川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

何の虜因となったのか、お前、河野通勢よ

 私が河野通勢というその名を、コーノツウセイと呼んで、岸田劉生(キシダリュウセイ)の名と並べてしかと記憶したのは、もう二十年も前、京都の国立近代美術館で『大正期の細密描写』と題する展覧会を見てからのことだ。その図録に挟まれていた入館券に探された日付印を見ると、「62、1、7」の数字が認められる。

 その展覧会では、大正期の写実的な細密描写の傾向を、日本画では「速水御舟とその周辺」と「京都の日本画」(注)の二つの側面から、洋画では「岸田劉生とその周辺」の題目の下に纏めてあった。河野通勢の出展作品は、その洋画部門で、劉生、椿貞雄に次いで多く、椿貞雄の絵が余りにも劉生似であるのと比べるとき、河野は、「三人の乞食」とか「河柳の樹の下で」の風景の捉え方に、独自の不思議な粘着的個性が感取され、以後、私の中にその名は忘れられないものになってしまっていたのである。

 ところが、今年の二月に入って、例によってNHKの「日曜美術館」を見ていて、その名に突如出会したのである。その驚きと懐かしさは、忘却の彼方に追いやられていた昔日の友に、偶然出会ったのにも等しい。そしてそのとき、その名が、ツウセイではなくミチセイであることを初めて知った。私は、テレビの画面を通じて、十九歳の通勢が、故郷長野の裾花川の堤に群生する河柳の巨木の姿を、鉛筆やコンテで飽く事なく細密に、それも何点も何点も描写し続けた、四十点にも及ぶというそのスケッチーーそれは新しく見出され、始めて公表される作品群であるとのことだったーーの迫力と青年通勢の樹を描くことへの執念を痛感させられた。そこにある、偏執と言ってよい彼の描写への拘りというものは、岸田、劉生の作品から感じられるレヴェルを遥かに越えるもので、私は、息を呑んでテレビ画面に見入ってしまう羽目に陥ったのである。

 挙げ句、私が、その展覧会が催されている平塚市美術館を訪れることにしたのは、当然の帰結で、選ばれたその日は三月五日ということになった。

 尤も、折角の東上だからと、上野へ出て「古代からルネサンス、美の女神の系譜」とことわった『ウルビーノのヴィーナス』展と「フランス宮廷の美」と銘打った『ルーヴル美術館展』を併せて見ることにしたのは、未だ衰えを知らぬ、例の欲張り貧乏根性のなすところで、このおまけを笑えないこと言うまでもない。

 西洋美術館の、人間が表現してきたヴィーナスの美の歴史的系譜を辿ろうとする企画は、なかなかに魅力的なものであり、そのためにイタリアの各美術館から六十数点の作品を集めて寄越したというのも、相当なことと感心はするものの、さて、実際観てみると、観る贅沢に慣れているというのか、贅沢なものを観るのに慣れているというのか、いつの間にか奢ってしまっている目には、何とも物足らなかった。ティッィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」を除けば、見惚れる作品が皆無に近かったというのが、私の偽らぬ感じだった。

 第一、ティツィアーノ以外に著名な名は、パオロ・ヴェロネーゼ、ルーカス・クラナッハ、ジャンボローニア位のもので、作者の名によって作品の価値を決める横着の不当は認めるにしても、知られていない作家の作品に、期待を抱きにくくなるのも事実なのだ。

そうした中で、展示の最後の方で、見下ろす位置に置かれた小ぶりな彫像に出会った時は、一寸した救いになった。それは、凡そ六・七十センチの大理石に浮き彫りにされた、おちんこ丸出しで眠っているヴィーナスの子、愛らしいエロス(=キューピッド)の像だったのである。二人を結び付ける愛の弓矢を枕元に置いて眠る幼子の邪気無い顔に、ヴィーナスの美を窺って幕を引くことにするかと、私は会場を出た。

 このヴィーナスの系譜を辿る展覧会に比べれば、これぞ御時世というもの、都立美術館の、『ルーヴル美術館展』は、人の入り具合がまるで違っていた。フランスの宮廷で使用されていた、絢爛豪華という言葉そのままの、さまざまな身の回りの調度・道具類の展示ケースに、群がり集る御婦人方と彼女たちの極めて率直な、羨望のため息や嬌声に、身を小さくしながら、彼女らの肩越しに見て行くと、いささか場違いな所へ紛れ込んだ思いが次第に増して、身のやり場につすることとなる。

 ルイ十五世と王妃マリー・レクジンスカや、その寵姫ポンパドゥール侯爵夫人にデュ・バリー夫人、その娘でマダム・アンファントと呼ばれたルイーズ・エリザベト、更にルイ十六世の王妃マリー・アントワネットや、その娘マリー・テレーズ、こういった名前を聞いた日本の御婦人方なら、ヴェルサイユ宮殿における、夢のような、物みな溢れんばかりの豊かさで、眩いばかりに輝いたベルバラ的世界をイメージせずには居られまい。女性ならばその輝きの中に身を置く憧れを持って当然、持たなければ余程の臍曲がりというものだろう。

 その殆どに見られる金銀での細工と極彩色のエマイユ(七宝焼)の目覚ましい、彼らが使っていた、燭台や置き時計、嗅ぎ煙草入れにボンボン入れ、懐中時計にペンダントといったものを、小ぶりの展示ケースの中に次々と見ていって御覧じろ、吐息と嬌声との夢の小宇宙がそこに醸成されたとしても、最早それを拒むことなどとてもできない。

 それをしもミーともハーとも言うならば、彼女達のこの健康なミーハーぶりに、私は乾杯!と言いたいものだ。

 

 二つの展覧会を見終われば、やがて一時になろうとしていた。

 こんな時、都立美術館の二階のレストランはいつも階段下まで列をなす盛況で入る気になれず、結局いつもの文化会館二階の精養軒に行って食事をとることになる。

 カレーライスにコーヒーを喫して、さて、次は本日のメインイヴェント、『河野通勢展』の鑑賞である。

 東京駅から快速で急げば、平塚駅には二時半に着く。駅前から美術館まではタクシーに乗る。

 一階の受付でチケットを求めれば、何と二百円というのだから、これにぞ一驚。そのチケットに目を落とすと、上部に横書きで、まず「我に描けぬもの無し」の一行があり、その下に三行にわたって「大正期の鬼才/河野通勢展/新発見作品を中心にーー」と記されている。

 「描けぬもの無し」とは、よくぞ言ったものと、これにまた一驚。テレビで見た二十前のあの河柳の表現力からすれば、それだけの自負を持ったとしても不思議はないとも言えるが、その言葉には、異常の域にまで達している通勢の強烈な自負が私には感じられ、殆ど滑稽味を帯びて聞こえてしまう。

 さて明るい会場は、初期の裾花川の河柳の林を扱った五・六〇センチから一メートルを越すほどまでの油彩の風景画から始まるのだが、何といってもテレビで紹介されていた、土手の河柳を、四・五〇センチはあろう画用紙に、ペンや鉛筆で、細密なタッチで飽きることなく描いた、六十枚に及ぶデッサン群には、質量共に不思議な面白さを味わうことができた。その樹下に宿るように時々小さな人間が描かれていたりするのを見ると、そこにあるのは、河に向かって土手を埋め風を受けて立つ大樹たちの、大きな自然の動き、その力というものに対する、それに魅せられた一人の青年の、夢中の没入ぶりだった。

 同じ本画のための基礎勉強であったとしても、美術を志す学生たちが教室で課される、人体彫刻や人体モデルを対象に行うデッサンとは、その、人為と自然との差において、通勢は、正規の美術教育を受ける都会の画学生と決定的に違っていたのだ。

 この河柳のデッサン群は、大正三年から五年、通勢十九歳から二十一歳にかけての、つまり通跡の、画学生と言ってよい時期のものだが、それに続いて、会場には、大正五年から七年頃にかけての時期に描かれた肖像画と多数の自画像のデッサン群とが、展示されている。そしてここでもそれらは、通勢にとって、自分の顔が、人体というものの、身近に与えられた最も自然な学習教材として機能していたことを物語っていそうである。

 自画像が多いという点では、極めて劉生と似ていて、もし自己表現に捉えられている個性の虜囚と化すれば、自分の面相に画題を発見するのは当然の帰結と言っていいだろう。河柳の巨木の表現に拘り続ける自己というものの、厄介な存在に通勢は充分気づいていたはずで、それが二十点近い自画像にまで結晶したように私には受け止められる。そういう点では、通勢は、劉生に通底しているところがあったと見てよいだろう。

 しかも、通勢のこの河柳と自分の面相とは、どうやら美術学校などで教育を受けることのなかった画学生にとっての、最も金のかからぬ身近な教材だったことを物語っており、それを基礎学習として画家になった通勢の絵というものが、伝統的常識的な正統性から外れたものになるだろうことは、目に見えて予想されることだ。中央から遠い地方にあって、専門教育も受け得ぬ者のコンプレックスは、自負を持てば持っただけ、持った自負を誇大化してそれに寄りかかるであろうことも、また見えたことだ。

 ところが、そこに、聖書を題材に取った作品が登場してくると、これにもまた吃驚である。通勢の家がハリストス正教の信者で、彼自身洗礼を受けてまでいた事態など知る由もなく、この自分の無知が、報酬として通勢に対する驚きの有り難さを送ってくれたことになるのだから、知らぬ幸せに合掌しなければならないのだが、それにしても、私の知るハリストス正教ではイコン画によって祈りを捧げるはずなのに、通勢の残した絵にイコン画は一点もない。それならばヨーロッパの宗教画に倣うものかと言えば、そのペン書きの小さな作品はともかく、油彩の作品は、どれも暗い背景を背負って描かれ、キリストやマリアを初めとする登場人物たちは、何人とも定めがたい、どこか日本人のような面差しさえ持って描かれていて、時代遅れの批さたっぷりの、異国の田舎の絵に接したような感じを齎すのものばかりなのだ。なまじ、通勢より十年も前に生まれている、藤田嗣治の描き残したキリスト教絵画を見知っているだけに、その洗練されたところのまるでない野暮ったいポーズをした、泥臭い人体像を得々と描いている彼の筆が暗くしく思われる。と同時に、前の河柳のデッサン共々、否応無くこの時代的近代性から遠い、野暮ったい泥臭さこそが、地方にあって専門の手立ても学ばなかった、通勢の通めたる特性だったのだと納得させられもする。

 その挙げ句、上京してからの通勢の画家としての作品に、コンプレックス一杯の自負溢れる面白さを感じることは、うできなかった。東京の風俗画や芝居絵、静物画や女性像など、都会的になどなれはしないのに、無理矢理都会化・モダン化を試みているようで、どれもが通勢本来の泥臭い精彩を放つ油彩の息吹を欠いていて、展覧会の始めの勢いはどこへやらといった寂しさになってしまっていた。

 そして、最後に展示されていた、細かな筆致で描いた挿絵や沢山の本の装丁画が、画家として世間にその存在を認められる彼の仕事だったことを示しているようで、彼のプライドが、そういう形で満たされ締め括られていたかと、なまじ、それらの作品が結構いいだけに、寂しさに一層花を添えることになった。

 静かな館内に、夕方の気配が生まれ始めていて、今日一日の行事が終わったのだという心の陰りが私に忍び寄ってくる。

 

(注)

この「京都の日本画」の項に就いては、前年、同じ京都国立近代美術館の新館開館記念展として、「大正のこころ・革新と創造」のサブタイトルを持った『京都の日本画』展が開かれていた。そこでは、前に記しもした楽テルヲの作品もあったのだが、何よりも、女性像、それも祇園の舞子姿に、官能的な妖しさを色彩表現に託しもた画家達が登場してきていることに驚かされた。それは「日本画」という絵画を、お上品な高雅清潔の概念で縛り付ける目を待たされてしまっている自分に対する驚きで、それらの絵は、私の狭い認識に対する警鐘としての新鮮な魅力を持っていた。そして、その時、そういう画家達を代表する存在として甲斐庄楠音(かいのしようのただおと)の名が記憶させられることになった。その楠音の作品は、やはりこの『大正期の細密描写』展においても、当然出展されていた。そういう点では、大正期の写実を考えるとき、どちらも美術上マイナーな地位より与えられていないとしても、通勢と楠音の二人は、私にとって、同時期に記憶された、洋画と日本画の特異な画家だったのである。

 なお、甲斐庄楠音の展覧会は、既に十年前の平成九年、やはり京都国立近代美術館で催され、無論私は駆けつけて、百点を越す彼の作品を楽しんでいる。

(二〇〇八、三、一〇)

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