川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

ロシアの絵の慕わしさ(その一)

 私はロシアが好きだ。私が、ロシアに親しみを持つようになったのは、戦後、古い教育制度が改まり、六・三・三制の実施に伴って男女共学の新制高校が誕生し、その一年生となった頃からだと思う。私は、女性への接近が、公然と許される場になる筈だという、不心得な期待によって演劇部に入部したのだが、その演劇部で演出に手腕を見せていた一年先輩のBさんが、岩波文庫を手にしながら、チェホフの戯曲や小説の面白さを声高に吹聴していたのに、美事唆された、それがきっかけである。

 スターリンがソヴィエトを支配していたその当時、私はその共産主義による一党独裁国家の政治的現実からすれば、ある意味で最も対蹠的な、個人的な愛苦の世界を表現した作品世界によって、つまり当時のソヴィエトではなく、ツルゲーネフやゴーゴリの小説に表現された、帝政ロシア末期の、様々な人物の生の悲哀によって、認識の上からは、ソヴィエトが最も遠く鎖された異国だったということもあって、かえって、ソヴィエトというマントに覆い隠された世界として、ロシアへの親しみを抱いたようなのである。「凡そ、日本の風土とは遥か離れた、苛酷な、しかし壮大な自然の奥行きを持ったロシアという大地と、そこに根付いて共同体的な生を生きるべく苦闘するロシア人トルストイの「復活」一つからでも、私は皮膚感覚を通じてそれを感じとっていたーーとに対して、それが想像されるに過ぎないだけ、私は、一層深い愛着を増していったようなのである。

 学生時代の私が、一九五〇年頃の学生運動に触れながら、最もよく歌ったのは、決してコミュニズムの讃歌などではなく、ロシア民謡だった。

  林檎の花ほころび川面に霞たち

  君なき里にも春は忍びよりぬ

とか、

  雪の白樺並木高鳴るバイヨン

  走れトロイカ軽やかに 粉雪蹴って

というロシア的センティメントに溢れた歌を唄って、私は、己が恋心一つさえ持て余す貧書生の鬱情を、紛らせていたのは間違いのないことだ。好きな本も碌に買えず、僅かに学ぶこと以外には何も適わぬ、その貧しさの憂さを晴らすために、恐らく、最も経済的な方法として、私の学生運動は存在していたという気がしている。だから、友人の中には、マルクス、レーニンの思想に共鳴し、ソヴィエト連邦国家を理想視したりする者も多かったが、私にソ連に憧れを抱いたりする志向などはトンとなかった。

 むしろ、私のような感覚的印象主義者には、写真が伝えるスターリンの風貌は、ルーズベルトやチャーチルといった、戦時中叩き込まれた禍々しい顔に比べても、遥かに不愉快な印象で、そんなスターリンが統べているソ連という国家に対しても、私は、暗くうさん臭いイメージしか持てないでいたのである。

 風貌といえば、中国についても、私は、毛沢東のそれによってではなく、周恩来のそれによって、彼らの共産主義国家に対する信頼を保っていたのだし、同じ面でも、スターリンの陰気な権威丸出しのそれに比べれば、私にはレフ・トルストイの顔やドストエフスキーの顔にこそ、人間として親愛の情を抱くことが出来、そこに、私の好きなロシアを重ね認めてもいたのである。

 序でに、ロシアの女性に対する私の好みというものは、決してナターシャの方にではなく、カチューシャの方にあったということも、ここで言い加えておかねばなるまい。

 そして、そうしたことを、これまで再認識させてきてくれたものの一つが、紛れもなく、ロシアの絵画だった。ロシアの美術館展が示してくれた、十九世紀後半から二十世紀にかけての、ロシア人の画家達によって描き残されてきた、ロシアの風俗的色彩の濃い作品群だったのである。

 「作品群」などと言うと、隋分の量を見たように聞こえるが、決してそうではない。限られた基でしかないのだが、ヨーロッパの印象主義以後の絵画にすっかり馴染んでしまってきた私の目からすれば、特別新鮮な強さで印象付けられたということだろうか。

 では、どの程度の限られた量なのか。

 前に、「エルミタージュ美術館展」について書いた時、一九七七年に見た『「第九の怒涛」を中心とするロシア美術館名作展』(愛知県美術館)のことを紹介したが、それが、ソヴィエト・ロシアの美術が日本で封切られたおそらく嚆矢で、出展数こそ三十二点に過ぎなかったとは言え、その全ての画家の、何とかヴィッチ何とかスキーという、ロシア然とした名前が、妙に新鮮で、同じ年出会った「エルミタージュ美術館展」のヨーロッパの作品群より、遥かに親しみ深く思 われたものだ。

 展覧会のタイトルにも使われた「第九の怒涛」は、縦二メートル横三メートルを越える、イヴァン・アイヴァゾフスキーの本展最大の作品で、それは、明け染める空の下、荒れ狂う広大な高波の中に、恐らく沈没した船の帆柱に縋り、助けを求める数名の男達を豆粒のように描いてあるが、ベートーヴェンの第九との関わりはない。荒波というのは、九番目の波が最も大きく激しいもので、その技の試練を乗り越えれば、必ず天によって救われるというロシアの言い伝えによって、絵の題名は付けられているらしい。しかし、こういう寓意性の強い題名を掲げて、何事かを主張しようとするかのような浪漫的な大作は、それこそがロシア的な一つの特徴を示すものだと納得はしても、必ずしも私の好みに適うロシア絵画ではない。

 この時、この大作の他、今一つソヴィエトという国家の威信を誇る、政治的プロパガンダの大作、ミトロファン・グレーコフの「赤軍、ノボチェルカスク占領」、ウラジーミル・セローフの「レーニンと共に」、二〇号程の大きさのイサーク・ブロッキーの「メーデー」などもあり、ソ連からの本邦初登場ということであってみれば、到来して当然だった訳だが、この手の作品も、無論私の好みではない。

 ただ、政治的な意味合いを持つ作品でも、銃剣を持った兵士に囲まれ捉えられた一人の青年が、貧しい身なりの家族と別れの視線を交わしている場面を描いた、「判決を受けた!ロードニキ」と題するウラジーミル・マコフスキーの作品や、騎馬で敵に向かって突撃する若い一人の赤軍兵士が、今し撃たれて、走り行く馬から身を長くのけ反らせて宙に浮く姿を画面一杯に描いた、エフセイ・モイセーエンコの「青春に燃えて」という作品に対しては、私の心は素直に反応したのである。革命万歳の絵ではなく、万歳の裏に隠された個人の悲傷の劇的場面が、感傷癖お盛んな私の弱みに付け込んだのに違いない。

 それに、ロシアの底辺を生きた哀しい人達を覆わず描いた風俗画と、人の滅多に訪れないような深い森の佇まいを描いたロシア的風景画が、その時私を魅き付けたのだが、その風俗画と風景画の魅力を私に再確認させたのは、一九九三年、奈良県立美術館で観た『ロシア近代絵画の至宝トレチャコフ美術館展』においてであった。

 この展覧会では、政治的プロパガンダのような作品や、壮大な浪漫的な絵画は一点も出展されることなく、作品の殆どが十九世紀後半のもので、それだけ、ロシア的風俗画や風景画の独特な、しかし、おそらくそれが最も日本人の好みに合う風土性や時代性が、感得されやすく並んでいた。

 風俗画では、ワレーリイ・ヤコビの「囚人の休憩」、前記ウラジーミル・マコフスキーの「薬を求めて」、イリヤ・レーピンの「懺悔の拒否」、セルゲイ・イワノフの「旅の途中移民の死」といった、貧しい者、虐げられた者達の現実を描いた写実的作品が、風景画では、どちらもチェホフの「桜の園」の広大な庭の林を連想させてくれた、イワン・シーシ キンの「森のはずれに咲く花」と、イリヤ・オストロウーホフの「黄金の秋」といった作品に親しむことができた。

 その際、ニコライ・ゲーの「作家L・N・トルストイの肖像」という作品があったが、それは、前の「ロシア美術館名品展」に出ていた、同じ画家の「執筆するレフ・トルストイ」という作品と殆ど同じ構図同じ色調で描かれているので驚いた。と同時に、そのトルストイをイリヤ・レーピンが水彩で描いた肖像画もあり、同じレービンが、これも水彩で描いた化学者メンデレーエフの肖像画や、十九世紀後半の詩人マイコフや作家グリゴロヴィチの肖像を描いた作品もあって、そうした肖像画が、この時代のロシア絵画の一つの大きな特徴であることを物語っていた。

 そして今度の、東京都美術館での「国立ロシア美術館展」ということになる。

 六月の一日、国立西洋美術館での「パルマーイタリア美 術、もう一つの都」展と合わせて見ようと、私は上京した。例によって相棒の女性Kを呼び出しての、退屈を凌ぎながらの見物である。

 パルマ展は、些か期待するところがあったが、結構大きな作品が出展されている割には、絵の具の色が褪せていたり、画面がすっかりひび割れていたりしている上に、こちらの琴線を震わせるような作品がほとんどなかった。ただ小品ながら、パルミジャニーノの、間を背に、紅潮した半裸の女性が、刃を己が胸に突き立てて天を仰ぐ、モチーフとしては定番のルクレチア像一点を除いてのことである。

 この気落ちした気分を宥めんと、例の如く精養軒でKと昼食を取り二時近くまでお喋りに過ごす。そして気を取り直して、ロシア美術館展を観に足を運んだのだ。

 これが、よかった。胸の内が洗われて軽くなるような快い気持ちを獲得できたのである。

(つづく)

 

   

 

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