川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

オフィーリアを超えてミレーを見る

 同じミレーでもフランソワの方ならともかく、エヴァレットの方の個人展となると、私には始めての体験になる。二〇〇五年の一月号『緑』の五〇〇号に、私が「美術展回遊記」を載せ始めた、そのそもそもが「二枚のオフィーリア」と題するものだったが、そこで扱った一枚は、まぎれもなくエヴァレット・ミレーのものだった。その作品「オフィーリア」に対する溺愛に発して、私のミレー好きが極まり定まるという、私にとっては、出会いにどこか運命的なものさえ感じられる画家なのだから、その『ジョン・エヴァレット・ミレイ展』の開催を知れば、何を置いても見に行こうと私が逸るのは、当り前過ぎて何の可笑しみもない。

 しかし、この時、世間での評判や前宣伝が高かったのは、『フェルメール展ー光の天才画家とデルフトの巨匠たちー』で、何しろ人気抜群のフェルメールの作品六点を見せる、しかもそのうち五点が日本初公開だというのだから、その宣伝の入念巧妙を極めることは当然というものだったが、その当然の効果は覿面に私にも及び、宣伝のうち四点までが、私の未見のものだと分かってみれば、私のフェルメール既見作品の数を伸ばすためだけにも行かずばなるまいと、こちらにもまた私の下衆の根性が揮われることになる。

 といったわけで、九月一八日の朝、私は一泊の予定で上京してしまう。

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 今回の私の展覧会行脚は、自分の欲望に正直に、まずミレー展から始まる。

 ミレーの展覧会は、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで催されている。美術館に至れば、既に十二時を過ぎているので、美術館の上の階にあるカフェで、コーヒー付きのランチを食してからの鑑賞ということにする。

 腹が満ちて、睡魔が私を蝕んだわけではないが、鑑賞の結果は、当初の私の期待を充分に満たしてくれたと言うわけにはいかなかった。見張る眼の気負いが鑑賞の邪魔をしたということも考えられる。そして、そのことがまた、私を寂しくさせる。

 それにしても、七〇点に及ぶ出展のうち、五〇点までが油彩画の完成作品であるというのはなかなかの充実ぶりだった。しかし、「オフィーリア」を初めとする「木こりの娘」「マリアナ」「遊歴の騎士」等の、これまでに「ラファエル前派」関連の展覧会で目にしてきた作品には、改めて懐かしさを覚えはしたものの、それ以外の初見のものに、私がミレーに抱いている浪漫的詩情を、さほど実感することができなかったのは、悔やみに似た苦みを胃の腑の底に残すことになる。

 そういう中で、私の関心を最初に引いたのは、水彩で描かれた小さな作品「エフィー・ラスキン」の肖像画だった。エフィーは思想家ジョン・ラスキンの妻である。ラスキンは、美術や建築の著名な評論家で絵画制作も多数残しており、かってその『ラスキン展』(注1)を見る機会もあって、その折り、ラスキンの妻エフィーが、後にラスキンと別れミレーと結婚したことを知ったのだが、そのエフィーの肖像画なのだ。その焦点が合っていない眼は、何を見るでもなく虚ろに放たれていて、髪を飾る花とリボンや薄地の白いショールと織り成すその冷めた表情が、何故か私の気にかかったのである。ラスキンの妻として見られ描かれるエフィーの内側が、と同時にそれに眼差しを注ぐミレーの思いが、気にかかったのである(注2)。

 その小さな作品に目が行ったからであろうか。その後、十五センチに十センチぐらいの「神のたとえ」の木口木版の挿絵八点と、それより一回り大きいエッチング「ため息の橋」の一点が、私の心に止まった。小さいだけ、色のないモノトーンであるだけ、そこにある情調のかそけさが、こちらに或る音色を届けたようだ。

 そしてこういう視線が、油彩画の中の「安息の谷間『疲れし者の安らぎの場』」と「夢遊病の女」の二点に私を誘う。 前者は横長の、後者は縦長の、それぞれ大作と言ってよい大きさである。

 横長の方は、「安息の谷間」、つまり墓石がいくつも立つ墓地で、今しも「安息」を求める死者のために、二人の尼僧が墓掘りをしている場面なのである。前景左手の尼僧は、黒い僧衣を腕まくりして、スコップに山ほど黒土をすくい放り捨てようとしており、右手の僧は、どうやら新たな墓石の上に腰を下ろして座している。その黒衣の膝からは、手にしたビーズのロザリオが下がっていて、何故か、墓穴の方を見ないで、視線はこの絵を見る者に注がれている。その視線に見つめられると、否応無く彼女の座る絵の世界に引きずり込まれないではいられなくなってしまう、そんな目の美しい顔立ちの尼僧である。二人の人物の背後には、画面を上下に二分するように、墓地を隔てる生け垣が暗く描かれ、その生け垣から空に向かって、糸杉とポプラの木々が黒く聳えている。そして黒い木々の彼方は、金色の夕焼けと紫にたなびく雲の空で彩られている。掘る土の一掬い毎に暗くなって行くその一瞬が、ここに止められ定められている、そういう絵だ。「オフィーリア」に描かれた花に、様々な暗示があった(そのことは、かつてセンリュウトークでも話したと思う)ように、この絵にも色々なものが象徴の記号として描かれているのではないかと思われてくる(注3)、不思議な面白さを持つ絵だった。

 もう一つの「夢遊病の女」は、長い髪を背後に下げた一人の女が、夜空の下、裾まで届く寝間着姿で、裸足のまま、暗い土の上をこちらへ向かって歩みくる様子を描いたものである。女の背後には、濁った夜空の雲の透き間に小さい星が一つ、その空の下には暗く重い色合いの海が描かれ、さらにその下、海と靄ったようにして黒く海岸の闇が描かれ、その右手奥に建物の明かりが小さくちりばめられていて、その分女の姿が大きく感じられるようになっている。

 ところで、この展覧会の特徴の一つは、ミレー得意の肖像画群であったのだが、とりわけミレーには欠かせない可憐な少女像や、盛装した上流階級の華やいだ女性像は、それぞれの人柄を想像させる良質な出来で、それだけに、この「夢遊病の女」は、この日の私には避けては通れないミレーらしからぬミレー作品だったのである。

 その女の顔面は、美しく描かれた肖像画の女性達とは比べようもない、汚しの筆運びによって、左の目の下と頬が醜い痣を成している。しかし、前方に放たれた女の瞳は、他の肖像画の美女達のどの瞳にも増して意志的に見え、それだけに一層この夢遊病の女のこの世のものならぬ存在の厳しさとでもいうものをこちらに訴えかけてくる(注4)。

 私の胸の内が暗々の重力に酔っている。

 そのため、その後続く「上流階級の肖像」の主題で括られた項目中の作品は、その奇麗な筆捌きに、ミレーの肖像画家としての玄人らしい熟練を実感しはするものの、それだけに終わることになる。

 そして、こういう気持ちの行き掛かりが、本展最後に掲げられた五展の風景画によって、締め括られることになる。登場する人物達の場となる風景こそ見慣れてきておれ、正に自然の光景そのものを描いた風景画などを、ミレーが描いていたなど思ってみたこともなく、事の意外さに毒気を抜かれる感じできょとんとしてしまう。そのせいか、全てが私には素晴らしく、中でも、暗雲垂れ込める空の下、荒い波に浮かぶ島か岬かの上に立つ古城の塔と、それに向かって漕がれる、一艘の手漕ぎのボートが描かれた九〇に一四〇センチ位の横長の絵、「『きすさぶ風に立ちはだかる力の塔』ーーテニスンの詩より」という作品は、見た瞬間、アーノルド・ベックリンの傑作「死の島」(注5)を脳裏に蘇らせる。題名の下のカードを見ると、表題の言葉がテニスンの「ウェリントン公の死に寄せる頌歌」からの引用であり、次男のジョージを亡くした直後に描かれたと記してある。どうやら、自分のベックリンへの連想が間違ったものではなかったと分かり、にやりとする。しかし、ベックリンのようにあからさまな、「死」の示唆象徴的描出がミレーのこの絵にはなく、その表題のベックリンとは異なる間接的暗示的付け方と相俟って、絵はミレーらしさを示しているように思われる。

 しかし今一点の「露にぬれたハリエニシダ」は、これぞ、何の意味も加算されていない純粋の風景画で、思わず「おゝ」と声をあげてしまった。秋色を帯びたブナや灰色のカラマツの森が、朝靄の中に奥深く霞み、手前の足元からその森へ、背の低いハリエニシダが、その針先にびっしり露を帯びて鬱蒼と地を覆っている絵だ。一粒一粒の露が見て取れるように描かれた近景の、人を立ち止まらせるひいやりした感じと、靄に霞む秋の森の人を誘い込むような感じとが、ミレーの辿り着いた幽玄の境地のように見え、わたし自身が虚空の静寂に我が身を掬われてしまっていた。

 お蔭で、本展が、私に落胆を齎して終わることなく済んだということになる。やれやれである。

 私は、曇り空の下を渋谷駅に向かって歩いた。

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 そして山の手線で新宿に移る。

 私は、東郷青児美術館に「ジョットとその遺産展」を見ようと思っていたのである。

 新宿駅から十分程歩いて、損保ジャパンのビルに入り、一階ロビーのロッカーにカバンを預けて四十二階に上る。ここはシルバー料金の割引があり、受付で八百円を支払い入館する。

 ジョットと言えば、私には、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の上堂を飾っていた、聖フランチェスコの生涯の数々のエピソードを描いたフレスコの壁画が、やはり印象深く残っている。パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ壁画の方は、残念ながら訪ねていない。

 何しろ、ジョットは、ルネッサンスの到来より百五十年は遡る、十三世紀から十四世紀にかけて生きた、ゴシック時代の画家なのだから、そのルネッサンスの画家を名乗って展覧会を催すことだってなかなかのことだと思えば、どんなジョットが来るかと、それだけでも行く値打ちは充分あることになる。

 入室して、まず、幅四〇センチ高さ八〇センチ位のテンペラ画、聖母マリアが抱いている幼子イエスの部分が、殆ど剥落破損しているジョットの「聖母子」像に出会う。聖母は眼差しをこちらに向けてその上半身が描かれている。聖母の被るヴェールと衣装の残された青い色が深い香りを伝え、その頬を下から触れる幼子キリストの残された左手と、胸元の聖母の左手の人差し指を握る、やはり残された幼子の右手とが、ふっくら膨よかなイエスの優しさをたっぷり暗示していて、剥落破損を帳消しにする素晴らしい雰囲気を創り出している。

 続くジョットの作品も「聖母子」像である。今度は、高さ 二メートル近い大画で画面背後両側に一体ずつ天使を従えた聖母が、衣装を纏ったイエスを膝の上に乗せて抱いている全身像である。この二人の眼差しもはっきりこちらに注がれている。天使は、描かれた羽によってそれと知れるのだが、長い縮れ髪を肩に下げ、きちんと衣装を纏った姿はどう見ても女性に見え、私の常識を覆す天使で面白い。これもテンペラ画だが、こちらは保存がよく剥落褪色が殆ど見られない。

 この二点のあと、ジョット工房の作とされる「四人の天使をともなう聖母子」に出会う。しかし、この聖母子像は私に安らぎを齎さない。マリアが権威の権化のように見えたからである。

 以後、全三十四点の出品中、十七点もの聖母子像に私は出会うことになったのだから、これは驚く。驚くと言ったが、この「聖母子像」へ引きずられて行く暗々の仕組みがあればこそ、この展覧会が成立しているとも言えそうだ。ルネッサンス以後の人体や自然の表現にすっかり馴致させられてしまっている我々には、ゴシック時代の人体表現は、「幼稚」と「稚拙」の語で蔑まれかねない危険を十二分に孕んでいるとみていいだろう。その危険を母子像に対する愛の観念によって救うわけだ。そして、その愛の観念によって、私はこの小ぶりな展覧会の持っていた魅力を堪能することができたのである。

 それは、聖母にイエスがどのように絡んでいるか、それに目が注がれていくことだった。すると、幼子イエスが母マリアの胸に手を入れ胸乳を探ろうとしている仕種と、マリアが出した胸乳(今回の四点は、全て画面向かって右、ということは左の乳房が出されていた)をイエスにくくませようとしている仕種との二つの仕種が、特徴的なものとして目に留まる。そして後者については「授乳の聖母」と名付けられることもどうやらあると分かる。

 今回、「授乳の聖母」と名付けられていた一点は、聖母子像の上部にキリストの磔刑が描かれ、背後左右には二体づつの着衣の成人の天使が描かれている作品で、口許に笑みを添えた聖母は、己が左乳房を右手の人差し指と中指で挟み上げてイエスの口許に向け、イエスはその乳房に右手を添え、乳首に口を寄せてこちらに眼差しを注いでいる。その乳首は、乳雲が描かれず固く突起した乳首だけが描かれていて、それが授乳を卑俗さから救っている。その作者はアンブロージョ何とかとあったが、無論私に心当たりなどはない。

 ただ、この絵で注目されたことは、裸のイエスが、胸に紅い珊瑚のネックレス(それが珊瑚だと分かるのは、赤く長めの棒の先が枝分かれしていたからである)を下げ、左手に首筋の赤い一羽の小鳥を握っていることだ。今日見てきた聖母子像の中で、その図には、何点も出会ったのである。改めて、小鳥と珊瑚の持つ記号的意味が気になるが、その謎が、中世時代の聖母子像への図像的=絵画的興味を深くもする(注6)。

 そうなると、見てきた今日の聖母達が、専ら下着は赤で上着は青で描かれていたことも気になってくるから妙だ。中には、黒い上着のと金ぴかの上着のともあったが、殆どは赤の下着に青の上着なのだ(注7)。そういえば、ルネッサンスのラファエッロの聖母もこういう着衣の配色だったように思われるが、一方、ネーデルランドの画家ヴァン・デル・ウェイデンやヴァン・エイクの描いた「聖母子」のマリアは、赤い上着を着ていたような気がして、何となく落ち着かなくなってしまう。落ち着かなくなる中で、しかし、聖母の上着の青色が、聖母子の画像そのものにつやと奥行きを齎してくれていることは間違いない。そしてそれは嬉しい。

 私は奇妙な心理状態で、この美術館の四十二階からエレベーターで一挙に地上へ降りた。降りて、中世的聖母子像のイメージに毒されたまま、新宿駅への道を辿る。辿りながら、今日一日の心の澱みを、ホテルのバスで早く流したくなってくる。

             ○

 明日、予定している「フェルメール展」が気重になりだしてきている。 

(二〇〇八、九、二五)

 

(注1)正確には『ジョン・ラスキンとヴィクトリア朝美術展』で、この展覧会が催されたのは、もう十五年も前の一九九三年のことである。私はそれを、奈良の「そごう美術館」で見ているが、それを見にわざわざ奈良へ出掛けたとは思われず、奈良への所用が何だったのか、いまそちらの記憶はまるっきり失せてしまっている。この展覧会を見た「そごう美術館」も、そごう百貨店の閉店とともに、今は跡形もなくなっているであろう。

(注2)エフィーは、ラスキンとの六年の結婚生活で子を成していないが、ミレーと再婚してからは八人の子を成し、三十五年をミレーの妻として過ごし、夫ミレーを失った翌年、六十九歳で生涯を終えている。

(注3)これは後から『イメージシンボル辞典』(アト・ド・フリース著、大修館書店)に当たって分かったのだが、「糸杉」は死や死後の生命の象徴であり、「ポプラ」は太女神(宇宙を司る女神)の聖樹であり、死と再生の象徴であった。無論、「ロザリオ」が時の流れの円環的な無限の連続を表すことは言うまでもないだろう。

(注4)後で、この絵は、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ が一八三一年に作ったオペラ、『夢遊病の女』に因むものだということを、図録の解説によって知った。どうやらミレーは一八七一年に、このオペラを見たらしい。

(注5)この作品に接したのは、スイスのバーゼル美術館の所蔵作品によって催された『アルノルト・ベックリーン展』(一九八七年、国立西洋美術館)においてである。

(注6)珊瑚は、人に禍を齎す邪眼から身を護るための護符であり、小鳥は、鳥一般が古来、精神、魂魄の象徴として使われたが、どうやら、幼児(ここではイエス)のペットであった小鳥は鶸(ひわ)らしく、鶸は受難の象徴として使われたものらしい。(『キリスト教美術図典』吉川弘文館)

(注7)これも『キリスト教美術図典』に従えば、紫色というのは、初期キリスト教美術ではキリストとマリアの衣服の色だとあり、その紫の象徴性が、中世キリスト教では、赤と青に分割されることもあり、その場合、外衣が赤、内衣が青(またはその逆)と分けて使用されると記されている。

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