川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

展覧会、縁は異なもの味なもの(その二)

承前

 東京駅に戻ると、もう一時半を過ぎている。地下街の一軒の寿司屋に、今の食欲の生理に見合うのはこれと入り、軽量な寿司ランチを喉越し良く食べて、午後の予定に向かう。気持ちがリフレッシュされて、足取りも軽くなり、私は茅ヶ崎へ向かったのである。茅ヶ崎では、市の美術館に「没後八〇年」の「萬鐵五郎」展を見ようと、心積もりをしていたのだ。

 この前、「山本丘人展」を平塚市立美術館に観て、その美術館の佇まいに気持ちの良い感じを抱いた記憶がけざやかで、それと同じ神奈川県の市立美術館ということから、茅ヶ崎市美術館を訪ねることに期待を抱いたのである。しかもその茅ヶ崎で生涯を閉じた萬鉄五郎の展覧会を開催するという、地方の美術館というものの矜持をいじらしいものに思いもして、訪ねる心積もりをしていたのである。

 美術館は、茅ヶ崎駅から十分ほど歩いた、決して広くはない松林の公園の、小高い丘の上に建っていた。あるいは昔この辺りから茅ヶ崎の海浜にかけてこうした松の林が続いていた、その残された一画なのかもしれないと思ったりしながら、うねくねと細い道を上る。すると、平塚の美術館とは比べものにならぬ、小ぶりな美術館の前に出る。そして、その入り口の一段下がったところに、一基の石碑が見える。

 近づいてその前に立てば、

虫が鳴いてる

いま ないておかなければ

もう駄目だといふふうに鳴いてる

しぜんと

涙をさそはれる

と陰刻された、八木重吉の「虫」の詩を口ずさむことになった。

 そうだった。茅ヶ崎で結核で死んでいるのは、なにも萬鐵五郎だけではなかった。確か八木重吉も、結核の療養のためこの地の結核療養所南湖院に入院した後、この地に住まい、鐵五郎同様ここで生涯を閉じているはずだ。短い命の切なさを、一人の結核患者として、これほど率直に訴えている詩はあるまい。そうこの詩の洗礼を受けてから中に入るように、この地茅ヶ崎市美術館は造られているのだ、と、勘繰りながら私は入り口のガラスのドアを開ける。

 萬鐵五郎の出展作品は四十五点、それで二階の会場が一杯になる程度の美術館の広さである。その小さな展示空間が、今日の私には、萬鐵五郎というこんもりした一つの小さな命の森に、それもどうやら、今出会った「いまないておかなければ」という時の言葉もあって、日本における結核文化の森にまでひっそりひんやりと入り込んだような感じを齎したのである。

 入るとすぐに、彼の代表的大作、特異な格好で広やかな草の緑の上に横たわった「裸体美人」(明治四五年)と、頭の上に小さな雲を載せた「雲のある自画像」(明治四五~大正二年)とがある。

 「裸体美人」は、彼の美校卒業ーーと言ってもこの時、萬は二十七歳になっており、既に二十四歳の時に結婚もしていて、後述する長女登美を儲けてもいたーー制作作品なのだが、下半身に真っ赤な布を纏って草原に横たわった裸体の上半身は、その腕のポーズと言い、その頭の豊かな描きっぷりと言い、どう見ても「美人」からは程遠いもので、これを「美人」と題した作者には、作品の制作に対する格別の気負いと思い入れがあったことを物語っている。

 本展では、この後、正面から裸婦像を描いた「もたれて立つ人習作」(大正六年)、「裸婦(ほお杖の人)」(大正一五年)、「宝珠を持つ人」(大正一五年)の三点があったが、そのどれもが、健康を通り越した頑健さを示していて、萬が女性に見ていたものが母性的逞しさだったことを伺わせる。

 それに並ぶ自画像の方は、憧れとしての母性的女性像の四分の一以下の大きさでしかない。暗い背景の中に、この自画像は、小学生を思わせる白い服を纏い、鼻下に髭を持ち、眼の回りの隈の深い陰った表情で描かれていて、「裸体美人」とは、格好のコントラストを成している。

 しかも、自画像の方はタイトルにもなっていて、それがテーマであることを告げているのだが、「裸体美人」の方も、裸婦の頭の上に、紛れも無く、雲が、それも自画像の雲と同じ色合いで描かれているのである。つまり、この二点は、雲によって、萬の現実と夢に対する認識をそれぞれに語っていることになりそうである。冒頭におけるこうした案内に続いて、以下、明るさなどはお義理にもあると言えない静物画や風景画が並ぶ。そして展示室の中央の、奥まった位置に飾られた「少女(校服のとみ子)」(大正一二年)という絵の前に立たされる。大正十五年 末に膀胱結核により十六歳で死んだ、鍔広の黒い帽子と黒い校服を纏った長女登美を描いたものだが、黒衣のせいもあって、とても十三歳の少女には見えず、成人の娘に見え、そう見えるように描いた父鐵五郎の願い、思い入れが偲ばれてし まう。

 この長女の運命や、長女の死の半年後、結核性の気管支カタルによって、長女の後を追うかの如く四十一年の生涯を閉じた、彼自らの運命を考えると、この絵でもそうなのだが、彼の用いる圧倒的な赤色と、多くの絵を支配する茶色が、私を暗く重い気分に引きずり込んでいることに気付く。

 そしてこの時だった。以前、京都の国立近代美術館で観た、二百点を越す作品と資料で大々的に催された「萬鐵五郎展」の、その主要作品の殆どを網羅した充実振りが、しかと思い出され蘇ってきたのである。その充実振りは、萬鉄五郎とは無縁の京都に美事結集していることによって、茅ヶ崎という、丘の上の小さな美術館が包み込んでいる、小さな「萬鐵五郎」展の齎しくれるこの重く暗い感覚の前では、何故かのっぺらぼうのようにすっかり蔭を薄くしてしまっていたのである。私はこの不思議を味わいながら先へと足を進めた。

 その後は、テーブル脇の椅子に掛けた日本髪の裸婦を描いた、先述の「裸婦(ほお杖の人)」(大正一五年)を除けば、小品ばかりで、その多くは、茅ヶ崎の海浜を初めとした風景画であり、とりわけ南画風な軸物の飄逸な風景画が目立つ。そしてそんな中には「海岸風景」と題した、結核療養所の南潮院を描いた油彩の一点もある。

 茅ヶ崎海岸の砂浜に置いた籐椅子ーー映画シルヴィア・クリスタルの「エマニュエル夫人」が掛けた籐椅子よりもう一回り大きなーーに腰を掛けた、短パン姿で鼻下に髭を蓄えた鐵五郎の、大正十五年に撮った写真が掲示してあったが、その鐵五郎の結構男前で健康そうな笑顔は、結核で後がないことなどおよそ想像しにくいもので、それが、如何にも結核心者の文化的なリゾート地=茅ヶ崎に相応しい明るさに思われた。晩年のこの小品群は、そのことを証しているように思われる。

 そしてその明るさの昔に、ここの南湖院で結核のため生涯を閉じた国木田独歩のことが思い出されもした。とりわけ、 死を控え、その枕辺に訪ねてくれた植村正久に唯祈れと言われても、祈る心起こらず、病床に泣いた独歩のことが想像されると、独歩が死んだ明治四十一年の初夏のその日、南湖院の辺りの明るさ晴れやかさはどんなであったのかと、思わず知りたくなってしまう。

 私は、その小さな美術館を出て、先程の八木重吉の詩碑を再び足許に見下ろしながら、松林の小道を下へ辿る。辿りなから来た時とは別の別れ道に足を運ぶ。この偶然の足の運びが、思わぬ出会いを私に齎す。道の先にずっしり背を丸めた石の碑の姿が目に入って来て、小急ぎにその前に下りて行って見ると、それは、平塚らいてう(一八八六~一九七一)の詞碑だったのである。例の「青鞜』発刊の意気を示した「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。」の文句が陰刻されていたのだ。

 石の裏面の文字に従えば、どうやら、『青鞜』の発刊を最も積極的にらいてうに勧めた発起人の一人保持研が,当時南湖院に入っており、平塚らいてうが、結婚した相手の画学生奥村博史を知ったのもこの地においてで、茅ヶ崎は『青鞜』縁の地として欠かせない場所になるというのだ。

 殆ど同性愛的にらいてうに親近した尾竹紅吉もまた南湖院にいたと聞いているから、そうなると『青鞜』は、その巻頭言からは思いもよらぬ、結核という近代病の療養所が醸し上げた文化だったことになる。

 私には、松の林に囲まれた小さな美術館の丘の、ささやかなこの空間が、小さくささやかである分、何ともいとおしくいじらしく思われてきた。南湖院の跡はどうなっているのだろうか、海底の今の姿はどんなものなのだろうか、知りたいし見たいしするが、時間的に私はもう帰らねばなるまい。この心残りを造作して帰ることの風情が、如何にも今日の一日 に相応しく私には思われてもくる。

(二〇〇七、二、二八)

 

 

 

 注1 後日気付いたことだが、カンディンスキーの「相互和音」は、一九八七年の初秋、京都の国立近代美術館で催された「カンディンスキー展」で観ていたものだと分かった。つまり、今回の反応には、この既見の親しみが大いに預かっていたと見なければなるまい。これを、忘れていることの幸せと言おうか。

 注2 鴎外の日記に従えば、鴎外は乃木将軍夫妻自刃の大正元(一九九一)年十三日の翌日乃木邸を問い、翌々日にはその納棺式にも臨み、五日後の九月十八日には、その葬に列して青山斎場迄送っており、「興津弥五右衛門の遺書」はその日に草して中央公論に送られている。それは、雑誌「中央公論』大正元年十月号に発表された。但し、現在一般に流布している「興津弥五右衛門の遺書」は、雑誌「中央公論』に掲載されたものを大幅に改訂し、大正二年に発行された単行本「意地』に収録されたもので、私の記憶に蘇った文章もこちらである。

 

 

 

 

 

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