川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

杉本健吉を送る

 長命だった杉本健吉が身罷って三、四年は経ったろうか、いずれにしろ、健吉没後のこれが纏った初めての『杉本健吉展』であることは、確かなことだ。

 地元名古屋に生まれ育ち、地元で画家としての生涯を終えた杉本健吉を、私は、同郷の者としてかねがね嬉しく誇らしく思っている一人である。

 誇らしく思うのは、健吉が、画家になるための王道から外れていながら、画家を望み、中央に出る事なく、望む道を遂げた見事さと、その残した作品が、洋画家が構えて描く所謂本画の油彩画においてというより、ほとんど即興的と言ってよいようなタッチで描かれた水彩や色鉛筆の風景画や、水墨による挿絵「新平家物語』の人物画が、主要な業績になっていることの、他の画家達と違う独自な風合いによっている。

 例えば、その教育的背景や基盤からも作品の整った完成度からも、まさに正統派の典型のような画家、平山郁夫などと比べれば、健吉は、恐らくその対極的な所に立った画家であり、そういう画家に対する親近感が、私に、その姓によってではなく、「健吉」と名で呼ぶ習慣を齎すことになったと言ってよいだろう。

 「風合い」と言ったが、健吉の作品からは、こちらに迫り来るような描き手の気負いや圧力や主張といったものを感じることがまずない。お蔭で、こちらも肩肘張らずに和んで接しられる親近感、ある優しさを、私は抱き取ることができる。

 しかし、こういう私の健吉観とでもいうものが造成されるには、それなりの経緯があったことは言うまでもない。

 一体、この地方の出身画家で、私に関心が高かったのは、まず鬼頭鍋三郎だった。それは、私の高校から大学への時代、阿部知二の小説が新聞に連載され、その挿絵が、日頃行き来見慣れた今池界隈を舞台にして描かれていることが多く、阿部知二という作家と名古屋の今池との不釣り合いから、その挿絵画家の名前、「鬼頭鍋三郎」がしっかり肝銘されることとなった。しかも、その当時、二葉町の高校から近かったこともあって、私達は名古屋市役所を通路のように使って出入りしたものだが、その市役所の入り口を入ると、すぐ奥の壁面に掛けられた、縦二メートル横一メートル半位の「手をかざす女」という大きな油彩画の前を通ることになった。そして、いつも見て通るこの絵が鬼頭鍋三郎の作品だと知っていたのである。

 絵は、若い女が、手を翳して日差しを遮り、野良の外れで花を入れたバケツを足許に、素足で立っているのだが、壁面に掲げられたその高さによって、絵は見上げられることになり、その分女の背丈がすらりと高く見え、その着衣からしても日本の農婦ではなく、西洋の娘のはずだったが、私には、その顔がどうしても日本人に見え、不思議だった(注1)。

 その鬼頭鍋三郎の画業を、私が初めて知ることができたのは、鍋三郎が八十一歳になった一九八〇年に開催された『鬼頭鍋三郎回顧展』によってである。

 この展覧会によって、私は、鬼頭鍋三郎が、油彩による人物画に自らの画業を賭けた画家、それも専ら若い女性のみを描き続けた画家であったことを、知ることができた。と同時に、初期の代表作「手をかざす女」に始まって、戦後の昭和二十年代に描いた多数のバレリーナ像まで、鬼頭の描く女性たちに接すると、彼が女性達を通じて憧れ見ていたものは、その背景や衣装からしても、紛れも無く西欧的な文化だったことがよく分かった。そしてそのことは、昭和四十年代、鬼頭が六十代半ばに達して以後、凝り固まって描き続けた京の舞子たちの人物像群に接して一層明瞭になる。そこには、晚年になって、洋から和への転換、つまり、今では自然で日常的なものとなってしまった洋の世界から、逆に今や非日常的なものとなってしまった絢爛虚飾の伝統的な和の世界への伝換がはっきりと見て取れるからだ。

 しかも、その、過去の鬼頭の志向を照らし出す彼の和の世界は、舞子の金の帯に金の扇や簪、その背後の金屏風に黒髪と黒地の衣装というコントラストを、これまでにないけざやかさでくっきり描く、晴れやかなものになっているのだ。金箔を用いず、油絵具だけでよくぞここまでと、その時、私はその技量に脱帽し、そこに到達した鬼頭鍋三郎という画家に、親しさと敬意を抱いたものだ。

 杉本健吉の作品への接近は、そういう鬼頭鍋三郎への敬慕の思いが私の中に出来て一段落した(注2)後に始まったのである。

 すなわち、『鬼頭鍋三郎回顧展』のあった翌年の一九ハ一年四月に、丸栄で「現代洋画家デッサン・シリーズ」の一人として取り上げられた『杉本健吉展』が、私の健吉への接近の初めだった。続いて、翌八二年九月には、今度は名鉄百貨店で健吉の『中国スケッチ展』が開かれ、それを見に行くことになったのである。

 こうした展覧会を介しての健吉への近付き方が、デッサンやスケッチ風の作品こそが健吉の本画であるという認識を私に齎し、それがこの画家の、鍋三郎の場合とは全く対照的な独特でヴィヴィッドな個性なのだという固定観念を持つことになってしまったのである。そしてこの固定観念は今に至るまで修正を要しないのだから、その意味で、効果的な接近の仕方であった気がしている。

 しかも、そういう嵌まり方をまるで助長するかのように、健吉自身がーーその時点で健吉は七十六歳になっていたーーその図録の冒頭の「作者のことば」の中で、「私は、素描して必要があれば着彩します。淡彩もあれば、濃彩もあります。カンバスが紙にかわり、油絵具が水彩やパステル、コンテと、材料がちがうだけです。素描をタブローの従属的位置にするのではなく、まして、いわゆる本画のための準備ではありません。素描そのままが終着点であります。」と言っているとなれば、私に醸成された健吉視のゆかりも納得が行こう。

 顧みると、私が杉本健吉に親近しだしたのは、私の五十になる頃からだったことになるわけだが、その親近感が、決定的になったのは、一九八六年の九月に名古屋の丸栄スカイルで催された「杉本健吉」展においてである。その展覧会では、健吉の風景画が、「国内風景」「中国風景」「海外風景」の順に並べられ、その後に「油彩」と「新・平家物語」と続いたのだが、その「国内風景」の冒頭に「必ず現地で素描しそれを唯一の作品とすることが私の憲法になっています。」の一文が掲げられ、「油彩」の冒頭には「むしろ油彩で手習い」の語句が掲げられていて、それまでの健吉観がますます付けられることとなった。

 私はまだ行ったこともない「無錫」や「蘇州」「桂林」の色鉛筆や水彩で描いた風景を何故か懐かしく、その地の物音や匂いまで嗅ぐような気がしたし、「ロドス港」や「アムステルダム」の水彩による水の動きとその深さの表現に臨場感を覚えもしたが、何より、国内風景の中にあった大阪の夕景夜景を描いた数点に抱いた感情は、今も忘れることができない。

 その展覧会の前の八三年に、健吉は、大阪の四天王寺に障壁画「聖徳太子絵伝」を完成させているのだが、そのためにしばしば常駐しなければならなかった大阪で、仕事を終えた後の散策に、スケッチをすることが多かったのであろう。揚げ句、天王寺の橋の上から電車が行き来する多数の線路を見下ろす「天王寺夕景」、淀川に街のネオンの明かりが落ちる「淀川大阪城遠望」、夜空の下、一棟一棟、屋上を派手なネオン塔で飾り立て、煌々と明るく建ち並ぶ川沿いのラヴホテル群を望む「淀川桜ノ宮の灯」などの作品ーーどれも四〇センチに六〇センチ程の大きさだったーーが出来上がったのだろうが、そうした絵に、私自身が完全に飲み込まれてしまって、不覚にも涙が出そうになったのである。

 私自身、この展覧会を見たころ、大阪には毎週のように仕事に出掛け、夜の時間を持て余しては、ホテルを出て一人散策することが多かったのだが、健吉がスケッチに描いたピュウポイントは、どれも、散策中に私が立ち止まってみた場所だったのである。夜気に覆われた夜の孤独な気持ちがその時蘇り、健吉も抱いていたであろうこの絵に溢れる孤独感が醸す哀しさに、私は飲まれたのである。

 最早健吉の風景画は、私には情景画になっていた。

 そして、生前最後の大々的な「杉本健吉展』が、一九九四年五月に愛知県美術館で開かれる。鬼頭鍋三郎の回顧展が「画業六〇年記念」であったのに対し、健吉のは「画業七〇年のあゆみ」と題してのものだった。ここでも圧倒的に数を占める風景画が、それも油絵以外の風景画が、色彩と線描の交錯する空間のリズミカルな演出、それもあまり作為性を感じさせない作為の、言ってみれば、作者の生理的自然において演出され描かれている。作品は、凡そ七〇センチから一メートル位までの大きさなのに、その大きさ以上に奥行きのある広やかさを或る爽やかさと共にこちらの心に伝えてきて、気持ちのよい情景になっていた。横尾忠則の風景作品に感じるような、或る種の不快感は一切ない。それは、横尾と健吉の生きた時代の差とばかりは決して言えないと、私には思われる。

 ところで、こうした風景画の風景は、全て住家にしろ社寺にしろ人間の作り成す文化施設を含んだもので、純粋に山川草木だけを描いたものは一点もない。従って、健吉の近景を描いた風景画の多くは、作者の間近にある道ーーそれはしばしば川の道になるーーと共に描かれ、遠景を描く場合には、人間の作り成した世界の拘りによって俯瞰的に描かれることになっている。二通りの方法のそこに、健吉の風景観が形作られていると言ってよいだろう。道は、見るこちらを、絵の対象、そこにされる人間の歴史を孕んでの営みの世界に誘い込み、俯瞰の視点は、対象の世界に息づく小さな存在の人間たちと、それらが巣作りをした世界の広さに気づかせる。健古の、人間たちの営みに寄せる親しさ愛着が、彼の風景画の表情を決定づけているのだと、そう思う。

 そして、今度の健吉展になったのだが、没後の記念展でもあり、作品は、健吉の生涯を辿る形で展開するようになっていた。「画家をめざして」「古都を描く」「新・平家物語」「世界を描く」「生涯現役」の五つの章立てのうち、「画家をめざして」の初期の作品と、「生涯現役」の最晩年の作品には、初見のものが多く、亡き健吉の生涯を私なりに補い満たす効果を持った。

 とりわけ、初期の一九三〇年代に作られたポスターの図案と風景画には、この地方の時代的風俗を如実に窺わせて、既に一九四〇年には小学校に行っていた私達のような年の者にとっては、懐かしさが作品の出来に先立ってしまうのだが、ポスターのデザイン・センスなどはなかなかのもので、健吉作品として新鮮な印象を受けた。

 また、最晩年の作品では、アトリエの中にいる自分を描いた自画像が、どれも一メートルを越えるサイズの油彩で描かれていて見応えのある仕上がりになっていた。しかも、これらの自画像には、自点的滑稽による逆説的自己表示がどれも顕著で、そこに健古の風景画を支えた精神が窺えもするが、間違いなく微笑ましくこちらの表情を崩してくれた。微笑ましいと言えば、イカの甲骨や木っ端や紙粘土を使って作った、様々な顔立ちの仮面の小さなオブジェが幾つもあったが、こういう遊びにまで至り着いた健吉の老化の自然が、私には、羨ましいものに思われる。羨ましいのは、身体的には不便を託たねばならぬにしても精神的には最も自由になっている健吉を、そこに見るからである。

 はて、私自身の老後の今後は、どうあるのであろう。

(二〇〇八、六、六)

 

(注1)因みに、大作「手をかざす女」は、一九三四(昭和九)年、第十五回帝展で特選になった作品だが、それまで鬼頭が洋行をしたことはなく、彼が渡仏したのは、戦後の一九五九(昭和二九)年のことであり、洋行は、それ一回だけである。

(注2)この回顧展のあと、鬼頭鍋三郎の展覧会は、一九九〇年一〇月に松坂屋美術館で没後の回想展として催され、それを見に行ったことがあるだけである。

 

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