川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

大正の文化の匂い、碧南ー藤井達吉現代美術館開館記念展を観るー

 知らぬが仏とはよく言ったもので、地許の文化について、これだけ無知なまま平気の平左で済まして来れたということは、己が無恥の厚顔など問うも愚かな、我ながら脱帽せざるを得ない美事さである。

 私は、その日、自分の無知を素直に認め、無知ゆえに得た新鮮な喜びの漂う彼に、同じ県内に住まう一市民として、ずっぷり浸り浮かぶ結果になったのだ。

 六月七日、薄曇りのその日、私は妻と語らって碧南に向かった。何故碧南に向かったりしたのか。そうなったのは、妻が、「碧南市藤井達吉現代美術館開館記念」と謳った「藤井達吉のいた大正」という展覧会の招待券二枚を、近所の友人から貰ったからである。その券に印刷された、藤井達吉の作品と目される装飾的な図面が、私の好みに適ったこともあり、地方の小都市が藤井達吉という名を冠しての美術館を建ててお披跡目をするということに、その名を知らなかった分だけ、沸き出る興味を圧えかねたからである。

 碧南の町などかつて訪ねたことがなかっただけに、私達は一寸した遠足気分になっていた。それにしても、知立で乗り換えた三河線の、刈谷から先のどの駅にも止まって行くゆっくりした電車の走行は、現代のスピード感覚からすれば、ほとんど半世紀以上前の時空に誘い込まれるような錯覚を齎す。繁雑急テンポな都会とはまるで掛け離れた田舎の町なのだと、行く先についてしみじみ思い遣ってしまう。

 そして思い遣られたとおりだった。

 碧南の駅に降り、改札口で美術館への道を訪ねて駅前の広場に出ても、まるで人気がない。言われた道を西へ辿るが、道の両側の瓦屋根の古い家並みの他には、猫一匹も歩いてい ない。案内通り信号のある四つ辻を左へ折れて二・三分行くと、四角いモダンな二階建の建物が、周囲の佇まいとは全く異質の明るさで眼に飛び込んで来た。正面の黒っぽい格子風の壁面に、赤いH・Mの文字がシンプルな装飾として付けられている。町の家並みの高さに抜きん出ることなく建てられた建物のつつましさがいじらしく見える。無論通りに向けて開館記念展の立て看板が建てられているが、これも身の丈程の一点だけで、都会には少ない控え目な静けさである。地方都市としての碧南市が私には好ましいものに思われてくる。

 ガラス張りの入り口を入ると、正面に六十恰好の和服姿の男性の座像が、デーンと置かれていて、まるでそれに追いやられたかのように、その右手限に受付が設けられている。それが藤井達吉の像であること瞭然だが、瞬間、脳裏に、島崎藤村や石井柏亭の控えめな姿の小さめな座像が思い浮かび、ああ、この小さな美術館に似合うつつましさを欠いてしまったなと、その大きさの誤算に苦笑せざるを得ない。こういうところが、名もない地方の美術館らしい野暮なのであろうと、苦笑しながら哀しくもなってくる。

 その狭い受付で、会場が二階だと案内を受け、二階へと上る。

 本展には、チケットにも、サブタイトルとして「大正の息吹を体現したフュウザン会と前衛の芸術家たち」の文字が見られたが、会場へ入ると、展覧はそのフェウザン会の第一回展に参加した人達の作品陳列から始まっている。その時のポスターを皮切りに、斎藤与里、岸田劉生、木村荘八、川上涼花、小島善太郎、萬鉄五郎、濱田葆光らの油彩画、田中恭吉、小林徳三郎の版画、高村光太郎の彫刻、そして藤井達吉の布製の壁掛けが並べられていく。劉生の「バーナード・リーチの肖像」と光太郎の「手」以外は、見知った作品もなく、達吉の布製の壁掛け三点を除けば、全部小品ばかりだが、それなりの顔触れの作品を三十点も集め並べるなどということは、この、小さな地方美術館に、向後二度と起こらないのではないかと思われてきて、それがいじらしくなってもくる。

 ともあれ、赤土色の画面が主調音のこの作品群を見ていると、一九一二年、つまり大正に入って、フォーヴィズムが、日本の画家達を染め始めたことがよく伺われ、達吉の壁掛けも、その風潮の中での装飾性をよく示しているように思われた。特に一メートル四方の綿布に蝋纈で染められた「蝋纈海草文壁掛」は、面中央一杯に繁る一本の大樹のように、昆布を白く染め抜き、その周りに遊漁を配して、些か色褪せた現状から想像すれば、当初の出来栄えが、民芸的にも魅力的な物に見え、それは、折しも新しい美術の運動を啓蒙していた『白樺』の動きを連想させもした。

 そして次のコーナーでは、達吉と交わりのあった装飾的工芸作家たちの作品が、達吉の作品と共に展示されていた。

 そこでは、津田青楓の刺繍の壁掛けや装丁本、河合卯之助の陶器ーーその中には藤井達吉の絵付けによる茶器もあるーー、高村豊周の青銅鋳造の花器や香炉など、私には珍しいものばかりが展示されていて嬉しく、それに拮抗すべく、達吉の作品として、長田幹彦や森田草平の著作の装丁や、七宝に 焼き上げられた椿の花や高波の海、同じく七宝製の細かな透かし紋の文箱、更には銅板に棕櫚を打ち出して七宝焼きを施した六曲一隻の屏風等が並べられている。こういう作品を見ていると、これは昭和モダンに至る前の、大正のモダンを競っているように見えた。そこにはそれだけの古さも伺え、そういう大正のモダンの古さ、それをしも大正ロマンと言うならば、そういうロマンを描き続けたシンボリックな画家として河野通勢はいたのかと、ふと思ったりもする。

 中に一点、鶴田吾郎の作になる五〇センチ位の油彩肖像画「藤井達吉像」があったが、闇の中に浮かぶように描かれた、恐らく三十代のその達吉像は、眉間に憂いを見せていてよい。

 三つ目のコーナーは、階を変えて設けられており、「大正時代と藤井達吉の前衛」と題されていて、大正期後半の、達吉の工芸作品を中心にした、幅広い活躍振りが紹介されていた。

 その中で、斎藤与里と川上涼花の屏風に出会うという滅多にない収穫もあったが、藤井達吉の四点の屏風は、いずれもそれに遜色無いもので、とりわけ「大島風物図屏風」という二曲一双のそれは、かなり色が落ちているものの、図案的な、色彩のコントラストの爽やかさが充分伺える作品だった。そしてその図案的才能を発揮したものとして、文箱や乱れ箱や銘々盆、果ては座布団のカバーから札入れや栞の絵柄文様にまで及ぶ、幅広い美術工芸品が並べられており、達吉の才能がどう展開したのかを語っているのだが、それらが日用品であったがゆえに、現代の日用の美から遠くなってしまった、煤け裏びれた侘しさをこの場に醸し出すことになっている。ここには、絵かきや彫刻家とは異なる工芸作家藤井達吉の、しかも中央から地方に帰って生きた芸術家としての幸せと不幸が、全てほの見えていた。その知名度の失われた一人の男の営みを表徴するかの如く、達吉の作品の最後は、「四季草花図」という、目立たぬ野草を、気取りのない筆勢と穏やかで淡い色調によって描いた四幅の軸によって締められていた。私は、自らの無知のお蔭でホロリとする。

 なお、この達吉の作品群の最後に、それをバックアップし会を名あるものにするかのように、津田青楓の「婦人と金糸雀鳥」、岡田三郎助の「萩」の一メートルを超す大作と、高村豊周の「挿花のための構成」という真鍮製の幾何学的な、正に前衛的な花器が、展示されていたが、そうした中で、岡田三郎助の「浴衣の少女」という小品の、赤をバックにして描かれた少女の笑まいを含んだ横顔が、如何にも本展の規模と内容に相応しく思われ、気持ちの良い湯上がり気分に私を導いてくれた。

 美術館を出れば既に十二時を過ぎている。私には、道の向いの黒板塀に貼られた、清澤満之記念館の案内ポスターが気になる。仏教哲学者として知るに過ぎないその名前だが、その清澤満之がこの碧南に緑あったとは、無知故の驚嘆というもので、お蔭で記念館への興味が弥が上にもかきたてられることになる。

 かきたてられたその興味を妻に伝え、その前に昼を済まそうと通りを見れば、蒲焼きの匂いと共に、「十一八」の看板が目に入った。入って「じゅういちや」と言うことが分かり、私達は鰻重を注文する。客のほとんどは、どうやら美術館を訪ねてきた人達のようだ。老舗の店らしく、鄙の味ながら結構美味しく、食した私達から笑顔がこぼれる。

 その快さを纏って、先程のポスターの貼られた塀のある寺院、西方寺というに入る。清澤満之はこの寺清澤家の入り婿だったようだ。人気のない境内から真っ黒な木造二層の太鼓堂ーー掲示板によれば、この町最初の学校として使われた建物だとあるーーの脇出口から、通り道に出る。出れば九重味醂の立派な門と塀とが向かい側に見え、西方寺側を辿れば、清澤満之記念館の前に至る。

 記念館は、町民の寄付によって、四年前に出来たという小さな建物で、入館料を入口で払って、奥の一部屋に入れば、満之の袈裟や数珠や写真等の遺品、蔵書、原稿、著書等の、ささやかな虚飾のない展示を見ていることになる。

 入口で呉れたパンフレットを見て、初めて、満之が名古屋の黒門町で生まれていたこと、二十五歳の時には京都府の中学校長になって、この西方寺の娘清澤やすの入婿になったこと、明治三十六年、結核によって四十一歳でこの地に瞑していること等を知る。

 パンフの中に一枚のチラシがあり、それには、「自己を知るというは、決して外物を離れたる自己を知るというにあらず、常に外物と相関係して離れざる自己を知るをいうなり。」「本位本分の自覚」という試之の言葉が記されている。

 記念館を出て、今度は、記念館の前の下足箱のある簀の子で靴を脱ぎ、黒い板で覆われた古びた建物の、古くて暗い入口を入ると、満之が住んだ庫裡の部屋部屋に導かれることになる。恐らく管理を手伝っているボランティアの女性だろうが、その女性の案内で、結核を患っていたために、自らを隔離すべく設えたという、三方を壁で閉ざした、襖を立てればまるで牢獄のような三畳の書斎兼寝室や、それに隣して、それとは対照的な五・六十畳はあろう大広間を見、さらに二階に上がって、庭の木立と堀越に通りを見下ろすことのできる座敷を見たりして、下足箱の梱へ戻る。

 靴を履き背を伸ばすと、思わず吐息が一つ大きく洩れる。それから、美術館と道を隔てた向かいの「大浜まちかどサロン」というのに寄って「放歩地図」を貰い、後しばらく町の散策をして帰ろうと、その絵地図を開いて、海徳寺と宝珠寺を見物し、蓮如街道という細い道を通って碧南の駅に戻ろうと決める。戻る道筋で私達のような観光客に出会うことは絶えてない。

 三時過ぎの電車で、またのろのろと知立に出るのだが、さてこの日、カメラを持って出ることをうっかり忘れた、ために、この初めて訪れた町の佇まいを止める記録は、我が老いの頭以外には全く無い羽目に陥ったのである。呵々と笑う以外に手はない。

(二〇〇八、六、一五)

 

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