川柳 緑
556

えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

予想以上の予想外

 十月七日の「日曜美術館」は、仙崖和尚の残した水墨画を話題に取り上げていた。遅駈けの朝食をとりながら、つけたテレビで私はそれを見た。「を月樣幾つ十三七つ」と画賛のある、月を指さす布袋と童子を描いた水墨画一幅の映像を見せられると、忽ち溢れ零れる慕わしさに、それが今月二十八 日まで出光美術館での催しであることを見届けるや、直ぐ、「行くッ!」と私は心に決めた。

 二十五日、私は、六時二十分に起床し、暖めた牛乳一杯で「大福餅一個を頬張り、勇んで東京に向かう。

 久しぶりに有楽町から帝劇へ向かって歩き、その手前の出光美術館へのエレベーター乗り場から九階に上れば、既に十時半になっている。

 出光美術館は仙崖の作品については、我が国最大のコレクションを誇っているようだが、今回は、彼の遺愛の品々も含めて、百点を越す出品になっていた。その水墨画は、凡そ下書きなどの予想しにくい、奔放自在な、そしてその気儘な筆捌きの招く飄逸の風情に貫かれている。そのせいかどうかは 知らぬが、この微笑ましき作品のどれにも、まだ重要美術品・重要文化財等のお墨付きは与えられていない。

 何処からも何のお墨付きも貰っていないところにこそ、恐らく画家として全くアウトサイダーだったであろう、仙崖の 絵の芸術性があろうというものだ、と、私などは肩を持ちたくなる、それほどの出来栄えの軽やかさなのだ。無論軽やかさは、蕉風の理想境としてなど、表現の到達する極意の境地であろうが、出展されている仙崖の作品を見ると、老化の惚けに応じて次第にその境地に達して行くといったことではなく、のっけから、軽やかさの極意が身についていたように見え、その意味では、進歩も後退もなく、囚われのない悟境にいるような殆ど天真の存在だったように見える。

 ということは、技術と表現の鍛練上達を志すところに造られていく芸術というものとは無縁のところに、彼の作品は存在することになり、芸術性の桎梏から解き放たれているところに、その自由闊達の魅力があるということになる。

 例えば、ユトリロは、自分の描くパリの風景に、晩年になると町を歩く人物を登場させるようになり、その人物たちの下手な描き振りは、何とも微笑ましい限りで、それまでのユトリロらしい風景の緊張は、物の見事に崩れ失われ、私は、彼のアルコール中毒のため腑抜けと化した軽さに、口惜しい 無念を感じるばかりだが、それと仙崖の軽妙・飄逸とはまるで違っている。私には、その違いの根底に在るものが、仙崖の天真の性に培われた、仏教的な脱俗・無の理念に近いものであるように想像され、そういう境地から全く縁遠い、美の理念などという現実に固執する俗物根性しか持ち合わせぬ自分のような者からすれば、それが、自由な境地を語るものとして羨ましく思われてくるのだ。

 そして、この軽妙・飄逸は、絵に仙崖自らが寄せた教の言葉によって際立っている。その意味で、画賛の文字の意味世界と一体化させた語りの絵として、それを鑑賞しなければならないことになるわけだが、読み辛い筆墨の跡を辿って絵を見なければならぬまだるっこさこそを、こういう水墨画の有難味とするのは気が滅入る。画一的な活字の文字に慣れてはいても、行草の書による、個人の個性的な筆跡などというものにとんと不慣れな御時世惚けの眼には、このあまりにも簡略化された文字を伴っての絵画世界は、勢い画賛無視の鑑賞になりかねない。揚句判読適わぬまま匙を投げた作品の多さに、己が無能を嫌と言うほど知らされることになった。

 それでも、坐っている蛙の絵に「坐禅して人が仏になるならば」とあったり、土の上の髑髏の目や口から草が生えている図に、「よしあしは目口鼻から出るものか」とあったり、「さじかげん画賛」という匙一本の絵に、「生かそふところそふと(生かすも殺すもの意)」とあったりするのが分かると、思わずにやりとしてしまい、頬に笑まいを宿しながら筆を運ぶ仙崖和尚の坊主頭の風貌を、頭の中に水墨風の筆刷けで創り上げてしまう。とりわけ、「柳町画賛」という一対の軸で、煙管を手に、歪んだ顔の鼻が欠けてその黒い片方の穴から煙を燻らしている男の描かれた一幅に、「柳町春の若か木に花落て」と記され、腰に手を当て杖を引く老爺の描かれたもう一幅に、「秋の老木に歯も落にけり」とあるのを見たりすると、こういう色欲に狂って老いを迎える人間の愚かさを滑稽視する、仙崖の覚めた眼差しも伺われ、己が坊主頭を摩って、人間という存在をとことん冷笑する彼の姿が想像されもしてくる。

 こうして、水墨の絵と文字の軸を次々と辿っていると、その伝達の世界になかなか届き得ぬ、我が身の無能への自己嫌悪と、世間に対して見下し続ける、仙崖の徹底した批判的冷笑の姿勢への暗鬱とが、次第に胃の腑を重くしてくる。冷笑の眼差しを超えられないでいるこれらの絵を、いかに軽妙とは言え、悟達と言えるかどうか、疑わしくなってもくる。

 さらに、その面白い描き振りの数々が、写実性を全く伴わぬ墨一色の世界ということもあってか、いつか時代離れをした迂遠なものに思われだし、どんどん遠のいて行くように錯覚されてもくる。

 どうやら、私は、高踏的超俗の世界に昇りきれずに、地上に転がり落ちてしまったのである。

 やれやれ。見終えて私は、ロビーに備え付けの紙コップに、サービスの緑茶を汲んで、ガラス越しに堀端を見下ろす窓辺のベンチに、同じ観客仲間と並んで腰を下ろし一服した。曇天の下、皇居の堀端の景が淀んで見え、この際、それは私に相応しい眺めのように思われていた。

 午後、私は六本木の国立新美術館で、「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」を観た。しかし、この展覧会は、フェルメールの一点で客を釣っているような気がしてならず、既にこれと同じパターンで催された展覧会がこれまで再三あったこともあってか、気が乗らぬこと夥しく、見たということ以外には何の感興もなく終わってしまったのである。

 翌二十六日は、雨まじりの天気だったが、また半年ぶりにKと十時過ぎに上野で落ち合い、ムンク展とシャガール展を観た。無論、今更ムンクやシャガールでもあるまいというのが、私の思いだった。

 何故なら、ムンクについては、これまで見た三つの展覧会、即ち、一九七〇年愛知県美術館でのと、八一年東京国立近代美術館でのと、九七年世田谷美術館での「ムンク展」によって、画集などで出会ってきた彼の主要作品の殆どに出会っていると思っていたからである。シャガールについても同様、東京国立近代美術館(一九七六年)、愛知県美術館(八四年)、名古屋市美術館(九〇年)の「シャガール展」、それにトレチャコフ美術館所蔵の彼の「ユダヤ劇場大壁画」と共に来た、近鉄アート館で観た「青春のシャガール展」(九五年)の四回によって、殆ど見飽きるまでになっていたのである。

 それでも、西洋美術館でのそのムンク展が、「The Decorative Projects」というサブタイトルで催されているということが、そんな視点が自分にはまるでなかっただけに、一つの期待にはなっていた。

 東京文化会館前に行くと、既にKは待っていてくれて、早速西洋美術館へと歩む。

 そして「ムンク展」は、この小さな期待に対して、大きな 喜びをもって報いてくれたのである。壁面を飾る装飾的な視点からムンクを見直す企画の良さに敬意を払わなくてはなら なくなった。

 あの著名な「叫び」を初めとして、「不安」も「橋の上の 女性たち」も「病室での死」も「女性、スフィンクス」も「生命のダンス」も、みなムンクのアトリエの壁面に位置付けられて掛けられていたなどということは、これまで考えてもいないことだ。それらの絵は、ムンク自身のアトリエの空間・佇まいを決定すべく機能していたことが、かつてのアトリエの写真や、八点にも及ぶ「《生命のフリーズ》の展示のためのスケッチ」によって教えられたのである。つまり、ムンクの絵は、一点毎の独立した作品と言うよりは、部屋の壁面上部を飾る、装飾的フリーズの中の一点として機能している、そういう絵画群だったのである。

 画家として仕事をするアトリエで、フリーズとして配された、己が絵画群に向き合うムンクの姿勢を思い遣ると、ムンクという人間の存在を決定付ける内向的暗さの、否応無く創成されていったことが、納得できてしまう。アクセル・ハイベルク邸の装飾として生まれた「人魚」図、マックス・リンデ邸のフリーズとして描かれた「浜辺の若者たち」や「浜辺のダンス」の完成作品、ベルリン小劇場のフ リーズ のための「浜辺の出会い」他の下絵、オスロ大学講堂の壁画の「歴史」や「人間の山」等の習作、チョコレート工場の社員食堂のフリーズのための「工場からあふれ出す労働者たち」「娘に出会う機械工」「家族の小旅行」「森へ向かう子供たち」等のクレヨン画の下絵、オスロ市庁舎の《労働者フリーズ》の中の「雪の中の労働者」「疾駆する馬」「家路につく労働者たち」の作品とそれらを始めとする多数の習作や下絵、企画ごとにその作品群を辿り見ると、ムンクが、作品 が飾られる場所の機能を考慮して作品を描く、常識的な眼差しをちゃんと備えていたことが分かり、救われる。

 かつて、中野重治が、「雪の中の労働者」を初めとする。働者を描いた作品を知って、それをムンクという画家の優れた特質であるように、偉く褒めている文章を読んだことがあって、中野の思想的態度からすれば当然だと思いはしたものの、そのムンク評価に彼の偏見を感じたことがあったが、この一連のフリーズ製作のムンクの仕事ぶりを見ると、私のその時の判断が間違ってはいなかったと分かって、自分を救うことができた。と同時に、この展覧会を中野がもし生きていて見ることができたら、どう思うか、私は中野の書くものに好意を持っているだけに、聞いて見たい気もした。

 新しい視点でのムンクの総体見学に乾杯!の気分で外に出る。

 それから、上野の森美術館へ行った。「生誕一二〇年記念色彩のファンタジーシャガール展」である。この展覧会の特徴は、シャガール定番の、抱き合って宙に浮かぶカップルと大きな花瓶に一杯の花を描いたような、油彩やグワッシュの作品は、二十点もなく、あとは、三十センチから四十セン チ(中には六十センチ位の大きさのもあるが)位の小ぶりな サイズの二百二十点に及ぶ版画の出展になっていた。百五点の光景をエッチングによって描いた「聖書」シリーズ、カラフルなリトグラフによる「アラビアン・ナイトからの四つの物語」十三点、「ダフニスとクロエ」四十二点、「サーカス」三十八点、それに、木版による「ポエム」二十三点だったが、この五つのテーマごとに刷られたシリーズとしての作品群 が、山椒は小粒でもぴりっと辛い、見飽きない出来栄えだったのである。

 とりわけ、私には、部分的に手彩色を施すことによって、鉛筆書き風な濃淡を持ったエッチングの黒が生彩を放っている「聖書」の連作と、木目が彩色の面に独自の風合いを生み出している「ポエム」の連作が、色彩が紙面をべったり覆っていないだけ、どこか手描きの風合いを感じさせて面白く見ることができた。と同時に、一点一点ごとに添えられた言葉の世界を、ひそかに一人書斎で確かめながら、独占的に作品を楽しむ悦楽が与えられたとしたら、無論世の中にはそれができる人もいるのだろうが、どれほどの幸せだろうかと思ったりもする。

 そして、その一方で、昨日見た仙崖の作品の小品群を傍らに置き、その文字と共に楽しんだとしても、そういう幸せを抱くことはおそらく起こり得ないだろうと思いもした。

 このシャガールの作品群には、Kも心引かれたらしく、見終わった後、図録を買い求めていたが、家で一人、図録の画面に彼女はどんな思いを寄せるのであろうか。

 館を出て、思ったより良かったと一言漏らすと、Kも黙って大きく頷いたのだが、それが、私にはこれまで出会ったことのない可愛い仕種に見えた。私は、これで帰ればよかったが、東京駅まで出て、二人でゆっくりお茶を飲むぐらいの誘いは、彼女も許してくれるであろうと、思い始めていた。

(二〇〇七、一一、五)

 

 

 

 

P /