川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

「絵画の冒険者」暁斎Kyosaiの風貌

 河鍋暁斎―カワナベキョーサイーという名前に、何か厄介なものを抱え込んだような感じに陥ったにも拘らず、親近感を持つようにもなって、もうどのくらい経つのだろう。

 厄介なと言うのは、彼の絵が、浮世絵でもあり、江戸時代を代表する狩野派流の正統派日本画でもあり、つまりは町人的でも貴顕・武家的でもあって落ち着かず、それも、その描く世界の殆どが、人事に徹して花鳥風月から遠く、しかも、徹する人事は幽明の境も喜怒哀楽の別も越えて、揚げ句、止まることない喧噪のドラマを音高に奏で放って落ち着かず、たとえその騒々しさを、幕末から明治への激動急変の時代を背負って生きた画家の紛れもない証しだと分別したにしても、私の内部は、まるで大きな泡立て器で引っ掻き回されたように、蹌踉と浮足立ってしまうからだと言えば分かってもらえるか。

 何しろ、暁斎はその始め狂斎と言っていたという。それを知ったのは、もうかなり以前に出た岩波文庫の『河鍋暁斎戯画集』によってであり、私の彼についての持ち合わせの知識は、殆どそれに基づいているに過ぎない。そこには、暁斎の顔写真が載っているのだが、その、思いっきり歯並びの悪い出っ歯を剥き出しにした大口の容貌は、怪異(注1)と言うに遜色なく、実に名が体を表す見事な標本となっている。しかもその彼が、文庫本の表題に見るごとく、世事時局に対する批判的風刺を旨とする「戯画」の画家として位置付けられているということになれば、私の厄介感覚は、間違いなくガ チャガチャと音を立て増さざるを得なくなろうというものだ。

 現に、旧から新へ、変貌の道をひた走る明治の三年、狂斎は大政誹謗の廉で逮捕され、苔五十の刑を受けていることが、その本の年譜から見え、号を暁斎に改めたのは、放免された直後のことらしいのだが、では、一体何を暁ったのかと問うて見れば、その後も巫山戯振りの衰えの一向伺えぬところからすれば、改名それ自身が世渡りのための韜晦なのだと察せられ、暁斎の中々な強かさも見えたりして、それはまた、芸術的美という視点だけで、暁斎の作品を見て取ることの不毛性を語りかけてもいることになる。矢張り厄介な画家なのだ。しかし、そんな暁斎の作品をこれまで一度も私は纏まって観たことがなかった。だから、上京の際に、埼玉県の蕨市にある河鍋暁斎記念美術館を訪ねようかと思案したことも、何度かあったのだが、叶わぬまま今日まできてしまっていた。

 その暁斎の没後百二十年を記念する特別展が、『絵画の冒険者/暁斎Kyosai/近代へ架ける橋』と題して、暁斎にとっては無縁だったはずの西の京都で、しかも国立の博物館で催されるというのだから、これは私にとってはもう青天の霹靂、暁斎が展覧会の開催にまで狂斎ぶりを発揮するかと疑わせる異常現象で、眼はぱちくり口あんぐりになったのである。

 折角眼が丸く見開かれたのだからと、私は、四月十九日の土曜日、京都に出掛けた。そして、丸くなった眼のまま、その眼を刺激するあまりの喧噪ぶりに足許が覚束無くなり、ほとんど転倒しかねまじい事態に陥ってしまったのである。

 会場はまず「『狂斎』の時代」と題した初期作品のコーナーから始まる。そこで二巻の「放屁合戦絵巻」と「九相図」の九相全図の下絵とその本画の一部とに出会い、早々度肝を抜かれることになった。無論このコーナーには狩野派の伝統的な「毘沙門天」や「寒山拾得」「牽牛織女」の定番のモチーフを描いた仕上がり見事な軸物もあるのだが、この二種の作品から、暁斎の凄みをいきなり突き付けられた気がしたのである。

 尻を剥き出しにした男たちが、相手方に向かって屁を大きく放ちあって吹き飛ばし飛ばされし合う、その絵巻画面一帯に広がり行く多様な下半身丸出しの姿態の氾濫は、滑稽の押し売りはいうまでもないことながら、『北斎漫画』の多様な人体像を越えるダイナミックな活力を示していて、狩野派的情趣を無視した主題の下品さと相俟って、一驚脱帽せざるを 得なくなる。

 そういえば、まだ二・三年前のことだが、もう一冊岩波文庫に、ジョサイア・コンドル(注2)の著した『河鍋暁斎』という本が出て、その中で、コンドルは、

 暁斎画の中に描かれた人物を一覧すれば分かることだが一つとして手に表現力をもたぬものはない。.......多くは何らかのドラマチックな表情をもち感情の爆発を伝えて激しく動く手である。あらゆる場合、手はその人物の感情や 行為と連動し、決して無意味な手が描かれることはない。

と言っていたが、「放屁合戦絵巻」のこの氾濫する姿態の動きに出会うと、そのドラマチックな手の表情のことが忽ち思い出されたものである。そしてこういう人体の激しい動きの表現を見ると、それがどんなに戯画的であったとしても、前回語った河野通勢とは、その身体表現の技量において雲泥の差があることを、認めないわけにはいかなくなる。

 また「九相図」の九相とは、人間の死骸が骨と化し土に帰るまでの九つの段階を言うのだが、それは、江戸幕府が崩壊し何がどうなるのやら、何も定かに見えぬ混沌の時代を生きる者の、頼りない心細さ儚さを表徴しているかに見え、そこに描かれたのは、時代感覚が暁斎に育んだ哲学のように見えたのだ。

 その哲学を証すかのごとく、会場は「冥界・異界、鬼神・幽霊」のコーナーに入る。

 そして、そこに並べられた閻魔や百鬼百怪・風神雷神のユーモラスな作品の中で、何点もの幽霊図と処刑場跡を描いた絵羽織一点は、まさに西南戦争に至るまでの時代の溟濛と残忍を表出して余すところがないかに見え、再び暁斎の凄みに驚かされる。

 例えば「幽霊図」の一点は、二日月の下、髪も抜け落ちた幽霊が、死者の首をその乱れた髪を咥えて立ち、葦間に目を剥いて浮き上がっており、今一点は切り落とされて血塗れた首を右手に下げ、自らは己が髪を左手に鷲掴みにして狂気の叫びを上げて闇に浮き上がっているといった代物であり、黒い羽織の裏の白地に描かれた処刑場の方では、左に、松の枝から首を折るようにして吊された男と、その足許に横たわる死屍の肉を啄む四羽の鳥が描かれ、右には、十字架に裸にされた女が血まみれになって張り付けられており、その後ろを血糊に汚れた口に生首を咥えて通りかかる野犬が描かれている。こういう血まみれな残酷絵は、暁斎と同じ時期に活躍した浮世絵師月岡芳年の得意とするところだったが、その芳年にしても、着衣の羽織の裏絵にまでこうした絵を描いたかどうか。ましてや、こんな血みどろの残酷絵を背に着込む者がいたろうかを考えると、この場合の暁斎の表現が、尋常な神経では成り立ち得ないものに思われてくる。そして、既に残酷絵そのものが、芸術的な評価の対象から外されてきたように思われ、それあって、芳年も暁斎もこれまで美術史上の画家として殆ど無視される羽目になってきたのではないかと 思われる。

 幽霊の絵には、その下絵が一緒に並べられているものがあったが、この「冥界」の頃の次は、「本画と下絵」と題した特集が組まれることになる。

 先ず三点の「山姥図」「郭子儀図」「文読む美人」の、伝統的な日本画としての見事な仕上がり振りと、その下絵の完成度の高さを見ていると、暁斎が美術史上冷遇されてきたことの不条理を訴えないではいられなくなる。

 そして、この下絵の凄さは、次の「少女たつへの鎮魂歌」と題した項で、日本橋の大店から、十四歳で亡くなった愛娘たつの追善供養にと頼まれて描いたという、「地獄極楽めぐり図」の下絵群へと、私を圧倒する。中でも、「地獄極楽めぐり」の事物群像の下絵は、人物一人一人の下絵が他の人物との関係において、幾つもの部分が修正され描き直され、本絵に至るまでの下絵が、何段階にもなって出来ていることをこちらに伝える。さらに眼を凝らせば、これぞコンドルの、

 暁斎はまず木炭による「下地描き」としてその人物のヌードを線描で描き、正確な身体の比率や姿勢を把握しようとする方法をとった。(中略)次いで彼は、このヌードの輪郭の上に衣装を墨線で描いて身体を覆う。頭、手、時には足の先など、衣装に覆われない部分は細筆を用い薄墨で描く。

という言葉を裏付ける、念の入れようで、これを見ていると、河野通勢はこの程度にまで下描きに力を入れたことがあったろうかと、また思ってしまう。いずれにしろ、この木炭や墨を用いて重ね描きしたこの下描き絵は、すっきり仕上げられた本絵と並べ見るとき、感激一入となる。中でも「極楽行きの汽車」と題した作品の下絵と本絵ーーその右下に「明治壬申秋七月暁斎畫」とあるところからすれば、明治五年七月に完成したことになるが、汽車が新橋・横浜間を初めて走ったのは同年五月のことであるーーを見ると、そこに描かれた汽車の、実物の機関車とはその優雅さにおいてかなり異なるスタイルで想像され創造されていることに、敏感に時代を反映させた不思議な美的センスを感じてしまうのだ。

 こうして半ばが過ぎたかと思うところで、広やかな場に解放されたように出ると、そこには巨大な作品三点が三つの壁面を埋めていた。

 一つは縦二メートル横三メートル有余の「地獄極楽図」であり、一つは縦三メートル半、横二メートルの「龍頭観音像」であり、そして3点目は縦四メートル横一七・八メートルはあろう、妖怪を横一面に描いた新富座の引幕である。こういう大きなものを描くところは、狩野派の画家達が試みてきた障壁画の伝統が生きていると言えようが、私にとっては、絵師としての北斎の姿勢により近いように思われる。ただし作品としては三点共大きいだけが取り柄で、私を引き付けはしなかった。

 反転して次の題目は「森羅万象」。つまりは暁斎の鳥獣・山水画が並ぶことになる。こうした作品では、その水墨の筆捌きに、改めて暁斎の技量の高さを知らされることになるが、私にとってはそういう軸物より、恐らくは弟子のための手本の働きをしたであろう「動物図巻」「中国神仙図巻」「暁斎絵手本画巻」「英国人画帖下絵」といった巻物の、一つ一つの 画材が小ぶりに仕上げられた作品群を、それこそ前とは反転した可愛さで見ることができた。そしてこの可愛さが、続く「笑いの絵画」の項では、「鳥獣戯画」シリーズの、鼠の一群が鈴と烏帽子をつけた猫を引き回している祭りを描いたものや、蛙の群れが蛇や蜥蜴を操って踊り祭る景を描いたもの等、小品だからこそ微笑ましさが醸されもする作品が並ぶ。

 そしてこの後、明治という新時代に色を添えるように生真面目な絵画の一群が「物語り、年中行事」の項に纏められる。そこにある作品は、私などが幼少年期、講談社の絵本などで何度も見させられた題材のものばかりだった。猿蟹合戦や桃太郎、天孫降臨や海幸山幸の話が描かれているのだ。これは懐かしい以外の何ものでもない。暁斎にもこういう社会に迎合的な一面もあったということだが、それは、そんなふうに思わせるほど、それまでの暁斎が、その作品の奇矯性において徹底していたことを裏付けることになっていると言ってよかろう。

 こうして最後は、「暁斎の真骨頂」の項で締め括られていたが、このコーナーでは「地獄太夫と一休」と一対双幅の「閻魔・奪衣姿図」、それに「北海道人樹下午睡図」の作品にまさに真骨頂を見ることができた。

 「地獄太夫と一休」は、秋草の野に月の描かれた屏風を背に、遊女地獄太夫がすらりと背を反らした美形で立ち、その足元から屏風脇へは骸骨の群れが白く舞い遊んでいて、それを取り締まるかのようにその後ろに、一体の大骸骨が三味線ーーなぜかその胴の皮は張られていないーーを構えて腰を据えており、何と、その髑髏を踏んで法衣を靡かせ髭面の一休和尚が踊っているという図柄である。一方「閻魔図」では、遊女の如き髪飾りの美女が、これまたすらりと背を伸ばして、腹ばう閻魔を踏み台にして、文を高枝に結ぼうとしており、相幅の「奪衣婆」といえば、三途の川で死者の着物を剝ぎ盗む鬼女だが、その奪衣婆がその図では、盗んだ衣を枝に掛け下げた樹下で、長袖の衣に袴姿のイケメン若衆に、座して顔を歪め、毛抜きで白髪を抜かれていて、つまりは、禅師も鬼神も、こと「色」の前では、無邪気にも邪気そのものと成り果てる、その面白さを、伝統的な日本画の格式をもって描き上げるというイロニーに結晶させていることになる。 更に、「樹下午睡図」では、「北海道人」を釈迦の立場に置き、釈迦の涅槃図を模して「午睡図」として仕上げた大幅の軸だが、作品の所蔵が「松浦武四郎記念館」とあるからには、釈迦に見立てられて午睡する「北海道人」とは、幕末の蝦夷探検家松浦武四郎に外ならず、「北海道」の名付け親でありながら、明治新政府からは、殆ど無視されて終わったその人物に対する、暁斎の政治的文化的な批判と同情の眼差しが伺え、出っ歯奇顔の骨頂を見ざるをえなくなった。

 ところで、こうして一五〇点にも及ぶ多数の絵を見てきたのだが、さて、暁斎は一体どんな橋を近代へ架けたことになるのか、こんな画家は他にいないとまで思うだけに、私には、面白かったでは片付かない澱みが残ることになった。やれやれ、おいしいコーヒーがたまらなく飲みたくなる。

 注1 岩波文庫の同集巻末には、フランス人エミール・ギメと来日した画家フェリックス・レギメがスケッチした暁斎の肖像画も掲載されているが、それを見れば鼻も筋の通らぬ団子鼻の醜男であることがよく分かる。猶、ギメの蒐集した東洋美術は、パリの国立東洋美術館(ギメ美 術館)に収められ、そこでは優れた仏像を初めとする多様な日本美術に出会うことができる。

 注2 ジョサイア・コンドルは、明治政府お雇いの建築工学教育家として明治十年に来日したイギリス人で、今はなき鹿鳴館や、現存する神田のニコライ堂(重要文化財)や旧岩崎邸(重要文化財)、旧古河邸(国指定名勝)な どの設計者である。明治十四年、暁斎に入門し、暁英の号を貰っている。日本人女性と結婚し、日本でその生涯 を終えた親日家である。

(二〇〇八、四、二〇)

 

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