す羽目に陥る(注3)。第一その絵は、「肖像」と銘打ちながら、当人が前の二人のように、画家に描かれる対象として己を位置付けて、画家の前に身を置くというモデルとしての構えをまるで欠いている。
机の前に掛けてペンを持ち、眉間の皺深く面伏せになって執筆している髭一杯のトルストイ像なのだが、その実、彼の眼は自らが書くペン先にぴたりと注がれてはいなくて、ずれて私には見える。しかも、そのペン先が用紙から浮いていて、筆記姿勢のポーズをとっているだけのように見えるのだ。なぜ作家の演技を見せなければならなかったのか、またなぜそれが演技だと分かるように画家ゲイはトルストイを描かねばならなかったのか、そこが分からない。分からない不思議にトルストイの意味が隠されているとでも言うのだろうか。これまた分からない。
しかも、今度もやはり、このトルストイのしかめっ面の背後に、私は徳富蘆花の髭面を思い見てしまう。ニコライ・ゲイがこのトルストイを描いたのは、一八八四年と掲示されているから、まだ六十歳前でモスクワにいる頃のトルストイだということになるが、蘆花徳富健次郎は、その二十二年後の、一九〇六年七月に、寒村ヤスナヤ・ポリヤナに隠棲していた七十八歳のトルストイを、一人で訪ねているのである(注4)。三十七歳だった藍花の、「巡礼紀行」に纏められたその旅は、!日本の作家としては無論のこと、いかに蘆花がのぼせ性だったとしても、当時の日本人としても桁外れの試みだったと思う。何しろ蘆花自身述懐しているように、まるでロシア語を話せないままでトルストイに逢いに行ったのである。その無謀なといってよいトルストイに対する傾倒ぶりに対する驚嘆の念が、トルストイの肖像が肖像だけに、どうしても蘆花を連想させてしまうのである。
この三大作家との面会を経て、ようやくクラムスコイの『忘れえぬ女』に出会うことになったのである。会って絵の前に立てば、なるほどこれかと、絵が醸す緊張に、一寸身じまいを正すかのように些か畏まる。
絵は、ビルの屋根に雪を乗せ識に淡く霞んだ街を背景にして、馬車の席に、黒い帽子と濃紺の冬衣装に身を固めて掛けている主人公の若い女性を、冬の空気の中にくっきりと浮き立たせている。その若い女が「忘れえぬ」のは、無論その顔立ちによっている。決して細面ではなく、鼻筋も高くはないのだが、その、目立った特徴を持たず際立った化粧も施さぬ、ほどの良い穏やかな顔の造作が、黒っぽい贅沢な身なりの緊張を中和して、作品への親しみを醸成している。濃く長い自然なままの眉の下のつぶらな眸が、こちらを見下ろしているのだが、見下ろされている自分を卑下しなければならなくなるような威圧感はまるでない。それだけこの若い女性は、洗練された立派な身なりで馬車に乗っていても、貴族的な、つまり権威ある者の表徴には見えず、多分に庶民的な顔立ちをしていて、それが、ナロードニキの運動が始まり出してきたりするような時代の、クラムスコイにとってのまさに「忘れえぬ女」だったのだろうと、私なりに納得して、この若い女性の眼差しを親しみをもって受け止めた。
この女に、ロシアではトルストイの「アンナカレーニナ」が重ね合わされたりするようだが、私の乏しい読書経験の中からは誰も浮かんでこず、つまりは、浮かんでこないほどに、この女性は際立って個性的な存在ではないのだと確信されてきて、だからこそ「忘れえぬ」魅力があるのだとクラムスコイはどうやら語っているように思われてくる。
しかし、だからと言って、私にこの若い女性が「忘れえぬ女」になるかと考えると、絵としては記憶に留められ、思い返すことができるようになるかも知れぬが、それが、私にとっての今一度会いたいと願われ慕われる女性として記憶されることになるかというと、決してそうはならないと明言できそうだ。つまり絵として「忘れぬ」女にはなり得ても、私にとっての「忘れえぬ」女性にはならないということだ。
加藤周一は、人間というものは、ある表情や姿態を介して忘れ得ぬ女に出会うが、それを二度と見ることはなく、再び。見ることができるとしたら、絵画の中の女にだけだと、どこかで書いていた(注5)。絵の中では外部を流れる時というものがとまっていて、それが、「忘れ得ない女」を我々に齎すのだと言っていたように思うが、私におけるクロムスコイの『忘れえぬ女』は、絵画の中に私が見出す「忘れ得ない女」ではないのである。
たとえその眼差しを親しみをもって私が受け止めたとしても、その「表情や姿態」にいとおしさを感じたりはしなかったのである。
私は、この女性が私にとってどのようであればよかったのか、思案してしまう。そして、私の「忘れえぬ女」の絵は、これまでに何かあったのだろうかと考えてしまう。しかし、それと浮かんでくる一枚がない。悔しいが出てこない。この年になっているからこその悔しさの深淵を前に私は立ちすくむ。「忘れえぬ女」に関わって、結局忘れ得ぬのは一体何だったのか。
このあと、スリコフの「コサックの女」や、カサトキンの「女鉱夫」や、スィチコフの「田舎の美人」といった若い娘を描いた作品に出会ったが、そこにロシアの地方の大地を背に暮らす娘たちに寄せる画家達のやさしい眼差しを読み取ることができ、またその眼差しに共鳴できても、そこに「忘れえぬ女」を見ることはなかった。
どうやら、この展覧会で私を捉えたのは、「忘れえぬ女」というより、ロシア文豪三人の「忘れえぬ男」達であったことになりそうだが、自分の女性の好みばかりは変えようもなく、今は、そういう自分に対する拘りに苦笑いする以外にない。その苦笑いをこの展覧会の収穫として、私は会場を後にすることになった。
そして私の頭は、何時の「ひかり」に乗れるだろうかという帰名を急ぐ思いで一杯になっている。それは、決して暮れかかる日のせいばかりではない。
(二〇〇九、五、二)
注2
因みに、今回の美術展で、前回も出展されていた作品は、このトルストイの肖像画を含めて八点あった。
注3
前回のトレチャコフ美術館展には、このトルストイ像の他に、眼差しを正面に向けたトルストイを正面から受け止めて描いた、イリヤ・レービンの水彩画の小品があったはずだが、その作品に「座り心地の悪い思い」を感じることはなかった。
注4
この旅行は、藤村が「破戒」を、漱石が「草枕」を出した一九〇六(明治三九)年のことで、四月四日に横浜港を立ち、八月四日に牧賀港に帰った四ヶ月百二十日間の、蘆花の最初の海外旅行だった。船でスエズを経て、ポートサイドに上陸し、エジプトを経てパレスチナに入り、目的の一つ、聖地巡礼を二十日間行ってから、トルコのコンスタンチノーブル(イスタンブール)に行き、そこから汽車を使ってトルストイに逢うべくヤスナヤ・ポリヤナに直行し、六月三十日から七月四日までトルストイ家で過ごした後、サンクトペテルブルグからモスクワへ出、シベリア鉄道、東清鉄道を乗り継いでウラジオストックから船で帰国したのである。この経験を「巡礼紀行」として発刊したのはこの年の十二月である。
注5
この記述は、加藤周一著『絵のなかの女たち』(一九八五年)の「まえがき」に見える。