川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

花子の首

 日射しの眩しい暑熱の中、フランスの国立ロダン美術館が主催する『ロダンと日本」展を見に出掛けた。同じロダン美術館の主催になる「ロダン展」そのものは、昭和六〇年の秋に、その彫刻七〇点と九〇点に及ぶ素描とによって催され、私はそれを名古屋市博物館で見ているが、それからもう十五年が経ったことになる。

 その十五年の間に、私は何度も上野の西洋美術館を訪れているのだが、その都度、常設の松方コレクションのロダンの 彫像群を見ていたし、同じように静岡の県立美術館を訪ねた折にも、そのロダン館を見たりして、ロダンは私にとって、 お馴染みになりすぎ、新鮮味の乏しい存在になり果てていた。しかもこの情報化社会の中で、ロダンの「考える人」が、その神話性をすっかり剥ぎ取られ、便座に腰掛け沈思する道化を勤めるようになってしまっていたりすることも、この私の気持ちに拍車をかけている。

 そんなこんなで、「ロダンと日本』展についても、ロダンの作品よりも、これまで未見の、ロダンが所有したゴッホの有名な「タンギー爺さん」ーーパリのロダン美術館を訪れた際に私はそれに会うことができなかったーーに会いに行くのが、ちょっと胸のときめく唯一の今度の私の目的になっていた。

 しかし、お目当ての「タンギー爺さん」の前に立った時、 例えちょっとにしろ、ときめいた胸の弾みは、物の見事に裏切られてしまった。裏切られたのは、美術のガイドブックなどで見慣れたその画面に、私の期待ほどの艶と輝きを感じることができなかったからである。絵の具が油っけを失って、 色彩の華やかさを平板にしてしまっているように思われた。 ロダンのブロンズの彫像ならば感じさせることのない百年余の時の流れを、ゴッホのこの油絵は、油ゆえに実感させたと言えようか。

 それにしてもゴッホのこの絵が、ロダンのジャポニズムに関わって彼の手許に留められ続けたことには間違いがあるまい、この展覧会の図録の優れたところは、ロダンが集め持った日本の版画関係作品と美術工芸品の総目録を掲載していることだが、載せられた前者の三三六点、後者の五五点からしても、ロダンの日本への関心の深さは十分裏付けられていよう。

 その日本味の嵩じたところ、六〇体を越える花子の首の彫像が作られたわけであり、この展覧会では、そのうち日本に収蔵されている五点を含む二〇点が出品されていた。そして私は、意外にも、このロダンの花子像によって、「タンギー爺さん」の失望を埋め合わせることになったのである。

 ところで、ロダンはマルセイユで、モデルとなった女優花子の舞台「芸者の仇討」を見、その死の幕切れの表情に引かれて、彼女の彫像制作を発意したらしいが、それあってか、 花子の首の彫像は、死に直面しての眉間に皺を刻んでの苦痛 の表情をしたものが圧倒的に多く、今度出展された二〇点の花子像のうちでも一六点までがそれで占められていた。それらは一点一点表情に差があって、ロダンの追求の半端でない ことがよく分かりはするものの、その悲痛の表情が齎す暗鬱な気分の増幅には、正直うんざりもしてくる。だから、そう ではない「花子のマスク(タイプG)」や「空想する女・花子」に出会ったとき、こちらの心が安らぎ救われるように感じられた。因みに「タイプG」の顔は、死の苦痛の演技から花子自身が解き放たれて、放心した眼と軽く開かれた口とによってホッと虚脱した一瞬の表情が固定され、それがあどけなく可憐な花子となってこちらの心を解きほぐす。それに対し、「空想する女」の方は、あどけなさや可憐さからは程遠い中年女性の穏やかな顔で、表情はどこか憂いを含んだ美しさを湛えていて、こちらにしっとりした涼やかさを覚えさせてくれた。

 だからといって、花子は、今回展示されている、ロダンの描いた「花子の肖像」や花子の女優として着飾った数点のプロマイド風な写真によっても、決して美人ではない。小柄で、容姿に優れているとも認められぬが、ヨーロッパ人には、あるいは、この子供のような背丈で日本髪を結った女性ゆえにこそ持て囃されたのかもしれない。

 ロダンが花子の舞台に接したのは一九〇六(明治三九)年 七月のことで、作品の製作は翌〇七年に入ってからだとされるが、日本の森鴎外は、早くも一九一〇年に「花子」と題して、花子が始めてモデルに招かれてロダン邸を尋ねた時のことを短編小説にお纏めている。作品の中で、森鴎外は、何による情報かは知らぬが、花子を「別品でない」と言い、「一言で評すれば、子守あがり位にしか、値踏が出来兼ねるのである」と書いている。文中の会話を読めば、鴎外が花子(本名=太田ひさ)の出自が愛知県の中島郡上祖父江村であることを押さえてもいたであろうことが窺えもする。ただロダンに会ったこの時の年齢を「十七の娘盛なのに」と書いているのは、実際の花子は既に三十九歳だったのだから、随分鯖を読んだ 虚構だということにはなる。

 ともあれ、花子が美人ではない中年の小柄な女性であったことは、鼻筋一つ、まなこ一つ、どれをとっても、西洋の美 人の顔に見られるそれぞれの部位の権威性をまるで持たぬ小 ぶりなものでしかない造作によって明らかで、それが私の感 じた可憐さとしっとりした落ち着きとを醸しやすかったので はないかと思われる。するとあらためてロダンの卓見が腑に 落ち、何かの本の中で、通常の美醜の境位やありふれた審美の尺度を越えて、何もかも包み込む大きさがあると、彼を評 していた高村光太郎の言葉が首肯されもする。それに、この花子の二点には、断末魔の苦痛の表現といった主張・主題がない。「歩く人」や「考える人」、「接吻」や「氷遠の青春」のような主張・主題がない。主張も主題も失ったところで生まれた放心の表情というものが有り、それにも意味を認めたロダンの生(Vie)への愛がこの花子像に命を与え、花子像の力になっていると見えてくる。そう見えてありがた

 涙がまた一入になった。そして、鑑賞というものは、対象への思い入れの大きさに左右されるとは分かっていても、あらためて自分の思い入れの独善に気づき、潤む眼の一方で、思わず口辺に苦笑を刻むことにもなる。涙と苦笑の中で、この小さな二点の花子像に出会った今日の幸せに殆ど咽びそうになり、挙げ句私は慌てる。

 この展覧会では、首の像と併せて、花子をモデルとしたと 思われるロダンの鉛筆による線描画も、二五点出品されているが、そのうち二二点は、踊り動く様を速写した一糸も纏わぬ裸体である。花子は日本で芸者勤めをし、破婚の憂き目を 経験したようだが、その上での渡欧による芸人暮らしであったればこそ、恥も外聞もかなぐり捨てて敢えて異人の前に裸身を晒すこともできたのかと察すると、私の涙に遠い日の夜の彼女に寄せる感傷が作用していることは否めない。

 花子がロダンのモデルを務めた数年後、パリに渡った島崎 藤村は、「『腹切』と日本人とを一緒にして連想するような一般の欧州人の眼に、いかに自分らが映ずるかは思いやられ」ると言い、「生き、愛し、死ぬる私達の血もあり肉もある正体は真に親しみを以ては知られない」と実感し嘆いたうえで、「異人種と異人種とが真に互に理解し真に互に美質を知り合うのに芸術ほど近くて正直な道は無いということをしみじみ感じ」たと「平和の巴里」の中で述懐しているのだが、藤村のこの実感と述懐とを、花子はロダンとの関わりにおいて正に身をもって体現したことになろうか。そう思うと、目前の小さな花子の首の像を見ながら、花子への限りないいとおしみを覚えないではいられなくなる。

(二〇〇一、八、一五)

 

 

 

 追記 二〇〇二年の夏、私はオランダ、ベルギーへのツア ーに参加して、森の中のクレラーミューラー美術館を訪ね ることができた。美術館の一番奥の、客の訪れも滅多にないガラスケースだけの部屋で、そのケースの壁寄り、一番 下隅に、一点の「花子の首」が置かれているのに私は出会 った。私は息を飲み、その眉間に皺を寄せた白い顔が、そこで私をじっと待っていてくれたように思われ、こみあげてくるもののあるのに弱った。そして、私はこの発見をツアーの仲間の誰にも喋らなかった。

 

 

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