川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

和洋の間で北斎が語る

 二月二十三日の土曜日、私は朝十時に家を出て、名古屋市美術館に『北斎』展を見に行った。

 面白い『北斎』展だった。面白さは、私の北斎認識が塗り替えられねばならなかったことによる。 

 昔、新藤兼人の撮った『北斎漫画』という映画があった。

新藤兼人は、その最初の監督作品『愛妻物語』に、まだ二十前の私が、感傷の涙を思いきり流してからというもの、私の共感できる好きな映画監督の一人になってしまって、『北斎漫画』が封切られた時ーー一九八一年のことで、もう三十年近くも昔になってしまったがーーも、絵好きの自分からすれば、当然期待を抱いて映画館へ出掛けたものだ。

 映画では、破天荒な生涯を突っ走る北斎を緒方拳が、それとは対照的な生きざまの曲亭馬琴を西田敏行が、動と静、それぞれの老醜を晒し果てるまで、正に漫画的に演じて面白く、更には、娘応為の田中裕子、モデル女の樋口可南子の両女優が、一糸纏わぬその裸身を見事画面に晒すという大サービスまであって、その笑いとエロスの人間喜劇は、その時、私の期待に十分応えてくれたものだ。

 そこに表現された北斎の、奇癖と言ってよい独善的で滑稽ですらある、絵画創造への取り組みぶりは、私には首肯しやすく、私は、その無頓着で豪放、非日常的日常を良しとする北斎の生きざまと、それに発する作品の個性に、結構得心が行ったのだったが、その後、小布施の北斎館で観た『肉筆葛飾北斎』(八六年)や大丸心斎橋店で観た『北斎』(九四年)等の展覧会では、北斎の作品を、映画で納得した北斎認識にしたがって、おそらく鑑賞していたのである。またそれで、北斎を面白く鑑賞できたと思ってもきたのである。

 ところが、今度の『北斎』展は、その認識の範疇を全く越えていて、北斎という画家を括ってきた己が認識の狭隘さに、今更ながら私は瞠目させられることになったのだ。

 芸術を個性の表現として、作品を人間の個人的営為の成果としてのみ捕捉し評価するというのが、芸術作品というものに対する、近代的な応接術になっていて、新藤兼人の北斎もそういう観点から表現されていたと言ってよかろうが、その観点の虚を突かれたというのが、今度の展覧会の収穫だったと言えばよかろうか。

 今度の展覧会では、海外から、ライデンのオランダ国立民族学博物館と、パリのフランス国立図書館、それにロンドンの大英博物館から、それぞれ所蔵の北斎作品が里帰りして展示されているところに特徴があった。こういう日本から渡来して行った浮世絵作品の里帰り展覧会は、これまでも結構あって、私の記憶に上るものだけでも、

 チューリッヒのリートベルグ美術館所蔵の『浮世絵名品展』(一九九三年、奈良県立美術館)

大英博物館所蔵の『肉筆浮世絵名品展』(一九九六年、名古屋市博物館)

ボストン美術館所蔵の「肉筆浮世絵展・江戸の誘惑』(二〇〇六年、名古屋ボストン美術館)

ヴィクトリア&アルバート美術館所蔵の『初公開・浮世絵名品展』(二〇〇七年、松坂屋美術館)

と数え直すことができるのだが、ライデンとパリとからの里帰りは、どうやら初めてのようで、今回私はそれに初御目見得できる光栄を得たわけである。

 従って、大袈裟に言えば感謝の念を持って見ることになったのだが、観てさて、その感謝の念が、文字通りの実念に変わってしまったとなれば、これはもう、有り難過ぎて涙零るる目出度さというものだ。つまり展覧会は、それほど新鮮な驚きに目を見張る衝撃を私に齋したのである。

 そして衝撃は、その内容上、大きく分けて二つになった。

 一つは、里帰り作品の浮世絵肉筆画に示された、西洋風な陰影表現の彩色法である。浮世絵が、洋風に衣替えした姿で並んでいたのである。

 もっとも、西洋風の陰影表現それ自体は、私の見知る限りでも、北斎より前に、平賀源内の描いた西洋婦人の肖像画に、それを認めることができたし、源内の影響下に画業を成した秋田蘭画派の小田野直武の人物画や司馬江漢の描いたものにも洋風の陰影法が模倣されていたはずで(注)、何も北斎が駆なのではない。

 しかし、今度里帰りしたライデンのオランダ国立民族学博物館の肉筆画の一群は、オランダ商館長の江戸参府の折りに依頼を受け作成されたものらしく、ということは、作品が、依頼主の異国オランダに持ち帰られることを意識して作られ、陰影法は異国人の眼に適うべく意図されての表現だったことになる。源内や江漢の仕事が、異国の表現法に表徴される異国文化の、日本への紹介に意味があったとするならば、北斎のこの仕事は、日本独自の文化を、異国人のために異国の表現手法を用いて紹介したところに、意味があったことになる。

 つまり、悪しざまに言えば、買い手の利便のためには、手前の手法を変えて構わぬとする商人根性に徹した作成だったということになり、そこに、制作者側の卑屈な心情を穿ち見ることだってできる。

 「卑屈な」と言ってしまったが、それは、この洋風陰影法によって描かれた肉筆浮世絵が、所謂浮世絵の、西欧的陰影法を欠くがゆえにこそ獲得された、最も日本的な着色木版画の独自性を裏切ってしまっていることに気付いたからである。それに気付いたのは、中の何点かの作品が、それを基にして描かれた、シーボルトの編んだ『Nippon』のリトグラフの挿絵と並べられていたことによる。その両者を比較して見ると、北斎の作品がシーボルトのそれに比べ、足許の陰影を全く欠き、そのために人体が地に浮いてしまった奇妙な出来に仕上がっていることに、否応無く気付かされてしまったからなのである。

 ところで、先ほど「制作者側」と私は書いたのだが、そう書いたのは、このオランダの里帰り作品には、一点毎にその作者を「北斎工房」とし、その後に、「(推定)」として、「北斎」「北斎と娘応為」「魚屋北渓」等と記入されていて、作品が北斎個人の作品と限定されていないことを知らされたことによる。つまり、「工房」であるからには、浮世絵、特にその版画作成については、何よりもそれが作品製作技術集団の活動を通じて行われ、決して北斎個人の製作とは言い切れなたい現実を踏まえているはずであり、北斎は浮世絵製作技術集。団を代表する、謂わばデザイナーの名前なのである。それは、北斎という個性が、浮世絵という製品を大量に販売するための、デザインが他のデザインとは異なる独自性を明瞭にするための記号として機能しているということなのである。北斎という名は、有名デザインを織り成す有名ブランドとしての名前なのである。

 本展では、それを、木版画によってではなく、里帰りの一点ものの肉筆画を通じて知らされたことになり、それが何とも面白かったのである。

 さらに、オランダの博物館の作品に続いて、フランス国立図書館からの作品が展示されていたのだが、その肉筆彩色の浮世絵には、大英博物館から来ている、同じ図柄・同じサイズの筆による下絵が併置されていた。下絵の方は、前に記した『肉筆浮世絵名品展』で既見のものだったが、それにしても本絵がフランスに、下絵がイギリスに、別れて渡ったのどういう経緯があったのだろう。しかもこの下絵は、均一の筆墨の線に修正の跡などなく、線描の筆墨による浮世絵として完結していると言っていい作品なのである。本絵と下絵というよりは、同じ図柄の彩色画と筆墨画と言った方が良いように思われる。フランス向けの色付きと、イギリス向けの線描と、何点も描き分けるなどは、これまた個人の業というより工房グループのなせる業だと考えた方が納得しやすい。

 よくこその里帰りと、眼をぱちくりの感態が続く。

 そして、衝撃の今一つは、版画というものが、その色彩表現において、相対的絶対性とでも言うべき特徴を持っていることを痛感させられたことである。

 展覧会は会場の中程から、北斎の各種浮世絵版画が展示されていたのだが、その中で、「富嶽三十六景」「諸国瀧廻り」「諸国名橋奇覧」の三つのシリーズ物については、そのうちの何点かが、同一画で、それぞれ所蔵の異なる二点を併列展示していて、ーー因みに「富岳三十六景」については、山口県立萩美術館所蔵のものと東京都江戸東京博物館所蔵の同一画が、「瀧廻り」と「名橋奇覧」については、原安三郎コレクションと萩美術館の同一画が、それぞれ併展されていたーー同じ図柄なのにかなり色合いの相違がみられ、その相違が、絵の印象をかなり変えてしまっていることに気付かされたのには、である。

 しかもその色合いの相違は、保存状態からくる版画の褪色の差の問題では決してないことを伝えてくれていた。つまり、同じ版木を使いながらも、その着ぶりに違いがあることが素人目にも明らかなのだ。それがために、二つの同じ版画であっても、時間や天候の具合に差が生まれ、違った印象を抱かざるをえなくなっているのである。酷いのになると、「名橋奇覧」の「すほうの国きんたいはし」などでは、秋美術館のでは斜めに雨が降っているのに、原コレクションのではその雨は降っていない。第一橋脚の石の刷りがまるで異なっているし、雨の降る空が紺色に刷られているのに、雨のない方の空ははほとんど黒に近い濃紺であり、河面の刷りも雨の方は濃淡のない薄い青一色で、雨のない方は岸辺の青と沖合の無地と明らかに塗り分けた違いを見せている。

 我々は、「富嶽三十六景」の「凱風快晴」などによって、北斎の版画作品を一色に、つまり恰も一点物のごとく理解し、そうすることで、北斎なら北斎という画家の個性を認めてきたようだが、そういう評価法の誤りに、どうやらまた逢着したようなのである。

 版画が単に量産の手立てとしてあるだけでなく、そこにはヴァリエーションの変奏という、ここでも、工房という一つの創造集団の、客に対して売り続けるための工夫、つまり一つ絵の再生の遊びが、どうやら存在していたことを痛感させらたのである。

 これまた、私には面白い収穫になった。

 そのあと、一点ものの肉筆画の軸や屏風が展示されており、それはそれで充分見甲斐の有るものだったが、その日の私は、もうそれを有り難がる眼の働きを失ってしまっていた。そして、今回の『北斎』展の最後を締め括って飾られていたのは、オランダから里帰りした十五編からなる『北斎漫画』の版本ーーそれはかつて、日本とオランダとの好三八〇年記念として催された『シーボルトと日本』展にライデンから来たことがあり、名古屋市の博物館で見ているものーーだったのである。私は、思わず「やられた!」と心中呟き、一人二ヤリと笑みを浮かべたことだった。

 

(注)平賀源内の西洋婦人の肖像画については、『栄光のオランダ絵画と日本』展(一九九三年、神戸市立博物館)で、小田野直武の人物画については、『十八世紀の日本美術』展(一九九〇年、京都国立博物館)で、司馬江漢の作品については、『司馬江漢百科事展』(一九九六年、神戸市立博物館)で、それぞれ観てきている。

 

(二〇〇八、二、二九)

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