川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

昔の誼に誑かされて

 池田満寿夫と横尾忠則。

 この二人の名前を前にして、私に蘇ってくるものは、紛れもないもう四十年も前の自分の昔の日々だ。今となっては古いモノクロ写真を見るに近いと言ってよい記憶のはずだが、意外とまだ黄土色の勝ったカラー写真風のざらざらした手触りで、まさに時代の「変動」という言葉に取り込められた景色として、まざまざと立ち返ってくる。

 それは、大学紛争に象徴される、一九六〇年代の半ばからの激動の時代であり、その学生運動が契機になって、教員稼業の私は、否応なく大きな影響を受け、渦中のちっぽけな存在としての自分の身をどう処していったらよいか、その術を否応無しに考えないではいられなくなっていった、私の三十代後半から四十代へかけての時代に当たっている。

 時代の変化は、我が身を取り巻いて表現される文化のあらゆる領野に及んでいた。その方法や内容の全てに、紛れもない変動振りが目に立ち、それが私の耳目を刺激し、私を惑乱動揺させた。

 映画がそうだった。

 あの頃、私は、岡本喜八の「肉弾』(六八年)ーー全裸で 駆ける大谷直子の可愛かったことーーや羽仁進の『初恋・地獄編』(六八年)、篠田正浩の『心中天網島』(六九年)や実相寺昭雄の『無常』(七〇年)、大島渚の『儀式』(七一年)や寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』(七一年)、斎藤耕一の『津軽じょんがら節』(七三年)や神代辰巳の『四畳半襖の張り』(七三年)ーー日活ロマンポルノ時代の宮下順子の熟した乳首が懐かしいーー、熊井啓の『サンダカン八番娼館・望郷』(七四年)や黒木和雄の『祭りの準備』(七五年)ーー横たわる竹下景子の息づく豊かな胸乳が蘇るーー、それに長谷川和彦の「青春の殺人者』(七六年)ーー少年を脱皮したばかりの水谷豊のやんちゃな不良振りが生きていたーーといった作品を通じて、時代の変化というものを随分実感させられていた。

 演劇がそうだった。

 商業演劇の大劇場を離れての、野外のテント劇場や地下の小劇場を使っての、観客との距離を縮めたまさに新しい空間に、そも演劇とは何だったかを問いかける多数の実験的な小劇団が、殆ど猥雑と言っていい熱を帯びた舞台を次々と展開していた。唐十郎、串田和美、寺山修司、太田省吾といった演出家たちによる、緑魔子、吉田日出子、李麗仙といった女優たちの汗が飛び散り匂うような熱演は、まさに身体の生理としてのエロスを実感させて迫力があった。そして無論、絵画でもそうだった。その絵画での時代の動きを、最も先鋭に、自らの身体的演出、パフォーマンスも含めての表現によって私に見せてくれたのが、外ならぬ池田と横尾の二人だった。それだけこの二人は、私に生理的に絡みついている存在となっているのだった。 少なくとも私にはそう理解されている。

 横尾は、六九年に大島渚が監督した映画『新宿泥棒日記』に、そのポスターを製作しただけでなく、主役で出演をしていたし、池田は、七七年『エーゲ海に捧ぐ』によって芥川賞を受賞すると、翌年には、これを自ら脚色して映画に作り上げた。そしてそのどちらをも、そこに映されているはずの裸の女体表現を当てにして、私は映画館に出掛けたのだった。

 間違いなく、私は、その時代の大きなうねりを、女体によるエロスのそれとして視覚的に捉えていたのだということが、実感として解釈できる。

 その二人の展覧会が、なんと、同時に企画開催されるとは。展覧会が、恰も私のために企図実現されたものだと独善的錯覚に陥りそうだが、そうなったとしても、それは私の自惚れや傲慢のせいではなく、私自身の嵌まり込んでいた混迷に再会出来る、正直な喜びのせいというものだ。

 私と同時代を相並んで生きてきた者として、この喜びは、多分妻も、等しく感じたのであろう、彼女の今度の上京の目的の一つが、この二人の展覧会を見ることにあったことは、その言葉の端々から充分伺えていた。

 とりわけ私にとって、池田満寿夫の展覧会を見るのはこれ が初めてだったから、逃し得ない必見のものだった。そこで、池田満寿夫の展覧会は、上京した日の午後にし、横尾忠則展の方は、翌日の午後に見に出掛けることに決めていた。前日は、薬師寺展を見た後、二日目はモディリアーニ展を見た後と、それぞれの午後の楽しみとして図っていた。

 

 

 

 さて、池田の展覧会は千葉市美術館で開かれていた。この 美術館を訪ねるのは、一昨年の『浦上玉堂』展これについては既に本誌二〇〇八年五月号に記載したーー以来のことになる。

 時代も作品の傾向もまるで違うものを比べるなどは野暮の骨頂だが、前回の「浦上玉堂』展とは打って変わった楽しさで、疲労感までが快い有り難さになるという始末だった。時代的に通底しあっているものの齎す、共感できるセンスというものの存在を、作品の表情の上に確かに見取り、自らに見出すことができる。

 それが何かということになれば、見ていて描かれるモティーフの中心がエロスであり、表徴的には女の性器であることは歴然としており、そこから性交渉を通じて浮上する男女の生の実存の生理性が、否応無くこちらを呪縛する。

 そこに見えるのは、理知と相容れない官能という世界に、人間の生の、最も人間的な現実を見るという理知の眼差しである。それは、まさに先に揚げた、新しいと思わせた同時代の映画・演劇に通底しているものだった筈だが、そういう傾向の発現には、理知の理想である理念が、最早現実には機能し得なくなってしまい、その経済的物質的な生の充実こそを夢見るようになった、その挙げ句、それを理念視するようにまでなった理性というものの、頽落蔓延を目の当たりにすれば、最早信じ頼ることのできる生の現実は官能だけだと感取認識されるようになったとしても致し方のないことだ。

 そういう意味で、池田の創造的世界が、紛れも無く時代的な展開を語っているのだということを、改めて感取できたのである。

 展覧会のサブタイトルは、「知られざる全貌展」だったが、それは私にとっての実感そのものだったのである。

 何よりも池田の特徴は、人物を中心にしたエロス的世界が線描の氾濫として捉えられており、その練描の線が自然な滲みを持つドライポイント版画に結晶している点にあると言ってよいであろう。しかもその線描の世界はどれも動的で、図柄としてのアイロニカルな滑稽を窺わせながら、単純で美しいモダンな色の配色によって高いファッション性を表出している点が池田的である。それが、見るこちらを軽快な気分に誘う。

 このドライポイントが、時にリトグラフになったり、メンチントになったりしているが、それらは、その点数から言っても、面白さから言っても、ドライポイントには及ばないように私には思われる。

 なぜなら、私には、作品の現代性が、版画という大衆性」、滲みによる筆墨的な日本らしさとの合体によって成り立っているところに、池田の特徴があるように見えてきているからである。ただ、ドライポイントの小さな作品ではなく、大きな作品に挑戦した時、池田はリトグラフによる色彩豊かな日本的構成の抽象画を作っている本展における池田の油彩画は十点ほどにすぎず、池田の作品は紙に拘り続けた成果だったのであるーーが、「宗達讃歌」と「天女乱舞」の屏風絵は、まさに日本的な色彩の乱舞するセンスのよさを見せていて気持ちがよい。池田が、色彩の齎す生理的快感に通達した画家だったことを認めざるを得なくなる。

 そして、後半は、池田の陶・ブロンズ作品と書の作品が展開するのだが、これが、また私を喜ばせてくれたのである。

 全体的に、作品は具象性に乏しく、六十センチから一メートル位の高さのどっしりした重量を感じさせる角張った何点もの土色の焼き物、それぞれ三十センチ位の、線で仏の顔を色々な表情に刻んだ陶版、これも二十センチから三十センチ位までの、顔を線で平面的に作った他は、捏ね上げた土を何の現実性もなく色々固め上げた陶とブロンズの地蔵達が並ぶ。そのブロンズ像の中には、金箔で覆われているものもある。それに、直径五センチほどの丸い陶土に、文字を一字ずつ陽刻する形で押印して焼いた、般若心経の全文を示した「心経陶片」の一群や、これもそれぞれ十五センチ程の、底にやはり文字一つずつを陽刻した陶器の椀に読まれた般若心経の「心経椀」の一群にも併せ出会う。すると、それらが織り成す展示空間が、陶にしろブロンズにしろ、赤茶色と暗灰色によって織り成されていることもあって、まるで、三途の河原か、浄土への石ころ道にいるような錯覚が生じ、焼き物の世界に見出した、池田の日本的な冥途が、仏教的な伝統的古めかしさを感じさせぬ、池田流の風俗的モダンによって、ファッショナブルにそこに存在しているように思われ、それが私に親しみを齎したのであろうと納得されもする。

 私は池田の没した六十三という年齢を、ついつい思いやりながら、会場を後にした。

 

 

 

 翌日出掛けた『冒険王・横尾忠則』展は、世田谷美術館だった。この美術館は辿り着くまでが何とも不便で、いつも辟易する。それにもかかわらず出掛けたのは、やはり横尾忠則への関心と期待とがなせるわざというものであろう。

 渋谷から東急田園調布線で用賀に出、タクシーで美術館に向かう。

 チケットを買って入館すれば、二階から一階へ、小さく分けられた展示場を、迷路のように繋ぎ辿ることになる。辿れば、見る世界が、あっちに揺れこっちに揺れして、横尾の世界には違いなかろうが、横尾というのは一体何だったのかと、ある混沌に蹴落された気分で会場を出なければならなくなる、そんな作品展、それも膨大な作品展だったのである。

 その膨大さは、部屋ごとに掲げられたタイトルを辿ると、以下のようになることから窺い知ることができよう。

 すなわち、「〈プロローグ〉創造の冒険に」(二十二点)に始まって、以下、「予感/選択」(八点)ー「旅のはじまり」(九点)ー「少年は冒険を好む」(二十点)ー「冒険の時代〈横尾忠則1960~70年代の仕事〉」(デザイン画を中心にした、その作品と、その成立プロセスを跡付けるスケッチ、下書きデッサン等三二〇点)ー「創造の冒険〈夢〉」(三六点)ー「創造の冒険〈コラージュ〉」(三一点)ー「創造の冒険〈反復〉」(一五点)ー「創造の冒険<ルソー〉」(二三点)ー「創造の冒険〈名画〉」(七六点)ー「戦士の休息」(一二点)ー「冒険は終わらない」(二六点)ということになるのである。大は二メートルを超す大作の油彩画(これだけでも五〇点に及ぶ)から、小は三〇センチにも満たない小さな下書きスケッチまで、大小合わせ六〇〇点にもなろうという展示なのだから、それを見ることこそが「冒険」というものだ。

 ところが、私が横尾に対して最も評価している、つまり、 それによって横尾という画家の存在を私に印象づけたポスターなどのデザイン画を扱った「冒険の時代〈横尾忠則1960~70年代の仕事〉」の展示が、スケッチや下書きばかりで、完成作の展示に乏しいのだ。となれば、作品を介して昔を偲び懐かしむ遊びへの期待は裏切られ、苛立ちが募って、疲労の増幅に役立つばかりとなる。

 その上、もともと横尾の油彩画は、その色彩表現において毒々しく、特に、比較的初期の作品群における、少年たちの登場する夢想の世界は、常に描かれている空間が、それが子宮内であるかのように洞窟風に閉ざされていて、不快感まで煽るその閉塞感は、最近の三差路(Y字路)を扱った一群の作品におけるまで、例えそれが屋外の世界であったとしても、決して説き明かされることのない夢の世界のように、描き続けられてきていると言ってよいだろう。従って色彩的にも当然解放されぬ鬱屈と不快を、示し続けることになり、そこに横尾の不動の個性が築き上げられてきていると認められることになる。

 つまり、横尾は、我々が始末に負えない代物として明かしかねている夢のどろどろを、絵画として描き続けてきた画家だったのである。どうやら、現実は、夢のどろどろの中にあってはじめて現実であるというような認識、現実はそれほど儚いものでしかないという認識が、横尾の絵画的視線を形作っているということのようである。

 そこには、池田満寿夫にあった、スマートなモダニズムや色彩と線との織り成す快感は皆無である。性的な動きの軽めの世界から、より静的な陶や書の世界に変化していった池田に比べれば、描く対象こそ異なれ、横尾には、その表現に変化は感じられない。つまり、人間の内的混沌を混沌として、横尾はずっと色彩的に描き続けているのだということになる。ただ、始めのころしばしば見られた陰茎や膣、立位の性交の図などの性的表現が、入浴する裸婦群へと穏やかに変化 してきている年齢的推移はあるとしてもである。

 そういう中にあって、唯一私を救うものがあったとすれば、それは、横尾が描く水の世界、それもしばしば滝つ瀬のように流れる水の激しい表現だけは、色彩の混乱の中にあって、澄明な音となってこちらに届いていたように思う。池田の作品からそういう音を聞くことはなかった。紛れもなく存在するのに、その実態は定かではない水というものは、或る意味で夢に通うと読むこともできる。

 それにしても、さて何を見たと言われれば、ヤハリ私は、毒々しい色の世界に毒され尽くしたのだと言う以外になく、揚げ句、昨日の池田はあまりにも気分が違ったこともあって、へとへとに疲れ果て、私は救われがたい気分になって会場を出る羽目になった。妻も「疲れた。一服したい」と言う。美術館に接して、藤棚を屁にした別棟のラルジャンというレストランがあり、そこへ入って藤棚寄りのガラス際の席に腰を下ろす。客は私達二人だけだった。私は洋梨のタルトにアイスコーヒーのセットを頼む。妻はホットコーヒーと別のケーキのセットを頼んだ。公園の緑に目を休め、私達はゆっくり甘露の一服を喫する。

 ガラス越しの樹木の緑と、向かいに座っている妻とに、私は、冷たいコーヒーを喉に通しながら、夢のどろどろの呪縛から自らを解き放とうとする。

(二〇〇八、五、三〇)

 

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