川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

屏風漬けーBIOMBOと永徳ー

 十一月十五日、私は妻と九時の「ひかり」で下阪した。 新大阪から地下鉄で天王寺へ出て、久しぶりに市立美術館 を訪ねた。私たちは、その日、午前中ここで「BIOMBO/屏風日本の美』展を見、午後は京都七条の国立博物館を訪ねて「狩野永徳展」を見て帰る算段をしていた。

 『屏風日本の美』展は、屏風がポルトガルへ渡って「BIOMBO」と親しまれた縁を踏まえ、諸外国からの里帰り十数点と併せての五十点を越す屏風群と、それに絵巻なども加えて、六十有余点の展覧会になっていた。

 国宝は京都知恩院の絵巻「法然上人絵伝」一点、重要文化財は屏風九点、絵巻一点、大鉢一点の十一点が出展されていた。

 そうした中、まず私に珍しかった屏風は、厩舎の仕切りの中に繋がれた馬を、一折に一頭ずつ描いた「厩図屏風」と題する二点や、戦闘の騎馬図などではなく、ただ人が乗った馬を広く多数描いた「調馬図屏風」といった、紛れもなく馬を主役にした何点もの作品だった。ただし、屏風絵の風俗性・物語性という点からすれば、馬との日常に欠ける私には、全く想像力の働かせようがない平板無愛想な図柄で、どんな思惑があってのことかと、首を傾げる以外にない代物だった。

 首を傾げたといえば、「誰が袖図屏風」とか「小袖・屏風 虫干し図」といった、衣桁や屏風に小袖が掛けてある絵柄や、綱に掛けた小袖と様々な屏風を立て並べてあるだけの画面も、私には見慣れない主題で妙だった。花鳥風月を描きながら、各扇の真ん中が四角く刳り切られ、そこに御簾を嵌めて風の通りをよくした六一双の屏風のような、美術展ではなく民具展にでもあるのが適したものもあった。しかしこれらの作品は、私には、珍しくはあっても、絵画的感興が湧くものではなかった。

 そんな中で、素地に胡粉と雲母を用いて描いたと分かる、六曲一双の「白絵屏風」一点は、流木の岸に立つ松と竹の中に、五羽の鶴と五匹の亀が描いてあって、これには物珍しさも含めて大いに興味が湧いた。こういう白絵は、出産を控えた産婦の枕元に立てられたもので、その張りつめた気配の、広やかな産室の情景を想い遊ぶことができたからである。

 しかし、今回の観展の充実感は、間違いなく南蛮屏風と祭礼などの風俗図屏風によって齎され、それあって、ここまで訪ねたことの無駄足を怨じないで済んだのである。

 南蛮屏風では、「泰西王侯騎馬図屏風」「泰西王侯図屏風」「レパント戦闘図屏風」「泰西風俗図屏風」等、出展されていた全てから、見事に結晶させた形と色とに、日本人の異文化世界に対する深い眼差しをつくづく感じとることが出来 それを屏風として部屋の中に取り込もうとした心意気が嬉しくなる。

 祭礼図屏風関係では、何と言っても、秀頼が豊国神社へ奉納させたことで知られる、狩野内膳の「豊国祭礼図屏風」の 六曲一双の左隻、ケルンから里帰りした「祇園祭礼図屏風」(二曲一隻)とそれに画面上繋がるサントリー美術館所蔵の 「祇園祭礼図屏風」(六曲一隻)の並列された二点、それに、弘経寺所蔵の「東山遊楽図屏風」(六曲一双)やクリーヴランドから里帰りの「賀茂競馬図屏風」(六曲一双)との出会いだった。

 こういう絵の面白さは、私にとっては、祭礼や競馬の催しに、日常を脱して集まったあらゆる階層の老若を問わぬ人々によって醸成される、喧騒の音さえ聞こえそうな雑踏の、その活力に触発されることである。とりわけ、「豊国祭礼図」の群舞の表現は、予てから気になっていただけに興味深く楽しむことができた。方広寺の大仏殿を背に、設えられた桟敷席には、身分ある武士や女中たちが居並び、その前の通りには、男女それぞれに衣裳を揃えた京の町衆が、頂きに花を盛った大きな幟り傘を中央に立て、それを巡って幾重にも輪を成して道一杯に舞い動いている、その二つの円陣が、この屏風の大きなスペースを占めて、明らかにこの絵の主題がここにあることを伝えていた。円い輪=和の賑わいこそが、この絵の奉納者秀頼、というよりこれを描いた内膳の願いと受け取れる。京の町で暮らす人々の姿が、広やかな画面の下で、まるで蟻の群れのように小さな存在として描かれていることに、私は限りないいとおしさを感じている。屏風絵の群衆の虫けらなみの小さなあり方にこそ、人間の実存が表現されていて、それが私をこういう絵に引き付けているのだと、独り合点する。

 こうした日常を脱した賑わいの図の対極にあるのが、正に日常的労働の世界を扱った屏風絵で、本展では、狩野春貞の「四季耕作図屏風」(六曲一双)と板谷桂舟の「宇治製茶図屏風」(六曲一双)があったが、どちらもライデンからの里帰り作品だった。こういう絵を介して、江戸時代末期の日本の田舎の暮らしの実態までもが、オランダまで視覚的に入っていたのだと納得させられる。それは屏風の世界が、日本という国の民俗から文化・政治にまで至る広範な情報機能を果たす価值をも持っていたことを、あらためて語ってくれてもいたことになる。

 無論、典型的な花鳥風月を扱った屏風や物語図屏風も、多数あったが、ここでは、これ以上それらについて書こうとは思わない。

 見終えて出れば、やがて十二時。昼飯を地下鉄天王寺の地下街の鶏飯屋で軽く摂る。大阪のこういう店は安くて美味い。それから梅田に出てJRの快速で京都に向かう。

 京都の国立博物館に着いた時には二時を過ぎていた。切符売り場で、入館までには時間がかかるがいいかと言われはしたが、今更引き返してこの『狩野永徳』展に出直す訳にも行かず、券を買って園内に入ってみると、会場の建物の前には、七十分の待ち時間を告げる整理員の声の下、見事長蛇の列が出来上がっていたのである。

 その蛇尾に加わる七十過ぎのこの体にかかる負荷への予測が、改めて気分を滅入らせることになり、うじうじと列に止まり歩むじれったさに、疲労感がいや増しに増し、そして待ち時間の予告通り、入館は正しく三時半になったが、今度は、この待つ間の辛さの鑑賞に齎す影響が気に掛かる。

 挙げ句、喧伝に、向後二度と望めないであろうとまでその充実振りを謳われた「狩野永徳展」に、私の草臥れ眼は、疲労の「ホウ」は発しても感嘆の「ホウ」を発すること絶えてなく、瑞々しい新鮮さなど何も感じ得ぬまま終わってしまう体たらくとなってしまったのである。

 一体何故新鮮味に欠けたのか。気付けば、今回の中心となる出展作、宮内庁所蔵の六曲一隻の「唐獅子図屏風」と、六曲一双の国宝「洛中洛外図屏風」とは、既に三十年前の秋、地元の愛知県美術館で催された「日本のルネサンスー桃山の文化」展で既見のものであり、とりわけ前者は、京都国立博物館開館百周年記念として開催された、一九九七年の「黄金のときゆめの時代桃山絵画讃歌」展、九九年に東京国立博物館で開かれた「金と銀ーかゞやきの日本美術」展と三度、今回が四度目の目見えで有り難みのないこと著しく、後者も、これが二度目で、三十年前にはまだ重要文化財指定だったはずなのである。NHKの紹介では、今一点、八曲一隻の国宝「憎図屏風」が大きく取り上げられていたが、これも、「桃山絵画讃歌」展・「金と銀」展と出展されており、これが三度目になる。それ以外にも、国宝「琴棋書画図襖」(京都、聚光院)、国宝「虎豹図壁貼付」(京都、同)、伝永徳作四曲一双の「花鳥図屏風」(宮内庁)、六曲一双の重文「仙人高士図屏風」(京都国立博物館)、伝木徳作六曲一双の「四本花鳥図屏風」は、既に「桃山絵画讃歌」展に出ていたものであってみれば、観るに新鮮味を欠いていたとしても致し 方のないことであろう。

 成程、右に挙げた作品が齎す力というものについては、それぞれの作品の大きさとも相俟って、感得すること紛れも無かったにも関わらず、このように魅力なく受け止められてしまうというのは、美術の鑑賞というものが、いかに初見の一驚に負うところが大きいかを語っているように思われる。それに、それは今回に限ったことではなく、抑々京都のこの博物館の展示室の佇まいが、いかにも古びた、そのくせ古雅とは申し兼ねる空間に成り果てていて、その古臭い黄ばんだ照明の中では、作品を暗鬱な雰囲気に曇らせてしまうではないかと懸念されもするのである。どうやら、魅力乏しく見終わったのは、入場までの体力消耗や入館者の多さによるだけではなかったとも言えそうなのだ。

 それにしても、修復を終えて金色燦然と蘇った国宝の「洛中洛外図」屏風ーーその金色燦然ぶりは、それを飾る背景としてこの美術館の壁面が、いかに不釣り合いなものであるかをけざやかにクローズアップしているーーの前などは、密集して動こうとしない人の群れに隔てられて、金ぴかの輝きを遠望するに過ぎぬ、凡そ鑑賞とは縁遠い目出度い盛況振りで、喜びよりも腹立たしさに舌打ちをする始末だったのである。

 そうした中で、人だかりも比較的少なくて、織田信長像以下の五点の肖像画に出会えたのは拾い物だった。特に、永徳筆の大徳寺蔵の信長像は、史書などに掲載されていて見慣れたものだが、その現物の顔面に占める鼻の巨大さを目の当たりにすると、その不安げな眼差しの表現と相俟って、どこか バランスを欠く信長の人格が生々しく彷彿としてくるのだ。

 また、それが地元の定光寺の所蔵だということもあり、既 にこれと同形同題の狩野探幽の一幅を、何年か前の「探幽展』で見ていたこともあってか、「渡唐天神像」とする、中国服を纏った菅公が、梅の一枝を抱いてこちらを向いて立つ姿のすがやかな表情も私の目を引いた。

 どうやら、私の目が、兎角人物の表現に動きやすい質からであろうか、他でも、重要文化財の「許由巣父図」や「仙人高士図屏風」の登場人物達に心奪われ、彼らの衣装と風貌における筆遣い・筆刷けの細心と大胆の交錯した巧みな手腕を味わうと、些かの喜びを感じもした。そして永徳のその手さばきの手練は、永徳作ではなく、狩野派作として出ていた「玄宗並笛図屏風」や「羯鼓催花・御溝紅葉図屏風」等のなよやかな人物像の、「上手」と言う以外に魅力を見出せない筆づかいとは、例えその筆法に行体と楷書体の差があったりしたとしても、比べ物にならない力量の差があることを、否みようはなかった。

 そして、その力量は、信長・秀吉に直接接して動乱の桃山時代を生き、五十にも満たぬ生を駆け抜けた男の才能の成果なればこそと、何故か腑に落ちるところもあったのである。

 窮すれば通ずとはこういうことか。私のこの人物像へ拘っての鑑賞は、疲労から自らを救う術を、暗々裡に私が尋ねていた成果なのかも知れない。

 私は、出口で図録を求めながら、ようやく傍らの妻に「疲れたナ」と穏やかに声を掛けることができた。外気はもう黄昏の色合いに染まり始めている。

(二〇〇七、一一、二〇)

 

 

 

 

 

 

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