川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

フェルメール人気って・・・

 朝、池袋のホテルの近くにあった郵便局から、昨日買った図録二冊をユゥパックにして自宅に送ると、肩の荷を降ろした身軽さで上野に向かった。上野駅の公園出口から出ると、金曜日だが、さすがは東京、結構な人出になっている。

 七点に及ぶフェルメールの出展という前宣伝を考えると、これから訪ねる都立美術館の混雑ぶりが思い遣られてきて、今日の曇天よろしく、いささか気が滅入ってくる。

 たった一点のフェルメールが入っているだけでも、「フェルメール」の名を出して展覧会のタイトルにするような御時世(注1)なのだから、七点もの出展(注2)ということになれば、主催者としての鼻は天狗の高さだろうし、宣伝効果もまた十二分の高さで予測されようというものだ。

 私の記憶する限り、これまで、フェルメールの作品を出展した展覧会では、その図録(注3)の全てが、そのフエルメールの作品を表紙に使って製本されていたはずで、それを思えばフェルメール贔屓の徹底振りが分かる。日本人のこのフェルメール好みは、恐らくそのゴッホ好みと相俟っての広がりをもって根付いていると思われ、それが今度の展覧会の開催にも与かって大きな力になっていると見ていいだろう。

 予測は外れず、東京都美術館は結構な入館者で、悠々と見る悦楽はのっけから諦めねばならなくなる。

 ところで、今回の展覧会の題名は、『フェルメール展、光の天才画家とデルフトの巨匠たち』というものだ。「光の天才画家」がフェルメールを指すことは言うを俟たないことだが、「デルフト」とは、そのフェルメールの生まれてから死ぬまで過ごした町の名前である。それは、オランダはロッテルダムの北西二十キロほどの所にある小さな町だが、その町に、フェルメールの活躍した十七世紀の半ば、それなりの仕事を残した画家たちが結構活躍していたということである。「デルフト焼き」と呼ばれる陶器によってこの町の名を御存知の方もあろうが、今に残るその焼き物が始まったのもフェルメールのその頃からのようである。

 どうやら、この展覧会は、オランダの小さな町の文化的・芸術的環境の中で、フエルメールという希有な画家が出現したことを確かめるように仕組まれているらしい。

 そうだとすれば、これと同じような発想に基づく展覧会が、既にこれまでに催されていたことに気づかざるを得ない。その展覧会とは、フェルメールの作品五点をもって二〇〇〇年に開催された『フェルメールとその時代』展である。その時、作品の展示は、フェルメールの背景をなす「その時代」の特徴を、都市デルフトの景観、教会内部、静物画、肖像画、風俗画等に分類してフェルメールの作品に導く構成で行われたはずである。

 それあってであろうか、今度のこの展示でも、ヤン・ファン・デル・ヘイデンの「アウデ・デルフト運河と旧教会の眺望」という、恐らくデルフトという町の表徴的な建造物が作り上げる景観の紹介から始まっている。それに続いて、ヘラルト・ハウクヘーストとヘンドリック・ファン・フリートとが描いた、デルフトの新旧二つの教会の内陣の最の何点かが並ぶ。アーチ型を成して連なる列柱と高い天井から差し込む光りの醸し出すその内陣には、高い天井の下、どれも人々の姿が描かれているのだが、祈りを捧げている人物は一人もなく、何人かずつ佇みながら言葉を交わし合っていて、男性の場合は、不思議なことに全て帽子を被って描かれている。またそれらの人物の足許には、犬が、二三匹描かれてもいて、教会の内部が、市民が語らい会う町の社交の場でもあったことを語っている。しかもその市民の交換の場が、天井の高い大きな教会空間の床に立ち居する人間を、小さな存在として表現することによって、新しい市民社会における、教会の持つ独特の包容力を物語っているようで面白い。

 次いで、デルフトで生涯を終えたカレル・ファブリティウスの作品五点が並ぶのだが、そのうちの三点は肖像画で、そこには明らかにレンブラントの影響が見られ(注4)、中の一点「楽器商のいるデルフトの眺望」は、低い視点を中心に据えて視野の広がりをパースペクティヴに描いた町の絵として面白く、ここでも教会の尖塔が天を突いて町の絵を引き締めている。と同時に、共にデルフト生まれの画家、エフベルト・ファン・デル・プールの「デルフトの爆発」と、ダニエル・フォスマールの「壊れた壁のあるオランダの町の眺望」の二点に出会う。出会って、この町の爆発を扱った作品は、八年前の『その時代』展でも、まさに町が爆発によって炸裂する一瞬を、飛ばされたり倒れたり走り逃げたりする町の人達ともども描いた、今回以上に生々しい作品があったことを思い出したのだが、あれもファン・デル・プールだったのではないか,そしてフォスマールの「壊れた壁」の絵は、爆発事件の町に齎した傷痕だと読むことが可能になる。とすれば、この展示の経緯から浮上してくるのは、フェルメールの生きた時代が、デルフトの町の破壊と復活再生の時代であったということだ。

 そして、愈々ピーテル・デ・ホーホの風俗画八点に出会うことになる。ホーホの風俗画は、オランダの絵画展では出展の定番になっていると言ってよく、名前だけは記憶に止まっているのだが、本展では、フェルメールの風俗画七点のまさに比較の対象として出展されたことは疑いようがない。

 一体、風俗画とは、画家が生きる現実の場、つまりその時代の人々の生活風俗を描いたもので、その先駆的な作品として、私などは、十六世紀の同じネーデルランドの代表的な画家だったピーテル・ブリューゲル(父)の「農民の踊り」や「農民の婚礼の宴」を思い出してしまうのだが、その非日常的祭典の場における群衆の風俗表現に比べると、それから一世紀を経たデ・ホーホやフェルメールの作品には、祭典的群衆が描かれることは最早ない。描かれる人物は、日常的な場としての家の室内における個人的な営為に閉ざされた風俗的存在なのである。

 それは画家の眼が、教会の内陣で語り合う市民の姿に注がれたり、特別な権威や格式を示す特別な存在ではない市民の肖像に注がれたりするようになる時代の在り方に応じている。

 それはまた、人間のドラマが、キリスト教の宗教画に託されて描かれてきたものから、宗教的な場から自らを解き放ち、自らの織り成す暮らしのドラマを、プライベートな秘匿性の中に見始めたことを示している。

 そうした私的空間での個人的生活の描写が、フェルメールの場合、デ・ホーホと比べたとき、描かれる人間の中心性、つまり個人的ドラマの緊張感を高めるためであろうが、明らかにその人物の所在空間が狭められ限定されているのだ。デ・ホーホの絵は、登場人物が暮らす住環境と共に描かれているのに、フェルメールのそれは、人物のいる机と椅子と窓とカーテンといった限られた部屋の一隅しか描かれていない。デ・ホーホの開けられたドアや窓からは屋外の景色が見えるが、フェルメールの場合は窓が描かれてもそこから外を見るようには描かれていない。そして、このことと関連するのであろうが、デ・ホーホの作品には、「幼児に授乳する女性と子供と犬」とか「食料貯蔵庫の女と子供」とか、母子を描いた作品が、四点もあったのに、フェルメールに子供を描いた絵は一点もない。  フェルメールの絵は家庭とか家族といった観念を切り捨てたところで、絵の個性を形成しているのであ家の室内が舞台になりながら、アットホームな温もりを齎す条件を、フェルメールは排除しているとしか思えない。フェルメールにあるのは、デ・ホーホにはないひややかに冷めた空気で、その意味で、理知的な濁りのなさを感じ取ることができる、そういう知的な魅力があるのではないか。そう,だとすれば、それこそ、情熱という語の体現者のようなゴッホとは対極的な位置に立つことになり、ゴッホと並ぶ評判を取りやすくもなろうというものだ。

 ところで、私には、今回の七点のフェルメールのうち、当初予定されていたにも拘わらず借りられなくなった「絵画芸術」―これは、二〇〇四年開催の『栄光のオランダ・フランドル絵画展』に来日した折に見ているので残念な思いはな――に替わって、特別出品された「手紙を書く婦人と召使い」が、最も優しく気持ちのよい作品だった。図録の表紙になっている「ワイングラスを持つ女」よりも、静謐な色彩の醸し出す品の良さが感じられたのである。白頭巾を被り白い装東に真珠のイヤリングを下げた「手紙を書く婦人」の俯いた顔の美しさは、グラスを手にして椅子に掛け、赤い衣装を身に纏って眼をこちらに向け白い歯をみせて笑いを見せる「ワイングラスを持つ女」の、しかもその後に彼女ににやけた笑みを忍ばせ向けて、身を屈めた男が立っている図柄は、その狙いが滑稽にしろ諷刺にしろ、我々がフェルメールに抱き寄せている好感を褒切ってしまっているのだ。

 視野を小さく絞り込むことで、作品の純粋性・透明性を築いていったフェルメールに、ということは、それだけデ・ホーホのような家族や家庭の温もりの欠如した絵の室温に、私はさようならを言って会場を後にすることになる。

 私は気抜けしたような感じに陥っていた。

 昼食は、公園内の和食レストランで済ませ、午後は東京芸大の美術館の『狩野芳崖悲母観音への軌跡』展を観にいった。

 私にとって、狩野芳崖は、「悲母観音像」一点によって銘記されている画家だが、その彼の展覧会の開催など、滅多にあることだとは思われず、だとすれば、これが見初めの見納めになるものとの思いが、なまじフェルメールに対する気落いちが襲っていただけに熱くなる。

 さて、重文指定になっているその「悲母観音」にまた逢えた喜びは、大袈裟だが至福のひとときというものだった。

 この観音の姿は、その身に纏ったもの一切の織り成す線のリズムと共に美しいし、観音の足許の透明な球の中に宿り、観音を仰ぎ見ている嬰児の姿がまたたまらなく愛らしいのだ!が、そこに至るまで、妥協しないで追い求めていった、その証しとしての何枚もの下絵の繰り返しが、作品の完成度の高さを見事に逆照射して見せてくれる。迦陵頻伽の楽の音がいかなるものか知らぬが、笙軍彙の醸す哀調を、決して古いリズムではなく奏でる、その透き通った音色を耳底に聴く思いがする。

 それを思えば、「仁王捉鬼図」や「不動明王」など二十点を越す、私には初めての芳崖作品も、彼の画家としての力量を充分示しはしているものの、「悲母観音」を下支えする作品群でしかないように見える。

 狩野芳崖は、「悲母観音」一点によって、画家としての栄誉の一切を体現した画家なのだ。

 至福の音色のためには、観音以外の作品に拘りたくなくなり、私は、このあと憩う場の清涼の一服を何にしようかと思い始めている。

 何しろ、この至福は、フェルメールからは受け取れなかったものだ。

 

(二〇〇八、九、二五)

 

(注1)例えば、二〇〇〇年に愛知県美術館で催された、アムステルダム国立美術館の所蔵する一七世紀のオランダ美術展のタイトルは『レンブラント、フェルメールとその時代』というものだったが、その内、レンブラントの作品は油彩三点、スケッチや版画九点が出展されていたのに対し、フェルメールの作品は「恋文」一点のみであったし、二〇〇七年に、国立新美術館で催された、同じアムステルダム国立美術館所蔵の作品展では、そのタイトルが『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』とつけられていた。

 

(注2)これまで、私の知る、フェルメール作品の出展が最も多かったのは、二〇〇〇年、大阪市立美術館で見た『フェルメールとその時代』展における五点だった。あと複数のフエルメール作品があったのは、私が初めてフェルメールに接した記念すべき展覧会、一九八四年、愛知県美術館で催された『マウリッツハイス王立美術館展』における二点だけである。

 

(注3)例えば、二〇〇四年に東京都美術館で催された、ウィーン美術史美術館所蔵の『栄光のオランダ・フランドル絵画展』では、「絵画芸術」が、二〇〇五年に兵庫県立美術館で催された『ドレスデン国立美術館展』では、「窓辺で手紙を読む若い女」が、同じ年、同じ美術館で催されたアムステルダム国立美術館所蔵の『オランダ絵画の黄金時代』展では、「恋文」が、それぞれ表紙絵として使われていることを、確かめることができた。

 

(注4)レンプラントは一六〇六に生まれ、一六六九年に没している。それに対してファブリティウスは一六二二年に生まれ、一六五四年に没しており、レンブラントを師としていたらしい。

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