川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

画家靉光(あいみつ)の暗鬱の魅力

 私として、そんなことがあってはならない筈なのに、迂闊にも書き忘れていた展覧会のことがある。靉光のそれのことだ。

 今年二〇〇八年、年頭の書き初めは、その迂闊から書き始めねばならない。

 それは、去年の四月の半ばも過ぎた土曜日のことだったから、もう半年以上経ってしまったわけだが、私は「生誕一〇〇年」と銘打った「靉光展』を見るべく、上京して竹橋の国立近代美術館までわざわざ出掛けていたのだ。

 日本美術の体系的な全集などを見れば、現代美術の中の日本のシュールリアリズムの代表作として、大抵「眼のある風景」という一点が紹介されているのだが、それは、何の具象性もない赤い巨大な岩場のようなところに、これまた巨大な目一つを横長に描いた大画で、恰も、説き明かし得ない情念というものの粉れのない表現のような、その印象の強烈さと、その作者靉光の、本名とはとても思われない名前の虚構性とによって、決してスケールのある偉大な画家などと敬服していたわけではないが、私は、この作家の作品に親しく接する機会の訪れることを、ずっと待ち望んでいたのだった。

 その靉光の展覧会が催されることを私は知ったのである。当然、私は、私の心の暗部に巣くう「靉光」の呼び声に勝てない。そして、勝てないのには勝てないだけの下敷きがありもした。それは、三年前の秋、練馬の区立美術館で、初めて出会った靉光の十点程の作品の、その記憶が預かって力になっていたからだ。

 その展覧会は、『ーー池袋モンパルナスーー小熊秀雄と画家たちの青春』と題されたもので、展覧会の眼目は「小熊秀雄」にあり、私は、詩人としての「小熊秀雄」の名前に引かれて、一体詩人のどんな展覧会なのだろうと訪ねたのだった。無知な私は、その当時、小熊秀雄に、その展覧会を催すに足る画業があろうとは思ってもいなかったし、「画家たち」と呼ばれた中に、靉光が居ようなどとはまるで予想だにしていなかったのだから、いい気なものである。だから、その分、意外性に富んだ新たな惑乱に嵌められるという施しを、その展覧会から受けることができたのだった。

 無論、小熊秀雄は、日本のプロレタリア文学活動上、弾圧によって、一九三一(昭和六)年、「ナップ(全日本無産者芸術連盟)」が解体を余儀なくされた後に登場した、言ってみれば、プロレタリア文学運動の最後を飾ったプロレタリア詩人だが、私がその詩を読み知ったのは、岩波文庫にその詩集が出た一九八〇年過ぎのことで、戦後のプロレタリア文学への関心も冷め、革命を旗幟にしての大学紛争の高揚も、一昔前のこととしてすっかり色褪せてからのことである。ただ小熊秀雄については、中野重治が逸速く評価していたこともあって、私は早くから関心を寄せてはいたが、八十年頃になってその詩を読むと、どこかアジ・プロ的なところが目につき過ぎ、どれも叙事詩のような長さを持った激情的な口調に、私の感情はかき立てられるどころか、却って冷え冷えと興ざめた気分に落されてしまったものだ。

 だから、その小熊が、美術展が催されるほどのどんな絵との関わりがあったのか、どんな「画家達の青春」の中で、自分の活動に没頭していたのか、そして、その活動の場こそ「池袋モンパルナス」だったのであろうが、モンパルナスと称される、昭和五年以後の、一九三〇年代の池袋とは、どんな場だったのか、何の知識も持たぬがゆえに、お化け屋敷ではあるまいが、混沌の闇に足を踏み入れるような不思議な感興を抱いて、練馬の美術館を訪ねたのだった。

 その時も、Kが一緒だったが、彼女は、結婚前には、東京で、井上光晴の創作実践講座を受けに通ったりしていたような文学少女だったのだから、私以上の関心を持って臨んだのかも知れず、会場で、Kは、掲示された小熊の詩を熱心に読んでいたし、全て、走り書き風に描かれたデッサン風のその絵についても、小さな画面に随分顔を近づけて見てもいた。

 その時、出展されていた百七十点ほどの殆どは、ペンとインキで、画用紙にくしゃくしゃっと書きなぐったような小さな絵で、私はそこに、感性の赴くままの無技巧の技巧とでも言うべき飄逸にして軽勁の面目を、どうにか認めることはできた。

 その中で、私の興味を引いたのは、いつもの人物像に対するのとは違って、生活空間としての町の光景を描いた風俗的風景画に対してだった。それらの絵の題名を、今ここに掲げれば、「テキヤ」「靴みがき」「小路」「屋台」「自動車吹付工場」「鋳物工場」「建設現場」「作業場」「喫茶店の的」「カフェ」「路地裏の風景」「路地裏の馬車」「池袋駅西口」「池袋駅貨物置場」「踏切」「アトリエ村」等々ということになるが、これらの言葉が作り上げる空間は、都市開発によって、昭和初頭の、洋風掘っ建て小屋的商店街と路地長屋とのひしめき作られた、新興の池袋界隈の、モダンを装った薄っぺらでごちゃごちゃした庶民の町が想像できようというものだ。そして、書きなぐったようなペンや鉛筆のその筆遣いは、そういう町の慌ただしく取り留めなく頼りない様相に、ぴったり相応した描きっぷりになっていると変に得心が行き、小熊秀雄の、イデオロギーとは関係なく、明らかに時代の動きに囚われ、足の踏み場さえ見定めかねる実態が見えてくる。

 取り留めなく頼りなく変貌する町の表現に重ねて、同じような筆致で描かれた、家族や友人たちの人物像を見ると、小熊が、如何に自分という存在に移ろいやすい頼りなさを感じ取っていたか、ちりちりこちらに伝わってもくる。

 当たり前のことだが、絵は、小熊の実存の表現にほかならない。会場の壁面に貼られた小熊の詩句、「絶望よ、/お前は可愛い奴だ、お前をヒシと/抱き緊めるとき/私の心臓は手マリのやうに弾んでくる、」がその事実を裏書きしている。

 その小熊の住まいは、池袋近くに建てられた、画学生目当てのアトリエ付き借家の一軒だったようで、界隈は若い芸術家達の集う世界となったようだが、小熊はその一帯を「池袋モンパルナス」と名付けたというのである。

 無論モンパルナスは、第一次世界大戦後、祖国を離れて来仏した、モディリアニ、スーチン、キスリング、シャガール、それに藤田嗣治らが集まって、エコール・ド・パリの運動を興した地で、池袋を、小熊は、故郷を離れて集まった新しい芸術家達、精神的バガボンド達の、エコール・ド・トーキョーの運動拠点として位置付けようとしたことになろうか。

 そして、その画家達が、長谷川利行、靉光、麻生三郎、寺田政明、松本竣介といったメンバーだったことを、彼らの作品の、その時の数点ずつの展示を通じて、私は文字通り目のあたりに知らされたのである。

 そこに「梢のある自画像」を始めとする靉光の作品十点が あったというわけだ。その「梢のある自画像」の、一枚の葉も付けぬ真っ黒な木の梢を背にして、まるで木枯らしに向かって立つように描かれた靉光の顔立ちは、メガネを掛けて盲のように描かれており、全体の暗い色調と相俟って、そこに、時代の中に闇より見えなくなっている靉光自身が読み取れるように思われた。私は、その展覧会の靉光から、まるで自らの内に澱む、戦争中の暗い時代的な沼に浸りこむような、重苦しい気分を味わうことになったのである。

 こうして、四月のその日、戦時中のその重苦しさを改めて体感するために、つまりは、自分の暗部を改めて実感するために、私は竹橋まで出てきたと言ってもよかった。

 そして、靉光の作品群が、その機能を十全に果たすが故にか、美術館は館内の人も少なく薄暗く静まりかえっていた。

 まず、「初期の作品」から始まる。画学生ならお定まりの 木炭によるトルソのデッサンがあり、それには「靉川光郎」のサインが施されていて、ペンネーム「靉光」はそこに発することが分かる。

 最も早い作品は、一九一七年十歳の時に、実父石村初吉 ーー靉光は本名日郎で、初吉の弟梅蔵の養子になっているーーを正面から描いた木炭描き肖像があったが、小学校三年生とはとても思えぬ描写力で、その能力の高さが分かる。そして私を捉えて放さないシュールリアリズムの「眼のある風景」は、そういう描写力の揚げ句にあることが窺え、私はホッと安心する。

 そして、二九年に描かれた「洋傘による少女」の黒っぽく暗い表現と眼を閉じて俯いている少女の横顔に漂う情念は、前に見た自画像の靉光に紛れもなく繋がっていると直感できたし、翌年作の黒をバックに描かれた「ばら」には、靉光の色彩における美意識が出ているように見えた。

 それが、三三、三四年頃になると、一九一七年頃、パリでその仕事が認められ始めたエコール・ド・パリの藤田嗣治の、その影響を隠せない人物像が現れて面白い。しかし、三五年を過ぎるとその影響は陰を潜め、形と色彩との混沌の度合いが深まり、実態の見定め難さへの迷妄に陥っていく、それが何が描かれているのか分別できぬ「ライオン」や「馬」の像の作品を経て、一九三八年の「眼のある風景」に結晶する。それは日中戦争が始まった翌年のことになる。

 それから、大東亜戦争へ突入する一九四一・二年までに、花や木の枝や果実と、それに配された蝶や鳥や醜い昆虫とで構成され仕上げられた暗い暗い油彩画が、まるで時代を受け止める靉光の心象のように何点も並べられている。真っ黒な背景の中に、漏斗状に咲いた白い花の穂影から、蟷螂が異星人のような緑の顔をけざやかに覗かせている、「グラジオラス」という作品の前に足を運んだ時、たまたま居合わせた、腰を屈めた老婆が、その孫娘と思われる女性に、「暗い絵ばかりだねえ」と洩らしている声が耳に入る。私は薄暗く冷えている展示空間を思わず見直してしまう。見直しながら、私は「小熊秀雄と画家たちの青春』展のことを思い出し、こういう作品に行かざるを得ない、小熊秀雄らと構成し共有しあったであろう、靉光の反軍国主義的・反ファシズム的な感性というものを考えた。この暗い暗い静物画の中の花鳥は、闇、つまり死の世界の存在として捉えられており、それゆえに、花は造花のごとく、枝葉は枯渇した色彩で描かれ、鳥は死骸の姿で、蝶は物質化して動かぬ羽の美として描かれているのだと思う。ここにあるのは、生き物そのものではなく、生き物の形をした物質と化した、しかも紛れもない生命のように思われる。

 そう思うと、その先に展示されていた、ペン書きの細密な線描による、正に描くものの実態を遺憾なく現したと見える、「二重像」以下数点の作品も、私には納得がいく。それは、人間の顔や手や足が、管やバネやネジや、あたかも実験室の器材に取り込まれ、それと同質化した超現実的物体として描かれた作品だったのである。

 靉光のシュールリアリズム作品というものが生まれてく る、秘密というよりは経緯というものが、この静物画とペン書き細密画の間に隠されているような気がする。

 そして、展覧会は、一九四三・四年の作品に及ぶ。壁に掲示されていた年譜からすれば、靉光は四四年召集され、終戦後の四六年一月、上海の陸軍兵站病院で没しているのだから、それが靉光最晩年の作品群ということになる。

 そこでは、静物画はその形を崩し、色彩混沌、曖昧な風情を作り始め、その替わりにとでも言うかのように、前に見た「梢のある自画像」を含む三点の自画像が並べられる。自画像が示しているものは、紛れもなく意志ある靉光の姿である。そしてその姿は、どんなに前に向かって立とうと、その暗いバックと、仰向き加減に右方を見る歪め顰めた顔の表情とから、靉光の前途が見遣りようのない前途であり、それでもその前途に向かって生きねばならぬのだということを、私に訴えかけているかのように、私に身勝手に解釈されてしまう。

 ともあれ、愛光の自画像は、いろんな画家が残した自画像の中で、特異な力を秘めた傑出した作品だった。そして、その靉光の重い自画像に、つまり靉光その人に、私は別れの眼差しを送って美術館を出たのである。

 そんな靉光展だったのに、どうしてそれを私は記録し忘れてきたのだろう。

 分からない。

(二〇〇八、一、二八)

 

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