川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

ハンマースホイの寡黙

 その名の記憶は、これを記す今もとんと覚束ないままだが、その絵は、私の心を捉えて放さない。この年になると、記憶した言葉の力よりも、イメージの肩す力の方が、遥かに大きいことを知らされる。それは、私には、老化の一現象と思われもするが、ひょっとして、私が知的な存在なぞではなく、感覚的な存在であったということの証しなのかも知れないと、疑われもする。

 ともあれ、その名はヴィルヘルム・ハンマースホイ、北欧のデンマークはコペンハーゲンで、十九世紀末から二十世紀の十年代にかけて活躍した画家である。

 そして彼の作品については、私は画集などでこれまで一点も見た覚えがなく、これが始めての出会いで、その出会いは日本語古来の「かなし」という言葉に打ってつけの、心沈み静まるものとなったのである。

 その作品を知ったのは、例のNHKの『日曜美術館』で、空虚な部屋の中で、こちらに背中を見せて、立つか掛けるかしている女性だけを描いた、ダークグレイを主調音とした何点もの油彩画作品の紹介があったことによる。それは秋も深まる十一月のはじめのことだった。柄にもない、季節が齎す寂寥の思いに、沈み行く自分の命への思いを重複させて、そのハンマースホイという画家の絵に、私は、まるで置かれた今の自分の内面そのものを窺い見るかのように、溺れ入ってしまったのである。

 私は、遅まきながら、これぞ我が今秋の紅葉狩りと、上野の西洋美術館まで出掛けることに決めた。

 出掛けるに当たっては、六本木の国立新美術館とサントリ-美術館の二館で催されている、パリ国立ピカソ美術館から来日した大量の作品によるピカソ展と、渋谷に取り付けられた岡本太郎の巨大壁画とを、見ておこうという思惑を合わせ持った。そして、久しぶりに友人のSにも会えたら会っておきたいものだと、欲張った。

 早速Sに電話をし彼と打ち合わせた挙げ句、十一月二十八日に上京し、その日は一人六本木で、二カ所のピカソ展を見てから渋谷に出、岡本太郎の壁画を見物して過ごし、翌二十九日の、上野の音楽会館の前でSと落ち合って、ハンマースホイを観ることにしたのである。

 

 さて、二十八日のピカソ展だが、私はパリの国立ピカソ美術館をこれまで訪ねていなかったこともあって、初見の物が多く、新鮮な気持ちで出展作とまみえることができた。最初に訪れた国立新美術館では、『巨匠ピカソ愛と創造の軌跡』と銘打った百七十点近くが出展され、昼過ぎて訪れたサントリー美術館の方では、『巨匠ピカソ魂のポートレート』と題して約六十点が出展されているという、大規模のものだった。まさにピカソなればこそ成り立つ規模の、否応なしに、二十世紀最大の画家であることを容認せざるをえなくなってしまう、一大ピカン・イヴェントだったのである。『愛と創造の軌跡』の方では、まず青の時代の、黒っぽいコートを纏った義眼の女性を描いた「ラ・セレスティーナ」に、既見の物だが、やはり打たれる。次いでキュビズムの時代の、印刷された紙片や楽譜や板や金属片を組み合わせ張り付けた「グラス、新聞、餃子」「ギターとバスの瓶」「セレの風景」等の、小ぶりなコラージュ作品群が意外に新鮮で牽きつけられる。それは、ピカソのキュビズムの作品は絵画作品で展示されることが多く、コラージュ作品での表示が珍しいということがあるからかも知れない。さらにキュビズムによって解体されたものが、黒い線と面を彩る色彩の組み合わせによって再構成されてくる「円卓の上の大きな静物」「赤い肘掛け椅子に座る女」「読書」等の、一メートル半を越える油彩画群になると、色彩の画家としてのピカソの魅力、つまりピカソ的に表出された色彩の力の魅力を、|||おゝ、カラフル|||と改めて称えなければならなくなった。、

 それにも増して、『魂のポートレート』の方は、点数こそ少なけれ、「ポートレート」に焦点を当てるプロジェクトの新しさもあって新美術館以上の面白さだった。

 「ラ・セレスティーナ」と一対をなすような青の時代を代表する髭面の「自画像」(一九〇一年)と、死の前年(一九七二年)に、前の自画像とほぼ同じ大きさで、まるで一筆書きのような刷毛捌きで描かれた「若い画家」と題した、昔の自分を懐かしんでの自画像(と考えられる)との間に、ピカソの表現したピカソ自身が辿られるように企図されていたのである。鉛筆による「自画像のための習作」や「自画像」(一九〇六年)を見れば、キュビズムの時代の「裸の少年」や四点の「男の頭部」は、紛れもなくピカン自身の自画像に他ならないことがよく分かる。

 それが、一九三〇年代に入ると、モデルを前にしての画家)や彫刻家を描いた物が並び、中年の逞しさを備えたお馴染みの髭面の芸術家として、自らを結晶させていくことになり、その典型として「頻のある男の頭部」(一九三八年)が出展されている。その顔には、力感のあるタッチに、ピカソの生き生きとした自信のほどが窺える。と同時に、他方で、ミノタウロスの絵が何点も並んでいるのだが、こうして見てくれば、その牛の相貌に宿されているものが極めて自画像的であることが、たちまち納得され、ミノタウロスが性的暴力的な存在としての中年のピカソ自身の哀しみの徴になっていて、作品はそういう存在の哀しみの訴えになっているのだと、否応なしに首肯させられてしまう。

 そして晩年、一九六九年に描かれた「接吻」の、自分に注がれた女の眼差しなどに囚われることなく、大きく見開いた視線を彼方に放ったまま、女に口づけをしている堂々たる男の風貌というものに接すると、そのデフォルメの如何を問わず、まさにピカソの自画像として作品が結晶していると思われ、展示の締めを括る意味でも、紛れもない傑作に見えてし見えてしまうと言うのは、一瞬この展覧会のディレクターの仕掛けた罠に嵌まった自分に気づくからだ。

 しかし、ともあれ、私は、以前書いた「ピカソへの法悦」(注1)の自分の思考が、改めて裏付けられた満足に浸ることができ、それですっかり喜悦満面の状態になってしまったのだから罪がない。

 なお、この展覧会では、両会場で二〇点以上の彫刻や立体作品があったことも珍しく、中でも「道化師」(一九○五年)「女の頭部(フェルナンド)」(一九〇九年)「女の頭部」(一九三一年)「牡牛の頭部」(一九三二年)「雌ヤギ」(一九五〇年)のブロンズ像は、絵画ばかりの単調さから私を救いもする見甲斐のあるものだった。

 昼食は、国立新美術館からサントリー美術館へ移動する途中で済ませていた。時間は二時を過ぎている。

 私の気分は充足していたので、そのまま渋谷に赴くことにした。

 これもテレビで紹介されていたことであり、その時の映像からしても、岡本太郎の巨大壁画が私の期待を裏切ることはないだろうと、伸びやかな心になっている。六本木から恵比須に戻り、山手線で渋谷に出る。そのJRの渋谷駅から京王線の駅への道を辿れば出会えるはずだと歩んで行くと、あった!

 通路が広場のようになった箇所、その通路沿いの壁面一杯に、岡本太郎の絵は掲げられていた。

 壁画は壁の長さ一杯に端から端まで四〇メートルはあろう長さで描かれており、高さは床から二メートル位の位置から天井まで六メートル位の高さで収められている。まさに典型的な岡本太郎の作風で、図柄と色彩とが夜の青を背景に見事に爆発している。無論爆発は生命の爆発である。

 絵の中央下には、制服制帽の警備員が一名立っている。人々はその生命の爆発画の前を、引っ切りなしに行き交っている。通り過ぎる人々の流れを見下ろす形で壁画は存在し、その人々の動きの中で、その動きと共に、壁画空間という一つの壁画を形作っているように見えてくる。この壁画空間壁画を視野に収めようとしても、その大きさからとても無理なことは分かりきったことで、その前を通る人も含めて俯瞰でもできたらそれが一番だと思われてくる。

 私の目が絵を離れて回りに移ろうと、広場の一カ所に階段があって、それを上ると壁画の壁面に向かって、二階のフロアーが設えているのが分かる。

 私は走るように二階に上る。私は、行き交う人々と共に存在する岡本太郎の爆発を見下ろした。

 見えた。

 見えて、そこに壁画の前を通る私の姿を見た。

(以下次号)

 

注1

二〇〇七年一〇月に、私は「ピカソ、それへの法悦とどんでん返し」を書き、『緑』二〇〇九年三月号に掲戦した。そこでピカソのミノタウロスを扱った作品について既に私は言及している。

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