川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

拾い物の福きたる―またも若沖されど若沖ー

 こんな偶然もあるのだと思わず頬が弛んだものだ。

 名古屋城の本丸御殿の、重要文化財に指定されている障壁画の全作品が、前期後期の二度に亙って市の博物館で展覧されるのを知り、折角保存されてきた我が町の遺宝を、是非にも見納めて置こうと、同じこの名古屋で生まれ育ち、名古屋で生涯を過ごしてきた妻と、恐らく同じ思いを抱いて出掛けたのである。その日は前期展の四月二十八日だった。

 一々の障壁画を、それの立てられていた本丸御殿の部屋の図面を参照しながら見て行くのだが、残された障壁画そのものに、今一つ、迫力ある感服するものが少なく、加えて建物の現場の記憶を持たない自分にとっては、どこか間怠っこく、縁遠い。

 しかし、話はこの障壁画のことではない。

 この博物館の企画展の会場は、いつでもそうだが、半ばまで見て、隣の部屋へと変わる場所に、展覧会の図録や関連グッズの売り場が設けられている。その売り場で本展の図録を求め、そこに置かれていた若冲の画集を手に取ったら、図録を売ってくれた男性(年齢からしてもボランティアの市民であろうか、知的な雰囲気を持った老人だった)が、県の美術館で開催中の「若冲と江戸絵画』展を見てきたかと聞くので、つい図に乗って、東京と九州で二度に亙って見てしまったと話したら、その男性が、今度京都の相国寺で、宮内庁にある 若冲の絵が全部里帰りして『若冲展』が開かれますよと言うのである。思わずヘーえと驚くと、そのチラシまで取り出して見せてくれる。眼をやれば、五月十三日から六月三日までの期日と知れる。これは私には驚きのニュースだった。

 今日ここで図録を求め、この男性と言葉を交わした偶然が、私に予想外の喜びを齎してくれたことになり、妻もこの若冲展には大いに関心を抱いたようで、それが分かると、更に私の喜びは倍増しようというものだ。

 家へ戻ってインターネットで調べてみれば、「釈迦三尊像と動植綵絵一二〇年ぶりの再会」との見出しで、「開基足利義満六〇〇年忌記念」と銘打った『若冲展』の紹介に出会う。どうやら、宮内庁の全作品が見られるだけでなく、鹿園寺金閣の重要文化財、大書院の若冲の水墨障壁画三七面も併せて展示されるらしい。これぞ千載一遇、もう、何が何でも見に行こうと妻と語らい、カレンダーと相談して、母がショートステイに出ている間の五月一七日と決める。

 決めて、こういう性急な心の動きに、お互い、見逃したら二度と見ることは叶うまいと、先のない自分の存在の果なさを感じ込んでいる、侘しさとでも言うべきその感覚に、一瞬浸り込む。

 当日は薄曇りで、この季節、散策にはまずは手頃なお日和。私達は、十時前に京都に着き地下鉄で今出川に出る。地上に出た正面に立っていた掲示板の地図に従って、烏丸通を北へ少し進んで相国寺の横手から境内に入り、堂々たる法堂の前を通って、その奥に建つ承天閣美術館へと歩んだ。

 広大な境内の松を始めとする大きな木立ちの息遣いの下で、小さく感じられる自分の脈拍が、私を幸せな興奮気分にしてくれる。

 さて、入場券を買って門を潜り、恰も路地を通るように石 畳の道を歩んで、美術館の建物に入ると、一転、観客が列を詰めて続き、広やかな快感に解放されていた気持ちが圧縮されてくる。ウイークデーの開館早々のこの観客の多さに一寸驚き、京の人達への、この若冲展の浸透振りとその人気の程が伺われもする。

 まず久保田米僊の若冲像の軸と、若冲の絵が寄進された当時の相国寺の住持、梅荘顕常頂相の像を描いた世継希僊の軸を拝見することから始まる。それに続いては、寺内塔頭養源院の、人間の背丈は充分にある木彫りの毘沙門天の黒い立像と、それとの対照けざやかな、白い蓮花を手にし白衣をかせて立つ、本山所蔵の観音の画像を仰ぐ。

 そして、若冲の、鯉や竜や亀を描いた水墨の船がその筆勢の魅力豊かに何点も並ぶ。中でも、「布袋渡河図」の一幅は、画面中央に描かれた大きな袋を背に負い、その巨大な尻をこちらに向けて渡河している図柄が、何ともユーモラスで、水墨画が内包する禅的当然のように思われてくるところが妙である。

 次いで、鹿苑寺金閣大書院の、重要文化財である水墨障壁画九点が展示されている。襖絵についてはその両面を見て廻れるように回路を設け、床の間の貼り付け絵については、その床柱や違い棚等を設えて作品のありようが分かるように再現してあるため、館内の鑑賞通路がかなり狭く窮屈になってはいるものの、辿る工夫が施された展示振りには感心する。この一巡りは大書院の四つの部屋をみて廻るに等しいのだから、これだけでも見応え充分な元の取れる内容というものだ。

 中でも、一の間の、床と違い棚と襖四枚に描かれた「葡萄小倉図」の、上から下へと下がる葡萄の葉と蔓と実の織り成 す画面構成のダイナミズム、三の間の、床に貼られた「月夜芭蕉図」の、美事夜の奥行きを表現した 茂る芭蕉の葉のエキゾチックな風情、狭屋之間の四枚の襖に描かれた「竹図」の、その節と葉のデフォルムの斬新さを、 その筆勢共々格別面白く鑑賞出来た。

 とりわけ、床の間に描かれた葡萄は、先の「プライスコレクション」展でも一幅の軸が出展されていて面白かったのだが、今度は床の縦と横との柱が、そのまま葡萄棚となって見える面白さである。

 そして愈々、本展目玉の動植綵絵の展示室に移る。入ると、広やかな四角の部屋の正面奥の中央に大きな三幅の仏像画が下がり、その両側に、同じサイズの動植綵絵が十五幅ずつ、左右鈎型に展べ下げられている。まるでこの展示のために造られたような部屋の案配である。それを、入った右手から奥へと辿って、左手へと一巡することになった。

 それまでの墨の濃淡と、筆刷けの呼吸筆勢豊かな、余白の招く無言の躍動との、綾玄妙な水墨世界から一転して、細密な線描と着彩、画面に寸分の余白も持たぬ精緻な色彩世界が、こちらをすっかり取り巻き虜にしてしまう。 そこにある、動物・植物の全ては、精密に描写されたので も、描写が精密に施されているのでもない。描写された対象が、視覚的現実を超えて、知的な計算密度で精密化され造形された、その意味でまさに超現実的な現実、超写実の絵画なのである。だから、西洋の写実的絵画の被写体の存在を定かにする写実性が、その陰影によって表出されるようには描かれていない。被写体の存在は陰を介して浮上するのではなく、被写体が本来持っている形と色と線によって認知される、知的理解・認識の上に成り立っているものなのである。そのことを、徹底的に知らしめられる絵画群だったのである。しかもそれは、中央三点の釈迦三尊像を含めて、等しくその背景を無色に近い鴬色で塗り込めているのである。その背景の色は恰も屋内空間の色そのものであるかのようで、描かれた世界が、時空を問わぬ、仏も込みにしての認識される物達 であることを裏付ける。先のプライス・コレクション展の若沖から、これは伺い知れなかったことだ。

 但し、「動植綵絵」とは言え、文殊の乗る獅子と、普賢の乗る象以外に四つ足の動物は一点も描かれていない。動物の二十三点までは鳥であり、その内八点までが鶏である。蝶などの昆虫や蛙などの小動物を描いた物二点、魚介類を描いた物四点、動物が描かれず植物の梅花と月が描かれた物一点である。それらの生き物が、共生する植物と雪月によって認識される四本の時を表現している。つまり、画家に認識された世界が、この一つの部屋に一つの宇宙として提示され、若冲的に取りこめられる亨楽がここにはあったのだ。あゝ、合掌、冥福。

 こうして私達は美術館から広い境内に出た。そして私達は 若冲の墓に詣でておこうと墓地を訪ねた。この寺院の広さからすれば、墓地はこじんまりとしていたが、墓は直ぐ分かった。それもその筈、その墓は藤原定家、足利義満の墓石と共に一列に並べられて、特別に仕切られた墓域を形作っていたからである。二十一世紀の今日ともなれば、墓もこのように設え直されてしまうのかと、暫くポカンと空いた口を閉じ兼ねたものだ。私は妻に昼は何を食べようかと声を掛けた。

 下町の大衆食堂と言うにピッタシの食堂で蕎麦を喫し、午後は博物館へ出ようと、地下鉄の鞍馬口に向かって歩いた。すると、白い狩衣衣装に烏帽子姿の者達が鉾などを肩に四五人歩いて行く。祭りでもあるのかと後に従えば、通りから引っ込んだ奥に鳥居が見え、その前の細い道の両側に屋台の店が賑やかに赤い印象で立ち並んでいるではないか。

 こんなところで、予期せぬ町の祭礼に出会うとは、おまけの拾い物というものだ。私達はためらわず狩衣達の後から、鳥居の方に歩みを代える。決して大きくはない、地域の氏神の祭礼といった感じで、神社は上御霊神社と分かる。こういう町の氏神の祭礼を、その町に住む者として祝うことを、自分は、戦災以来、全て俄仕立ての団地や、開発居住区で暮らしてきたために、体験することなく過ごしてきてしまった。六十年のその空白が、胸を締め付ける懐かしさを呼び起こし、境内を母親に手を引かれて歩いている烏帽子をつけた化粧顔の女の子にそれが結晶する。

 私達は、それぞれの町の神輿が、掛け声と共に、町へと練り出されて行くのを鳥居の脇で見送って上御霊神社を後にした。

 そして訪ねた博物館の『藤原道長展』は結構面白かったのだが、もうこれ以上ここで書き記す気はない。

 さて、名古屋城本丸御殿障壁画展の後期分は、五月三十一日に、今度も妻と二人で出掛けた。だが、例の売店コーナーにいたのは、別の男性で、若冲展の報告をすることは叶わなかった。

(二〇〇七、六、五)

 

 

 

 

 

 

 

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