川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

二つのモディリアーニ展を見る

 私の高校時代からの友人にOというのがいるのだが、この男、私以上に社交性に欠けていて、前立腺の手術をしてからというもの、殆ど外出をしなくなり、安城での、細君との家庭生活に籠りきり、二月に一回ぐらいは、高校時代の昔と変らぬ、小さな、お義理にも達筆とは言いかねる字で、便箋数枚に及ぶ、近況を書き連ねた手紙を送って寄越す。そのOから、端午の節句も過ぎたところで、また手紙が届いた。

 開封すれば、中から、名古屋市美術館で催される『モディリアーニ展』の切符二枚が出てきた。

 便箋に、サインペンで書かれたいつもの細かい文字が、新聞店から貰ったが見に行くつもりがないから使ってくれたら有り難いと伝えており、併せて、昔展覧会へ行って求めた、モディリアーニの図録が手許に残っていて、それを見直したこと、また、ジェラール・フィリップとアヌーク・エーメが主演したモディリアーニの伝記的映画「モンマルトルの灯』のヴィデオテープもあって、それも懐かしく見直したことを記していた。

 Oが図録を買った展覧会とは、恐らく我が国で初めて催された一九六八(昭和四三)年の『モディリアーニ名作展』のことだという気がする。そうなら、それは私の手許にもあるのだが、それを見ると、三十代半ばの遥かな昔の一日、私はそれを京都の国立近代美術館まで見に出掛けたことが分かる。して見ると、Oも京都まで観に行ったのだろうか。今では近場の展覧会一つ見に出掛けることもなく、自らを閉ざし暮らしているOが、芸術モディリアーニ持っていたかつての自己との落差を、どのように回顧しているのかと思うと、私はそぞろ哀しくなってくる。切符は買ったものの、実のところ、かつて京都まで見に出掛けたほどのモディリアーニへの傾倒が不可思議に回顧されるほどに、私の乗り気は、今度の展覧会に対して低くなっていたのである。0や私を惹き付けたモディリアーニの作品に、いつの間にやら何故か私は興が醒めてしまっていたのだ。

 しかし、その一方で、モディリアーニの名を聞けば、彼に不思議な共感を抱き親しんでいた遠い日の自分は、間違いなく思い出され、0への義理だけではなく、昔の自分への義理立てから、やはり出掛けておくのが当然だろうと思い始めてもいた。

 そんな中途半端な気分での、美術館訪間だったから、その気合相応、久しぶりに纏まって見るモディリアーニの絵だったにもかかわらず、さしての感慨もなく見終えてしまったのは致し方のないことだ。

 僅かに、モディリアーニ調が確立する以前の、一九一〇年頃までの初期の肖像画十点ほどに、まだモディリアーニらしさがないだけに興味を引かれた以外は、確かに、モディリアーニだよなあ、これはと、冷めた眼差しを投げかけながら、残る二十五点ほどの油彩画と、三十一点の水彩やデッサンの小品の前を通り過ぎ、ちょっぴり後ろめたい気分さえ残して会場を後にしてしまったのである。

 ただ、会場の終わりの方に、死んだモディリアーニの後を追って投身自殺をした妻ジャンヌ・エビュテルヌの、美しいとは見えかねる大きく伸ばした顔写真が掛かっていたのには、初見の写真ではないのだが驚いた。角張っている感じさえ齎すその顔は、二点あった彼女の半身像の面長な顔の風情とは、似ても似つかぬもので、画家として成功したとは言えなかったモディリアーニとの関係を含んでの彼女の終焉の悲劇性や、そこにモディリアーニの肖像画として醸される情緒的悲愁を、写真というものがありのままの現実の証しとして機能しやすい分、ひどく損ない傷め、味気ないものにしてしまっていたのである。

 そのエピュテルヌの顔写真は、四十年前の「モディリアーニ名作展』の図録に掲載されていたもので、あのときも図録の中にその顔を認めたとき、展示されていた彼女の油彩の肖像画や、彼女の動きのあるスケッチの可愛さに寄せていたイメージが、一挙に汚されシラケてしまったことを思い出す。しかも、あのときは映画「モンマルトルの灯』のエピュテルヌ役を演じたアヌーク・エーメーーそのいささか知的すぎる顔立ちが、私には何となくミスキャストに感じられてはいたのだがーーの面と映像とも比較されて、「エピュテルヌに対するイメージの分を悪くしたものだ。

 一方で、今度の展会でもそれは言えることだったが、男性の肖像画やそのスケッチを見ると、それぞれのモデルの特微が巧みなタッチで捉えられ、決して似たような等し並みの顔貌には描かれていないのに対して、このエピュテルヌをはじめとした女性たちの肖像画を見ると、顔立ちそれぞれの個性的特徴を殆ど失ってしまって、どれもが等しくモディリアーニ的孤独な悲傷を背負って画一的な表情に描かれていて、そこにこそ、画家モディリアーニの特質があるかのごとく見られているわけだが、私にしてみれば、それは何とも腑に落ちかねる違和な感じで、それが、一度はその女性像の姿形に心ひかれたとしても、結果的に私をシラケさせてしまう結果を招いてしまうのだと思われてもくるのだ。

 それにしても、モディリアーニと言えば、やはりその主要作品の殆どを占める肖像画、それも圧倒的に多い女性像によって思い出される画家ではあろう(注)。そしてその女性像は、私には、撫で肩の長い首で、その小首を傾げて顔をこちらに向けて立ち、その眼は、何を見るでもない、しばしば灰色に瞳さえ失って、虚ろと化した眼差しをこちらに放ち、静かな温もりを宿した柔軟な線で包まれた姿によって蘇ってく る。それが、私の内部に形成されているモディリアーニ的典型とでもいうべきものだ。

 それは、描かれた若い女性の柔らかな美が、虚弱と虚無の表徴として見る物に向かって発現しているということに他なるまい。無論、女性に、若い生命力の美などではなく、それとは全く対照的な虚弱と虚無の美を見つめたのは、一人のモディリアーニという男であって、そうだとすれば、その女性像は、モディリアーニ本人のニヒリズムとそれへのいとおしみの結晶ということになる。

 ここまでくれば、愚かな私にも、自分の青春時代を根強く支配していたものが、ニヒリズムであり、そのニヒリズムを支えていたのが、ほかならぬ私の、甘えとしてのセンチメンタリズムであったことが読めもする。私は、ニヒルな感傷癖によってモディリアーニに共鳴し、共鳴することで、そんなことでどうなるものでもない自分の日常の制限された現実から身を避け逃れていたのだ。そして、この私のありようは、ニヒルな世界に溺れこんだモディリアーニの末路に語られるその生のありようと、根っこのところで等しいように思われる。そして、そのことをエピュテルヌの一枚の写真が、まさに逆説的に私に示唆して見せたように思われる。

 しかし、この錯雑たる思いが、もう一つ東京で開かれている『モディリアーニ展』を、これが恐らくモディリアーニの見納めになるあろうだけに、一緒に見ておこうと心に決めさせたのには我ながら驚いた。自分の欲望、それも空しいと言ってよい欲望の不思議に私は溺れたのである。

 下げ句、私は、東京の国立新美術館で開催中の、もう一つの『モディリアーニ展』をも見に出掛けることになったのである。

 もっとも、それだけだったら、上京したかどうか分からない。妻がまだ新美術館を知らなくて、訪ねてみたい気になっていたし、何よりも、同じその時、国立博物館で前評判の高い『国宝薬師寺展』が開かれており、さらには、千葉で『池田満寿夫』展が、世田谷では『冒険王・横尾忠則』展が催されていて、一泊してでも上京するだけの値打ちが、私には十二分にあったからである。

 いずれにしろ、国立新美術館の『モディリアーニ展』も、特別な感興を私に齎してはくれなかった。油彩・水彩の作品六〇点と、デッサン、スケッチ券九〇余点とで成り立っており、その数だけはさすがだったが、しかしその内二〇点ほどは、彼が二十代末から三十代初めにかけて取り付かれたカリアティッド|古典建築で用いられた女性彫像の柱を描いたもので、それも紛れのないモディリアーニの特質と言えばそうなのであろうが、そのワンパターンの図柄は、私のような素人目には興を殺ぐこと夥しい。

 そして今度も、モディリアーニがモディリアーニになる以前の初期の作品、とりわけ、その、顔立ちと肩に痩せが目立つ裸婦像に、画家の精神のささくれ立った悲惨の衰訴が垣間見え興味をひかれた。

 また、名古屋展の影響が尾を引いて、ジャンヌ・エピュテルヌの油彩の肖像画四点を興味深く見ることになった。とりわけ、「赤毛の若い娘」と題した一点は、面長の顔立ちに変わりはないが、珍しく眸子がくっきり描かれ、そういえば、本展の婦人像には、他にも瞳がしっかり描かれたもの数点があって、その中の一点は、マリー・ローランサンを描いたものだったりしたが、このエピュテルヌは唇の鮮やかな朱と相俟って、眼差し定かに彼女の意志をこちらに伝えてくる珍しいものだった。

 その意志ある眸子が、名古屋展でのあのエピュテルヌの写真の禍々しさを否定してくれているように見えた。

 そしてこの瞳の表現に引っ掛かった途端、これまで見たモディリアーニの横臥した裸婦像たちが、どれも目を見開いて私を見返していたことに気づいた。そこに、見事投げ出され た女の肉体という存在が、何よりも確かな実存としてモディリアーニに捉えられていたと見えてくる。見えてくるのは、それが、提示された肉体を見る者を見返す、当の肉体の提示者、裸の女の眼差しによっているということだ。

 そうだとすれば、裸婦像における実存にこそ生の真実を感じ取る者にとって、その生を生きることが適わぬ日常の暮らしは、形のある虚無であり、嘆きの生だということになり果てよう。

 横臥する裸婦像と、立っている女性像との間にあるのは、そういう実存と虚無との相関ではなかったのか。そう思い遣ることで、少しはモデイリアーニの生きる悲しみに、今回、遊ぶことができたことになろう......私は、時間の消費をそれによって救うことにした。

 しかし、私は寂しかった。折しも秋や冬でないのが救いだった。

 吹き抜けのひろーいフロントに出ると、何か暖かーいものを口にしたくなってくる。妻はどんな気分なのか......。

(二〇〇八、五、二四)

 

 

 

(注) 今回、二カ所の『モディリアーニ展』で見た油彩の人物像の数は次の通りであった。

          男性像   女性像   棵婦像  夫婦像  合計

名古屋 一四 (39%) 一六(44%) 六   〇    三六

東  京  九 (19%) 三五(73%) 三   一      四八

 

 付記1 0からの便りのお陰で、東京から帰ってから、久しぶりにジェラール・フィリップの主演映画を何本か取り出して見ることになってしまった。

『モンパルナスの灯』(ジャック・ベッケル監督、一九五八年封切)は、昔もそうだったが、それほど の感情の動きも生じず、あの頃、天折の作家として 評判だったレーモン・ラディゲの『肉体の悪魔』の、クロード・オータン・ララによる監督作品の方に、大きな共鳴を覚えた。「肉体の悪魔』に描かれた、第一次世界大戦中のパリとそこに暮らす高校生(ジェラール・フィリップ)の置かれ方が、紛れもなく 敗戦を迎える頃の私自身の時代相と重なって、明日をも知れぬ暮らしの中での、その高校生と新婚の夫を戦争に送っている新妻(ミシュリーヌ・プレール)との恋の世界の、必然的に生じる不安定な悲劇性が、私の胸を突いたのだと思われる。しかも、ミシュリーヌ・プレールの癖のない顔の美しさは、見ている 私の悲しみを決定付ける。この映画が封切られたのは一九五二(昭和二七)年だから、若しその年に見たとすれば、私が大学に入ったばかりの頃のことになる。ミシュリーヌ・プレールの美しさは、同じジェラール・フィリップの主演した映画『花咲ける騎士道』(クリスチャン・ジャック監督、一九五三年 封切り)の相手役ジーナ・ロロブリジーダの性的な 肉体美とは対極をなしていて、見ている自分が痩せて行くような哀しみを抱いたのを思い出す。そして、幸いにも私はこの映画以外の作品に出ているミシュ リーヌ・プレールの記憶がない。

 その『肉体の悪魔』は、一九四七年、第二次世界 大戦が終わって早々に作られている。

 なお、『モンパルナスの灯』も封切られた時に映画館へ見に行ったと記憶しているが、「花咲ける騎士道」や「肉体の悪魔』を見たときの面白い気分を、感傷癖が弱くなっていたからだろうか、その時もあまり味わえないままで済んでしまったことを記憶している。

 付記2 八月三十日、NHKが「生きた、描いた、愛したーモディリアーニと恋人の物語り」という特集番組 を放送したが、その放送で知ったことを蛇足ながら記しておこう。二つのモディリアーニ展で、モディリアーニが、愛妻ジャンヌ・エビュテルヌを描いた油彩画は六点あったのだが、そのジャンヌに、モディリアーニが慈善病院へ運ばれるに当たって、最後 に言った言葉は「永遠の幸せに向かって一心同体なんだ」というものであったそうだ。モディリアーニは、その翌日の一九二〇年一月二四日没し、妊娠八ヶ月だったジャンヌは、一月二六日、アパートの六 階から身を投げて後を追う。そのジャンヌを、作家 スタニスラス・フュメ(一八九六~一九八三)は、「花にたとえれば水仙、宝石ならエメラルド」と語ったそうだ。言うまでもなく、水仙の花言葉は「自己愛」だが、宝石エメラルドは、「不滅」「真の愛」を表す。

 

 

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