川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

カナレットのサン・マルコ広場

 この春、上野の森美術館に『華麗なる18世紀イタリアーヴェネツィア絵画展』を見た。「18世紀」と限定されているために、ルネッサンス絵画の一翼を担ったヴェネツィア派の画家たちティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼといった史上名高い画家たちの作品には、一点もおめもじ適わなかったのは当然だが、「華麗なる」と銘打たれているだけに、美術のミーハーとして何とも物足らぬことだった。ただ、きっとその作品には出会えるであろうと予測していた。カナレット(アントーニオ・カナール、一六九七~一七六八)の他には期待通り会うことができた。

 世界でも珍しいヴェネツィアという水の都を訪れ、その風景を描き残した画家は多く、これまで展覧会場で私が見た日本人の画家の絵だけでも、浅井忠や島武二から三岸節子、荻須高徳に至る人達の、思い出し切れぬほどの数があるのだが、そうした、旅のエトランジェ(三岸節子の場合は少し違うが)の眼を通して見られたヴェネツィアではなく、ヴェネツィアに生まれヴェネツィアにその生涯を閉じ、一生を風景画家に徹したカナレットのヴェネツィアを、ヴェネツィアの絵画を語るときに逸することはとてもできない。つまり、カナレットという画家は、私にとってヴェネツィアと切り離しては考えられない存在になっているのである。

 そのカナレットの「サン・マルコ広場の眺め」(東京富士美術館所蔵)という、縦六一センチ×横九六センチ|カナレットの絵の殆どは、これ位の大きさで、この絵のように横長であるーーの一枚、しかもそれは、紛れも無く、一九九三年の秋愛知県美術館の「バロック・ロココの絵画」展で見た、カナレットの工房によってレプリカとして作られた、同じ題名の作品(リール市美術館所蔵)の原画であることが、それと分かる一枚に出会い、それによって、私は「ヴェネツィア 絵画展」への満たされぬ思いから自分を救うことができた。

 ところで、ヨーロッパの町々には、広場というものがあって、町の市役所なり大聖堂なりがその広場を見下ろすように建っている、町の顔のような場所があることは、先刻御承知であろうが、サン・マルコ広場はまさにヴェネツィアの顔として、この水の都を訪れる誰もが知る場所と言ってよい、つまり、ヴェネツィアにとって当たり前過ぎて有難味のない場所ということになる。しかし、その広場は、東西に長い長方形をなしており、南東の端が南に開け、海を望む船着き場に出ることができる以外は、殆ど四囲を建物によって四角く取り囲まれていて、西側と北側からは、建物の下を潜って出入りする以外に広場に出ようがないといった有り様である。従って、寸土を惜しんでびっしり建て込められた建物の狭間、狭い路地の張り巡らされた町を抜けてこの広場に入ると、豁然、大きく空の開かれたこの広場空間に胸が晴れ、あゝ、と軽い感嘆の声を上げよう仕組みになっている。

 その広場を、カナレットのこの一点は、広場の北側東寄りに立って、南から西に向かって広角に描いているのである。 四角く鋭く尖った屋根の鐘楼が、天を衝いて画面の中心に立ち、鐘楼の後ろ三階のビルが長く右手へ延びて鉤の手に建ち、画面左は広場に向かって建つサン・マルコ寺院の正面と、その奥へ続けてドゥカーレ宮殿が描かれている。

 画面の上半分以上は、鐘楼の後ろに白い雲の流れるけざやかな青空の広がりで占められ、この空間がこの街で持つ意味を伝えている一方、画面の下部は、広場北側の家並みの影によって黒く覆われ、陽がすっかり西に回った時の今を告げている。広場の寺院寄りには傘を開いたような物売りのテント が幾つか見え、二人、三人、五人と佇む人影が、広場全体に 散って沢山描かれている。

 ところがこの絵を眼にすると、たちまち、この画面の左手のサン・マルコ寺院を正面に据え、右手へそれに続くドゥカ ーレ宮を描いた、同じカナレットの「サン・マルコ広場」と題する、最近「ロー・コレクション」展で見た一点が思い出されてくる。つまり、南を向いて前の絵を描いた広場の一角を、広場の中央よりに歩んでクルリと左へ体を開き、東を見たとき、その視野に収まった景色が描かれたものである。画面の上半分が雲のなびく空であるこの絵にも、広場には日差しが注ぎ、物売りのテントの幾つかも散見できて、人々が三々五々なにがな屯して立ち話などしている。

 すると記憶の連鎖が更に進んで、その絵の描かれた広場の一角から、今度は右に体を開いて西を見たときの光景が描かれている、『デトロイト美術館展』で見たもう一点、「ヴェネツィア❛サン・マルコ広場❜西を望む」のことも思い出されてきた。無論、カナレットの描いたものである。

 それは一九九〇年の正月、渋谷の Bunkamuraザ・ミュージアムで見たものだが、画面左端に鐘楼の下部が描かれ、それより奥へ、四角な広場を囲んでコの字型に、ほぼ屋根の高さの揃った三階の建物が、まるで遠近法のお手本のような正確な線をもって連なっているという絵である。そしてやはり、そこにも描かれていた物売りの傘型テントと、散策する人々の群れの数々。薄雲の青空が穏やかに広がり、まだ低い日差しは南に当たる画面左手から差して、ものの影を広場にさやかに作っている。とりわけ、鐘楼の影が広場を横切り渡って、向かいの建物の屋根にまで及んでいるのは、描かれていない鐘楼の高さを窺わせて絵の印象を深くしている。

 しかしこうして今、このカナレットの描く一連の絵に拘泥して、その連想の渦の中に巻き込まれていると、一瞬、十八 世紀半ばの、ヴェネツィアはサン・マルコ広場の、絵画空間のこの一角に、それも、それらの絵の中に、10センチほどの背丈で登場している人物たちとほぼ同じ大きさに、すーっと自分が縮み立って行って臨場し、ぐるりと一回り広場を見渡している錯覚に捉えられた。捉えられた錯覚のままに、絵のサン・マルコ広場を自分が指ほどの小人となって歩いているのを別の自分が見るようなふうに思い、なぜか、小指ほどの自分の、どれほどにか小さい心臓の鼓動をまで私は開くような気がした。私は聊か慌て、この幻惑の魅力から逃れるように絵の前を離れた。

 離れはしたものの、暫くすると、私はアントーニオ・ストーム図録によれば、「一六八八頃~一七三四」とあるから、カナレットより一時代前の画家らしいーの「ブチントーロの出航」という、一三二×二六五センチという大きな絵の前に立っていた。それは、ドゥカーレ宮殿の船着き場のあるサン・マルコ運河に、飾り立てた沢山な船を沸き立つような騒がしさで配した、一目して、ヴェネツィアの祭典の光景を描いたものと分別出来る絵だった。すると、悪癖がここでも目覚め、途端に私は、これと同じ祭礼を描いたカナレットの「昇天節、防波堤のブチェンタウロ」と題された一点、大阪梅田の大丸ミュージアムで一九八七年一月に開かれた『ダリッチ美術館展』で見た一点のことを思い出した。それは、ドゥカーレ宮と大鐘楼を背景にしたサン・マルコ運河の桟橋に、今し、金色に輝く三層のブチェンタウロ (「金の小船」の意味を 表すbuzino'doroによる語だが、決して小船ではない)が接岸しようとするその周りを、これも飾り立てた数多のゴンドラが客を満載して漕ぎ進んでいて、建物も船も夕陽を受けてカナレットらしくくっきりとした輪郭で浮かび、画面全体が 燦然とまばゆい風景画である。

 ところで、西洋では、キリストの復活を記念する復活祭が、春の生命の再生を喜ぶ祭りとして人気が高いが、このキリストの復活の日から四〇日過ぎの木曜日に催される今一つの祭礼、それが「昇天節」であり、どうやら、この祭礼こそがヴェネツィアを寿ぐ最大の祭典であるらしい。それは昔、アドリア海からアラブの海賊を駆逐し、ヴェネツィアの永遠なる海洋支配を願い、ヴエネツィアが金の指輪を海に投じてアドリア海との結婚を誓った、そういう故事に行事は端を発しているのによるらしい。

 その昇天節のカナレットの作品に見られた、金と赤と夕方 の水のきらめきとの交響を思い浮かべ、私は目の前のアントーニオ・ストームの絵の騒々しさから掛け離れて、白秋・本太郎の「金と赤」の言葉の耽美に魅かれだしてもいる。そしてその詩人たちの言葉に憂愁のセンチメントを覚えるならば、それはヴェネツィアという傾き移ろい沈んで行く落日の如き街の運命に繋がるセンチメントのように私は思われ出している。

(二〇〇一・七・三〇)

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