川柳 緑
554

えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

ロシアの絵の慕わしさ(その二)

承前

 今度のロシア美術館展でも、先述のアイヴァゾフスキーが 宇宙草創の混沌を描いた「天地創造」や、狂嵐の中、沈み行く母船から逃れる水夫達の、波濤に翻弄される小船を描いた「アイヤ岬の嵐」、イリヤ・レーピンの、岸に打ち寄せる風波の激流の中に、手を取り合って立つ男女のカップルを描いた「何という広がりだ!」といった、どれも三メートルはあろう浪漫的な大きな作品が出展されていて、それによって展覧会に迫力を付けようとする思惑が伺われたが、今度も私は、そうした作品には、でかいなあと思うだけで、それ以上の思いは溢れ出ることがない。

 寧ろ私は、入室早々に出会った「幼少のアレクセイ・ボブリンスキーの肖像」(一七六〇年代)と題された、フョードル・ロコトフの描いた四・五歳の幼児像のような絵に、とりわけその絵では、そのいたいけな幼子の手の、温もりをふっくら齎す愛らしさによって、人間へのいとおしみを痛感させられていた。そして、この心情が起点になって、以後の出展 作品への心の傾斜が左右されていったのである。

 その挙句、私の関心は、今度も、専ら十九世紀後半のロシアンリアリズムの作品群に注がれることになってしまったのである。

 そのロシアン・リアリズムの舞台の中心は、ロシアの大地の広大さを伝える、風景画であり、その風景画との一線を画し難い農村的風俗画であることが、この展覧会からよく分かる。

 そんな農村の風俗を伺わせる風景画として、アンドレイ・ポポフの、川に釣り糸を垂れる少年とそれを橋上から見やる農婦を描いた「村の朝」、ピョートル・スホデリスキーの、小屋の陰で或いは腰を下ろし、或いは横になりして憩う農民達を中心に、三々五々、村人や家畜達の佇む広い村の景色を克明鮮明に描いた「村の昼間」、レオニード・ソロマトキンの、夜空を焦がし燃え上がる炎を逃れ、赤く染まった村の教会前の広場に、なけなしの荷物や道具を持って逃れてきた村人達を描いた「村の火事」などがあり、その風俗性がより強まった作品としては、コンスタンチン・マコフスキーの、刈り入れの進む広大な畑を背に、膝の上の赤子に乳房を含ませて憩う若い農婦と、その傍らをよちよち歩きする幼子を描いた「収穫する農婦」、アレクセイ・コルズヒンの、夕日の射す木組みの家と森を背に、土地の民族衣装に装いを凝らして踊る女達を描いた「結婚前夜の祝い」などがあって、これらを見ていると、こちらの心がほんのり温かく染められてくるのだった。

 こうしたロシアの画家達の眼差しが、貧民たちに注がれるとき、それが時代を代表する正にロシア的風俗画になると私には見えたのだが、本展ではそれが、ヴァレーリー・ヤコビの「物乞いの復活祭の日」という、復活祭の日の物乞いの稼ぎを机に開ける老婆、椅子に掛け力無く項垂れている老父、子犬を抱いてその前に立つ裸足の孫、その三人の身に纏う襤褸と、貧しい木組みの部屋の佇まいとが訴える、貧民の悲惨を描いた作品、ヴァシーリー・マクシモフの「盲目の主人」という、これも壊れかけた貧しい木の部屋で、トルストイのように髭一杯の見窄らしい身なりの盲人が、膝に抱えた、襤褸にくるまれた子供に、大きな手で食事をさせている作品、カレル・レモフの「新しい友達」という、粗末な農民の板小屋の中、籠に入れられた赤ん坊を見にやってきた、村の粗末な身なりの裸足の子供達と質素な身なりの赤子の母親を描いた作品、ニコライ・ボグダーノフ・ベリスキーの「教室の入り口で」という、顔を互いに親しく寄せて机に向かっている 教室の子供達を見遣りながら、その入り口に立つ、肌の覗く破れズボンに破れ靴を履き、継布まるけの上着を纏ってずだ袋を下げた、後ろ姿の一人の少年を描いた作品となって出展されていた。

 こういった、社会の底辺を生きる貧民たちの暮らしの惨めさを、眼差しのリアルな確かさで、しかと受け止めている画家達の多さに、私はロシアという国の民への親しみを感じないではいられない。

 しかし、考えてみれば、こういう絵を維が求め、何処に飾ったのだろう。また、こういう絵を描いた画家達は、どういう実入りによってその職業を成立させていたのだろう。彼らは、ロシアの作家達が貴族や大地主の出であったように、経済的には困ったりしないで済む階層の者だったということか。その疑問を解く知識が皆無だということも、これらの絵画に寄せる私の興味共感を増さしめる結果を招いているわけか。

 この疑問は、こうした風俗画が、悲惨な階層の人達の存在を社会的に告発する意図を内包していたとすれば、これらの絵もまた、私の忌み嫌う政治的プロパガンダの役割を持った作品ではないかという疑いにも繋がるのだが、決して政治的党派の自己権威の保証や宣伝を謀るためのものだとは考えられないことを思えば、その謗りは当たらない筈だ。

 ただし、こういう作品に寄せる自分の好意というものが、はたして本当の美術鑑賞と言えるかということになると、これは甚だ怪しい限りで、こういう貧窮の民をこれほど主題として多く取り上げた国を、西欧諸国の美術の中で、私はロシア以外に知らないということもあって、そうだとすれば、ロシア絵画を考えるとき、この主題の写実的作品群を避けて通ることが許されないことだけは、間違いあるまい。

 しかも、今度はこういう風俗画だけに見惚けたのではなかった。

 それは、先述した冒頭の幼児像を初めとする多数の肖像画との対面の面白さである。それも前回のトレチャコフ美術館展では体感できなかった若い女性達の肖像画との出会いである。その女性達は、紛れも無く社交界に登場する以前の無垢な処女だと私には見えた。彼女らの素朴と素直とはにかみに出会えた喜びのためにも、そういう女性達を殊更描きとめようとしたロシアの画家達のためにも、その作品と作者の名前は、記しておきたい。

 ニコライ・ゲーの「オリガ・コスティチェワの肖像」、イヴァン・クラムスコイの「ソフィア・クラムスカヤの肖像」、イリヤ・レーピンの「ヴェーラ・シェフツォーワの肖像」と「ヴェーラ・レーピナの肖像」、ニコライ・ヤロシェンコの「女子学生」、カルル・ヴェニグの「ロシア娘」といった作品がそれである。

 描かれたこの乙女達の眼差しに見つめられると、そんなことが日常の現実には望むべくもないだけに、老いてカサカサになったこの身に潤滑油が注がれたようなもので、これで心癒されなかったら罰が当たろうという嬉しさだ。

 そのせいでか、不思議な事態に陥る羽目にもなった。それは、同じ肖像画でも、イリヤ・レーピンの描いた一点、最後のロシア皇帝、「ニコライ2世の肖像」画に出会ったことによる。

 その絵は縦二五〇センチ、横一五〇センチはあろう大作で、髭を蓄えた皇帝が、官殿の広い謁見室の中央に、玉座を遠く背にして、近衛の将校の黒いコートに黒い長靴姿で立っている肖像画だった。その殆ど実物大のすらりとした姿勢には、何の誇示・傲慢も伺いえぬ、肩の力を抜いた穏やかな優しい人柄が滲み出ている、その点では、スターリンの写真に抱く感じとは、まるで反対の印象を齎す人物像だった。ロシア革命は、この人物を、皇帝であったがゆえに、家族共々銃殺にしたのだということが、否応無く私に思い遣られる。と同時に、革命が成功し、ソヴィエト連邦国家が成立する過程、つまり一人の人間による独裁政治国家が作られゆく過程で、プハーリンの銃殺や、トロッキーの暗殺に象徴される粛清が幾度も行われたこともまた、自然と思い遣られる。

 革命における人の命などは、革命の大のためには、あるいは権力獲得の大のためには、何物でもないという人間観が許されてあったということが、今、煮え立つ腹立たしさとなって、このニコライ2世の肖像の眼差しを受けとめる私を金縛りにする。

 この金縛りから我が身を解き放つには、人気の丸でない風景画でこの展覧会を締め括るのが一番であろう。

 イヴァン・シーシキンが針葉樹林を描いた「晴れた日」は、一九七七年にも来ていて二度目になるが、同じシーシキンが 描いた、今度は針葉樹林の雪無色の「冬」や、それに春の林の中の「セリの草むら」を描いた作品、イサーク・レヴィタンが木立の茂る池辺を描いた「草が生い茂った池」という、小さいながら美しい作品等があり、木々の匂いや、草の息、木の香りなど、ロシアという大地の息遣いを、私も呼吸できるような快さを覚えたものだ。

 その快さは、自分達の国土の大地を、人を拒む苛酷なそれではなく、親しく深く我が身に根付く存在として捉えている、画家達の眼差しによって齎されたものだと、私には思われた。と同時に、それはまた、日本のささやかな自然しか知らない私の中の自然認識から、遥かかけ離れた遠いものだったからこそ、齎されたものだということも、また痛感させられたのである。

 今回は百点ほどの出展だったのだが、見終わって私は随分たっぷりと見たような気がしていた。

 会場を出て私が思わず「疲れたなあ」と洩らすと、Kが「面白かったわ」と言った。同世代と言っていい彼女なのだから、私とどこか共通する感性があって、私と相似た印象を持ったのかも知れない。しかしそのことを、私は彼女に確かめようとは思わなかった。

 いずれにしろ、一日付き合ってくれたのだから、お茶にでも誘わなければと思う。今度は東京文化会館の二階にある精養軒にしようと、勝手に決めてKに「一服するか」と声を掛けた。

 じき、四時になろうとしていた。

(二〇〇七、六、二五)

 

 

 

 

 

P /