川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

ピカソ、それへの法悦とどんでん返し

 二カ月以上も美術展から遠ざかっているなどとは、足腰が 弱ったという自覚を、さしてまだ持たぬ今の私からすれば、随分異なことで、それが気になり始めていた。

 折りも折り、新聞販売店からチケット到来、それが、車を操れぬ私には些か遠くて不便だとはいえ、美術館の箱物としては気に入っている岡崎市美術博物館ーーそういえば、この所訪れたのは、確か「カラヴァッジョ展」の時だから、もう五年は経っていようかーーで、催されると知れば、兆す懐かしさが大きくもなる。しかもそれが、ピカソ展であるということにもなれば、兆す好奇心の方も一入というものだ。

 そこで妻と語らって、九月も末の一日、半ば小学生の遠足気分で出掛けたのである。

 朝九時前に家を出、東岡崎からのバスの中で、握り飯を一つずつ食べて美術館に着けば、既に十一時を過ぎてしまう。

 この美術館の面白いところは、建物が、周辺の広やかな丘陵地帯の一角に、谷あいとゆるやかな山並みを背後に望んで伸びやかに建っていて、展覧会場は、明るい入口を入った先を、エスカレーターで地階まで降りて行き、その明るいフロアから入場すると、一転、全く外界とは異なるほの暗く黒い壁面で覆われた、まるで子宮頸管のような通路を経て、閉ざされた巨大な胎内空間に導かれるような按配で造られている点にある。だから、入場は、上映中の映画館の中に入って行く時の気分に近い。

 その異空間でどんなピカソに出会えることか。

 ルートヴィッヒ美術館と言えば、私が予てより訪れたく思っている、ドイツはケルンにある美術館の一つなのだが、スペインやフランスではなく、ドイツの美術館に所蔵されているピカソであるだけに、興味は津々、期待は一層強くなる。

 まず入って早々、ピカソ二十歳前後の初期の数点が、私の興味に見事反応してくれる。「モンマルトルのカフェ」と題するカフェの中の子連れの花売り女を描いた油絵、「青い帽子の女」と題する、まるでロートレックを思わせるようなパステル画、「オテル・ドゥ・ルエスト、二三号室」というドラマの一服を描いた、ポスターのための習作水彩画、そのどれもから、若く生き生きしたピカソの感性が気持ち良く感取されて、極上のスタートとなる。

 そして、そういう作品群の成果とでもいうように、一三〇×一〇〇センチ程の二つの人物像が置かれている前に出る。一点は、横を向いて椅子に掛ける、彫刻的ボリュームを感じさせる女性像「緑色のガウンの女」であり、今一点は、それに対して、顔の輪郭の練描と服装の配色にセンスのよさが光る、「手を組んだアルルカン(=道化役者)」の正面を向いた像である。その、黒い線でくっきりと描かれた青年の豊かな眼差しは、感傷癖旺盛な私には打ってつけの傑作だった。そしてそのアルルカンの絵の前に立った時、私ははっきりと、この絵にはこれまでに既に出会っていると確信できた。それも、間違いなくピカソ展で。しかし、はて?いつ、どこで?

 迷霧に取り込まれたような不思議な気分に引っ掛かって、 却って気持ちに張りが生じたのか、その先に並べられた、ギリシア神話に登場する半牛半人の怪物ミノタウロスの、裸の女性に絡む場面を扱った何点ものエッチングに出会うと、本展始めての色彩を持たぬ白黒の小さな連作世界ということもあって、目が引き付けられて誠に新鮮に見えた。

 全裸の女を膝に乗せて酒杯を挙げる「ミノタウロス酒宴の図」を始め、「アマゾンの女を冒すミノタウロス」、「瀕死のミノタウロス」、「眠る女を愛撫するミノタウロス」、「夜、少女に導かれる盲目のミノタウロス」等、どれも、ミノタウロスのダイナミックな筋肉表現が、小さな画面一杯に躍っている。躍っているのは、ピカソの御し難い彼自身の欲情ーー一九三三年の製作だから、ピカソは五二歳になっているーーとの葛藤そのもののように見え、それが苦笑を誘って、私を楽しい気分にした。

 すると、またガラリと展示物が変わって、ピカソ的デフォルメの徹底した小さなブロンズ像や、凡そ着彩の発色を無視した、ピカソでなく無名の者の作品だとしたら、捨てて顧みられることもあるまいと思われる、楕円形の何枚もの絵皿、長方形の大皿、三本足の大ぶりな水差し、同じく焼き物の梟などの一群が、私の目の前に現れ、料理の箸休めに出会ったような感じになる。

 そして、再び、二〇点から成る連作版画の「三四七シリーズ」に出会うのだが、こちらは、一九六八年だから、ピカソ 最晩年の八七歳の時の製作ということになる。この連作からは、裸婦像を描くことこそ画家の基本と生きた者らしい、ということは、老いたこの期に及んで、だからこそそこに、女の性に一層囚われ拘らざるを得ないピカソが伺え、ここではその裸婦の表現に、老いたピカソの権力が集中し、その滑稽味がこぼれんばかりに溢れていて、共鳴共感してしまう。

 しかも、このエッチング群を締め括るかのように、一回り大きいエッチング、「ラ・メゾン・テリェ」ーーこの題名が、モーパッサンの小説からきており、それが、娼婦の館を現すものであることは、断るまでもなかろうーーがあって、この 中央に彫り刻まれた裸女は、右側に立つシルクハットの神士達に向けて開脚し、堂々両手で自らの陰門を広げ見せている見事なものである。そして、このピカソの陰門表現は、陰門とその下の肛門とを、丁度「!」の形で現し、このエクスクラメーション・マークの周囲を、ちょびちょびと陰毛の線で取り囲むお定まりの形となって、繰り返し表現されることになる。

 これを見れば、どんな鈍でも、八〇過ぎのピカソが拘ったのは、セックス・シンボルとしての女陰の表現だったのだと、納得せざるを得なくなる。

 それを証すかのごとく、展覧会の最後は、死の前年、九〇過ぎのピカソが、グワッシュやコンテを使って描いた、エッチングとさほど大きさの違わぬ着彩裸婦像数点で締め括られていたのだが、その裸婦達は、前記した陰門と肛門の表現で、「堂々こちらに向かってそれを誇示していたのである。

 これを老化したピカソの惚けと言うのは易しかろうが、私はそうは見たくない。老いて、男性としての性的能力を喪失したことを認めざるを得ないだけ、「男性」に囚われざるを得ない存在として、まさにピカソの実存的な生の証を、私はそこに読んでしまうのである。

 ピカソの作り上げた、女陰のエクスクラメーション・マー クは、彼が辿り着いた己が実存的生についての感嘆符だったのだ。

 そのことを、五十代のミノタウロスの連作と晩年の三四七シリーズの、二つのエッチング群を通じて、感取したことになり、それが、今度の岡崎行脚の私の収穫だったことになろう。

 私は、この収穫にすっかり御満悦で、妻と明るい一階へ戻った。妻も結構面白かったようで、私達はお互いのこの幸せ気分を、館内のレストランでの休息によって、より豊満なものにしようと目論んだ。幸い席の空くのを並んで待つ苛立ちを味わうこともなく、すぐ席に案内された。

 このレストランのよいところは、総ガラス張りになっていて、外の、遠くの丘陵とその下に開けた町の景色を、席から「望むことができるところにある。

 私達は、前菜、主菜、デザート、コーヒーの順に、お定まりのランチを出される一品ごとにゆっくり食し、マチスが描く光り溢れる食卓の嬉しさを語りあったりした。そして妻は、今日の遠足の収穫を記念して、売店で草花の描かれた陶器の箸置きを五個求めた。私が図録を求めたことは言うまでもない。

 家へ帰ると、私は、はっきり見た記憶のある「手を組んだ アルルカン」のことが気になりだした。この絵をいつどこで見たのか、私は手元のピカソの展覧会図録を当たって見ることにした。その結果、それを見た証しとなる図録が、一九九八年の三月、新宿の三越美術館で見た「ルートヴィヒ・コレクションピカソ回顧展」のものだったことを私は知る。「手を組んだアルルカン」が表紙にも使われていたその図録を繙くと、何と、今度新鮮な印象をもって見た出品作の殆どを、そこに見出すことができたのである。

 今度の出展数九九点のうち、九八年の「ピカソ回顧展」に既に出展されていた作品は六八点を数えたばかりでなく、前回のルートヴィッヒ・コレクション展では一七四点もの作品が出展されていたのである。つまり今回の展覧会は、前回の展覧会の半分を今一度見直したようなものだ。それを「アル ルカン」の絵を除いては、初めて見るような感じで私は見ていたことになる。「どうしてこんなことが起こったのか。開いた口が塞がらぬ、とはこのことだ。私は、二冊のピカソ展の図録を前に、目も虚ろにおろおろと自失してしまう。

 改めて、私は九八年三月のピカソ回顧展のことを思い出そうと焦る。すると、思い出されるのは新宿の三越百貨店の南館の七階?にあった美術館の佇まいで、七階に階段を上った。フロアから、さらにもう一息階段を上り詰めると美術館があったような気がしてくる。その上り詰める階段の隅に、大きな壺などの商品が置かれていて、その上に美術館の切符売り場が見えるという景色が蘇ってくる。そうだ、あの三越は、もうなくなったはずだ。とすれば、美術館も今は消滅してしまっていることになる。しかし、肝腎のピカソ展については何も浮かんでこない。

 私は改めて吐息一つを大きく漏らすことになる。

 アルルカンの一点以外には、何も残っていないという、今度の、自分の記憶の実態に直面すると、自分の脳味噌の脆弱ぶりに、腹も立たず、殆ど感服しないではいられなくなる。

 ただ、今度のピカソ展で、最も興味を抱いて見た、先述した二つのエッチングのシリーズは、前回のルートヴィッヒ・コレクション展にはなかったものだったのだから、見たものと見ていないものとを、暗々裡に識別する力が、どこかで働いていたことになり、その点では、多少救われもしたことである。

 それにしても、今度の何げない疑問から、この三十年間で自分の見た「ピカソ展」は九回あり、今度が十回目になることが知れた。ピカソは、個人の画家の展覧会としては、最も多く見ている画家だということになる。恐らく、近代画家の中で、その展覧会が最も頻繁に企画され催行されてきたのはピカソなのであろう。なぜそうなっているのか、それがピカソの大衆的普遍的な魅力を物語るものだとすれば、どんな大衆性があるというのか、私なりの答えを、考えてみなければならないことになる。

 しかし今は、これまで私が見てきた「ピカソ展」が、どんなものだったのか、折角改めて図録をひっくりかえしたのだから、せめて私の記録にもと、ここに書き留めてこの文章の締め括りとしよう。

「ピカソ展」1977年12月 愛知県美術館

「ピカソ陶芸展 生誕1〇〇年記念」 1981年4月 上野の森美術館」

「ピカソ秘蔵のピカソ展 生誕1〇〇年記念」 1981 年5月 愛知県美術館

「長女マヤ、その母マリー・テレーズとの愛の日々ピカソ展生誕1〇〇年記念 マヤ・ルイス・ピカソコレク ション」 1981年1〇月 池袋西武美術館

「ピカソ展長女マヤ・ピカソの秘蔵コレクション」1985年9月 愛知県美術館

「ルートヴィヒ・コレクション ピカソ回顧展」1998年3月 新宿三越美術館

「ピカソ展」1998年9月 名古屋市美術館

「ピカソ天才の誕生 バルセロナ、ピカソ美術館展」 2〇〇2年9月 上野の森美術館

「ピカソ・クラシック1914~1925」 2003年9月上野の森美術館

(二〇〇七、一〇、一〇)

 

 

 

 

 

 

 

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