川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

祈りの場からその身を解けば

 大和の国は薬師寺の国宝、日光月光二体の菩薩様が、背後に負った挙身の光から自らを解き放ち、長年身動き一つ叶わなかった聖なる住まいの金堂を出で発って、数多の仏像・仏画のお仲間と共に、遥けくも、東の国の俗なる見世物小屋博物館まで旅出をなさるというのだから、これを一大珍事と言わないで何としよう。

 薬師寺が、藤原京に完成したのが七世紀末であることは、例えば、『続日本紀』の文武天皇二年の記述に、「冬十月庚寅、薬師寺の構作略了りたるを以て、衆僧に詔して其の寺に住まはしむ」とあることによって知れるが、八世紀初頭には、平城京への遷都が行われ、薬師寺もそれに伴い、奈良の今の場所に新たに建造されたことが、同じく『続日本紀』の元正天皇三年の記述中に、「三月辛卯、始めて造薬師寺司に史生二人を置く」とあることから伺われるのだが、今ある国宝の菩薩像などの持仏が、その藤原京で造立されたものだとすれば、仏様方は、その遷都の際藤原京から奈良の地へ御引っ越されて以来二度目の、千三百年振りの御外出になる訳だ。これが珍事でない訳がない。

 私も妻もこの巡り合わせの冥利を逸してなるものかと、忽ち上京を企て、母をショートステイに出す毎月の一週間の間で、日を図って出掛けることに決めた。決めて五月十五日の木曜日、幸い天気にも恵まれた妻と私は、朝八時三十四分のひかりで上京したのである。

 当日は十時四十分に東京に着き、上野へ出、国立博物館の 切符売り場前に立てば、既に十一時になろうとしていたが、 チケットを求めれば、目下五十分待ちですがいいですかと念を押される。一瞬たじろぐものの、出直す訳にはいかぬ身なのだから、はいと返事をして入場することになる。私たちは、平成館の方へ足を進めた。進めて、館の前に蛇行して密集する人の列を眼にすると、脇を固めて観念したはずでも気が重くなる。帽子を被っていはするものの、五月の日差しの下で立ち通していることは、この年になっては難儀なことで、しかもその憂鬱が十分増しの六十分に及んだのだから、声も出ない。

 二人とも黙りこくって、ロッカーに手荷物を入れると、エスカレーターで二階の展示会場に上る。

 上って左手に入室すれば、見学は、薬師寺出土の塑像の断片の陳列から始まることとなった。手や足先、着衣の体や顔の、十センチにも満たぬ破片の中で、インドアラブ系の顔貌のよく残った二点の塑像は、そのリアルな造りによって、遥か西方の文化の伝搬振りを偲ぶよすがにもなるが、何よりもその眼と口元によって今に伝えられる、その命そのものと言ってよい魅力だ。はっとし、私の中から、待ち時間の気の重さが、一挙に消え失せる。

 それに続き、百五十体を越す塑像の、粘土部分が殆ど落ち、芯の人型の木の部分だけが残った小さな人形たち、鬼瓦や軒丸瓦、更には五つの口を持つ壺や皿の焼き物などが並ぶのを見て隣の部屋へと移る。

 と、そこは玄奘三蔵とその弟子慈恩大師の肖像画と座像の展示室となる。玄奘三蔵の肖像は、頭上高くまで蔵した笈を背負い、右手に払子、左手に経巻を持って、大きなイヤリングを耳に、個性を幾つも繋いだネックレスを首に下げ、脚絆姿で歩く姿を描いた重要文化財の大きな軸ーーただしこれは東京国立博物館所蔵のものーーに、袈裟を纏い経典を持って礼盤上に座す軸と、同じ姿の彩色木彫座像が結構面白く、慈恩大師のものは、これも礼盤に座す大師を描いた国宝の軸と、立ち姿を描いた物とがあって、この二点の、相似て描かれた大師の眉と眼とのつり上がった風貌の魅力的な表現が、眼を楽しませた。

 そして、次の部屋は、国宝の吉祥天像だけが、ほの暗い回路の先の壁面中央にガラス越しに飾られていた。記憶の中で形成されていた像の大きさよりも、意外にも小振りーー縦五〇センチ、横三〇センチ程ーーで、写真で印象づけられてきた像の鮮明さがないのにたじろぎ、改めてその小振りさと色と裸の淡さに、対象が古い昔の天女だということもあってか、不思議と親しみやすい愛しさが湧いてくる。

 それは、キャンバスに相当する地の色と粗い布目が、描かれた絵の具の下に、ガラス越しにそのまま伺える画像であり、それが、現在に至って絵の線を和らげ、全体をうっすら朧化させ、中空に天女が立つ微妙の境を演出するのに役立っているように見える。それでも、昔教えられた、宝珠を持つ右手の指が六本ある異常さは充分確かめることができた。それにしても、私はこの薄暗い空間の中、夢の暗がりに天女と出会っているような、遠い彼方からその朧な声で呼ばれているような、奇妙な感覚に陥った。

 そして、展示場の一翼を出て階段のある中央の明るいロビーに吐き出され、私達は一旦我に返ることになる。

 だが、これからが本展のクライマックスというものだ。私は、初めて妻に、じゃ次へ行くかと尋ね、頷く妻を認めてから、今一翼の展示場の、ほの暗い口の中へとこの身を吸い込ませて行くことになる。

 身を吸い込ませたその先に、私たちは薬師寺内の休ヶ岡八幡宮にある木彫の国宝八幡三神座像と出会う。その一体神功皇后の座像は、前の吉祥天女像同様、写真でよく見慣れたものだ。僧形八幡神・仲津姫命の像との、四十センチたらずの小さな三体の座像は、可愛らしさには納まりきらぬ、ゆったりと大様な姿に作られている。真中に座す八幡神の袈裟懸けの坊主姿を見れば、神仏混交の実態を伺うことができて、それも面白い。

 三体の顔の作りが眉・眼・口のどれをとっても少しずつ彫分けられていて、微妙な性格の差を浮き彫りにしており、着彩の色や柄もよく残っていて、衣装の赤と緑、肌の色の白と口唇の紅のコントラストの、その昔の鮮やかな美しさを、今も充分思い描くことができる。しかも、この小さな三体には、その単純な造りの大らかさによってか、ずっしりとした重量感が感じられて、色彩と拮抗しながらバランスを保ちながら、祀られる対象として、充分人々から親しみが持たれていたことを想像させもする。

 この部屋には休ヶ岡八幡宮のこれも木彫の阿形・吽形の一対の狛犬像もあって、なかなかにいい。

 ともあれ、こうして、二つの部屋で、私は吉祥天女像と神功皇后座像とに初めて会うことができ、その喜びは大きかった。昔から教科書などに採用されていて、小さな図像としてすっかり身に染み付いてお馴染みの、その現物にようやく御目文字適った嬉しさに、心はふっくらとしたのである。しかも今回初見の国宝の吉祥天女像と八幡三神座像は、今度が初めての出展では決してなく、既に、一九八六(昭和六一)年に催された『御在位六十年記念日本美術名宝展』では、その両方の作品が、二〇〇〇(平成一二)年に催された『文化財保護法五〇年記念 日本国宝展』では吉祥天女像が、それぞれ出展されていて、私はそのどちらの展覧会も京都国立博物館と東京国立博物館とへ、見に出掛けているにもかかわらず、それらの作品の出展期間中でなかったために、見損なったまま見えることなく今日に至ってしまっていたのだから、胸膨らむこの嬉しさは無理からぬことなのだ。この喜びには、この長年の残念の解かれた分が大きく重なっている。

 そして、私は妻と最後の展示室に入って行く。  

 すると、左手突き当たりに、国宝聖観音菩薩立像がこちらを向いて、黒い輝きをもって、仏像にありがちな腹部の弛みの線もなく、何の衒いもなくすっくと立っている。こちらを見やる眼差しではなく、自らの足先に落とす眼差しは、その分穏やかな面差しを醸し出して立っている。直立不動の堅さは、腕や肩を巡ってU字型に垂れた天衣によって和らげられている。 

 私は、そこに立つ仏像の優雅さとでもいうものに打たれた。

そして右手に道を辿れば、人だかりのする日光・月光の両菩薩を上から見下ろしながら、その足許へ降りて行くことになる。

 足許に降りれば、足許と言うに相応しく、両像は見上げる豊かな大きさで私の前に立っている。身の丈三メートルは優にあろう大きさで、取り巻く見物客は一様に首を仰向けている。

 その見上げる仏像は、目の当たりの間近さによって、私にはもはや仏像ではなくなっている。それは、黒光りする肉付き豊満な肌の輝く人物像として、私の前に立つ。女性に近い胸の膨らみ、たっぷり丸い腹の線と臍の窪み、日光菩薩は左に、月光菩薩は右に、それぞれに捻った腰の動きは、その首飾りと領巾・裳裾がなければ、裸体像と思われても不思議はない、その体温まで感じられそうな魅力を湛えている。

 この二体の像が、千三百年も昔のものであるにも拘わらず、まるで昨日か一昨日鋳造されたばかりのように、艶やかな肌の輝きを平成の今に示して、こんなにも洗練された色気を辺り一面凛々然と放散しながら何の欠損もなく、ところを払う威風を持って立っていようとは。殆ど奇跡に近い歴史の不思議に出会った思いがする。と同時に、よくもこんな作品を造り得たものだと、これを生み出した仏師という人間の、これまた奇跡と言っていい営みに、口あんぐり、唖然と馬鹿面を晒さざるを得なくなる。これで、人の流れさえなければ、文字通りの「見惚れる」という恍惚境に、妻と二人、時を忘れて立ち尽くしたであろう。

 これまで、印度やパキスタンの仏教美術の展覧会で見た仏像でも、これほど美しい仏像に、これほど滞りない姿で出会ったことはないし、薬師寺のこの仏像に適うような、姿の美しい像があったとしても、それらはなお一世紀以上後の何れも九・十世紀のもので、日本の仏像の造形技術の芸術的なレベルの高さには、今更ながら舌を巻かないではいられなくなる。こういう作品を目の辺りにすると、造形とも言い兼ねるような、現代の彫像群の気ままな、それだけ何一つ確信が持てない現実というものの表現世界など、その感激感動の薄さ において、私には稚戯に等しく、凡そ堕するにこれ以上徹底したものはないと、否も応も無く確信させられてしまう。

 そういえば、ミロのヴィーナスが、来日したのは一九六四(昭和三九)年のことで、私はそれを京都へ見に出掛けたのだが、海外旅行など考えられもしなかった当時、殆ど空想の世界に近い憧れのパリから、遥けくもやってきたという、言ってみれば作品そのものの鑑賞とは関係のない感動がまずあって、その上で、間近にヴィーナスの白い姿を仰ぎ見たものだ。その、決して大理石の重量を感じさせない、像の婉曲する柔らかなラインの流れに、長い列の中で、確かに吐息と恍惚の一瞬を味わったことを今も思い返すことができるが、しかし、その肌のあちこちに小さな欠け跡が見えて、すべすべの艶やかな肌をひたすらイメージしてきたヴィーナスへの想いが、些か傷つけられた記憶もまた残っている。

 無論ミロのヴィーナスは、五体満足ならぬものの齎す充足という美の不思議を示すミステリアスな彫像だが、それに比べれば、こちらは五体満足なものの、しかも肌の欠損などのまるで見られぬ、希有な美の満足を齎しくれる有り難さである。

 薬師寺金堂という束縛から身を解き放ちなさって自由にお成りになり、決してあの金堂では味わい得なかった、親しみ やすい身近さで、それだけに艶やかで大きなお体の溢れんばかりのお力をまざまざとお示し下さろうとは、これぞ極楽の冥利というものだ。合掌。

 もう、今日はこれ以上何も欲しくなかった。

(二〇〇八、五、二五)

 

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