川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

オルセーからの贈り物(その二)

         承前

 記述が前後してしまったが、この「芸術家の生活」の項の前に、三つ目として「はるか彼方へ」のテーマが設けられていて、芸術家達のオリエンタルな異文化世界への憧憬とその摂取の時代的傾向が取り上げられていた。形や図案にその特徴を持つ花瓶や鉢や皿が出展されていたのと並んで、ゴッホやゴーガンの作品がここに登場していた。

 ゴッホでは、「アルルのダンスホール」という、そのモチーフから言っても描き方から言っても極めてゴッホらしからぬ一点が、見慣れた「アルルのゴッホの寝室」の絵と並んでいた。この二点は、もう二十年もの昔、名古屋で観た百点に及ぶ『ゴッホ展』に出展されていたはずなのだが、今度この二点だけを一緒に観ると、紫紺と黒との枠取りに、どこかマンガ的なざわめきを実感させる「ダンスホール」の人物群像の面白さの横では、陰影を持たぬ「ゴッホの寝室」のベッドや椅子や机の色は、気の抜けたサイダーのように見えるから不思議である。ダンスホールの絵を見ていると、こういう場面を描くような暮らしの一面がゴッホにもあったかと伺われ、何故かホッとして気が楽になる。

 ゴッホ等の後期印象派になると写実的表現が崩れてきて、前記ルドンの代表的な作品群、悪魔を描いた鉛筆画などを見れば納得出来ることだが、デフォルメが進んで極めてマンガ的になってきていて、ゴッホのこのダンスホールなども、そういう表現の典型だろうと思われる。

 しかし私にとって、オルセーから来たゴッホの最大の贈り物は、前回の「星降る夜、アルル」の一点だった。これには初回の「アルルの女(ジヌー夫人)」の著名な一点も影が薄くなってしまったほどである。私は、ゴッホの描き残した星空の夜の景に接すると、この上なく夜の冷気に高く吸い込まれていくようで、どれだけ讃歎してもしきれない気分になる。

 ゴーガンも二点の油彩が来ていたが、その中の「黄色いキリストのある自画像」ーーこれも二十年昔、愛知県美術館に来た『ゴーギャン展』で既観のものなのだがーーは、小品ながら、明るいキリストの磔刑図と些かグロテスクな顔の肖像画の、二枚のキャンバスを背景にした自画像で、おそらく背景に寓意を読めもするのだろうが、そんなことに関わりなくゴーガンの顔の迫りくる力にやはり今度も脱帽した。尤も今回は、タヒチで作った木彫りの舟形の皿と額も来ていたが、こちらは手慰みに過ぎぬ、有り難みのとんとおこらぬ作品だった。

 ついでに、これまでオルセーが持って来てくれたゴーガンには、一回目の浜辺に二人の女が座る「タヒチの女たち」や二回目の同じく座る二人のタヒチ女と犬を描いた「アレアレア(愉び)」の優品があったことを記しておかねばなるまい。

 無論セザンヌの作品も毎回来ていて、今回の一メートルを越える先記したジェフロワの肖像画は、書棚の背景と絶妙の折り合いを以て机に向かって座る人物が、私のセザンヌに対する親近感を増さしめる極上の風合を持っていた。夫人の肖像画も来ている(前回)し、お定まりの「サント・ヴィクトワール山」(今回)や、「水浴の男たち」(前回)なども来ているのだが、私には、その構図や配色に下手な細工や気取りがまるで感じられなかった「レスタックから見たマルセイユ湾の眺め」(前回)という風景画が印象に残っているから妙だ。

 ゴッホ、ゴーガン、セザンヌのオルセーの出展について書いた以上、ドガとボナールの出展についても書いておかねばならない気分になる。

 今度も、ドガの作品は、前記「芸術家の生活」の項で紹介した、椅子に掛けたクロード・マネのスケッチの他に、正装した妹を油彩で歴と描き上げた肖像画と弟の顔のスケッチ二点が出ていて、それなりの面白さはあるというものの、踊り子の画家として名を成しているドガに相応しい出展とは言えない。その踊り子の彫像が一回目に三点、入浴に関連しての体を拭く女体像が二回目に三点、それに油彩画では、舞台で踊る踊り子たちの下半身を遠景にした「オペラ座のオーケストラ」の演奏する楽団員を描いた作品(初回)、「カフェの中で」アブサンの置かれたテーブルを前に虚脱したポーズで座る一組の中年の男女を描いた、その構図によって浮世絵の影響の好例として名のある作品(前回)の二点を逸することができない。とりわけ「カフェの中で」は、ゾラの小説の一ページに出会ったような塩梅で、私には珠玉の一点になっている。

 ボナールの今回は、猿と鵲との連なった大きな枠取りの中に、海原で海の獣と戯れる三人の女や、その背後の赤い実も撓わな樹下で男が一人座っている小島や、そうした傍らを過ぎる、船端からそれらを見下ろす人達の乗った大きな帆船を描いた「水の戯れ、旅」と題する一点だったが、見慣れた彼らしい風俗画からは遠く、まるでブリューゲルやスワーネンブルグの世界が、ボナール的に蘇ったような面白さだ。それにしても二メートルに三メートルはあろう大作なのだが、ボナールの場合、描かれた室内や風景の空気・大気感を確実にこちらに伝えくれるのは、その作品の大きさに与かっているように私には思われる。そういう点で、初回の四曲一隻の「乳母たちの散歩、辻馬車のフリーズ」と題した、リトグラフによる屏風絵、緑豊かな広い庭で紳士淑女がクロッケーに打ち興ずる「黄昏」を描いた油彩画、二組の男女が一部屋を占める濃密な「桟敷席」の油彩画、二回目の庭のテーブルを囲んで十人もの家族が寛ろぐ「ブルジョア家庭の午後」と題する一点、大きな鏡に向かって湯上がりの裸婦が立つ「化粧」と題するボナールらしさの典型的な一点など、どれもが、その作品の大きさによって、ブルジョア的豊饒さをこちらに伝えて寄越したものだ。

 それはさておき、本展覧会の最後は「幻想の世界へ」という主題で締め括られていたのだが、その締め括りの最初の、如何にも特別な一点と言いたげな配置で、ギュスターヴ・モローの「ガラテア」が飾られていた。海底の洞窟内に腰掛ける姿でいる海の精ガラテアの、モロー流裸像のまさに耽美的な美しさ。そのガラテアを岩の間から覗き見ている巨人の一つ目も、ガラテアに見取れた私の目には写っても、見咎められることなく、意識されずに過ぎてしまうほどにもそれは美しい。そしてここにまた、ルドンの「キャリバンの眠り」の一点が出ても来る。巨木の根方に、左手を手枕にするようにして凭れ掛かって、「テンペスト」のキャリバンが眠っており、それを見詰めるように三つの小さな白い顔が宙に飛んでいるという、ルドンらしい面白い絵だ。

 そして、今回の締め括りは、ジョルジュ・ラコンブのベッドの四面の木枠に彫った彫像になる。ベッドの頭の部分の「存在」、左右両側の「愛」と「死」、それに足許の「誕生」の四点だが、「存在」は、ムンクの絵のように、周囲に精子が彫られていたりして受胎の場面を掘ったものであり、「誕生」は今正に胎児が陰門から取り出される所を彫っており、「愛」は男女の交合の様を、「死」は女が死んだ男に縋り付き、その陰部に目を遣っている様を、それぞれ彫り上げている。

 このエロスの表現に徹した四つの彫り物の板に囲まれたベッドで、一体どんな安かな眠りを得ることができるのだろうと気になるのだが、ベッドとは紛れもなくこの四つの行われる場であることを思えば、これぞベッドの精髄と、このベッドで、安堵の眠り深やかに鼾を上げることが出来るものなのかもしれない。「うーん、ねてみたい」という三船敏郎の声が聞こえそうである。

 会場の博物館を出たのは、まだルミナリエの明かりが灯るには間のある時刻だった。私達はそれまでの一時を、休息をかねてハヤシライスの店で過ごそうと考えた。店へ入って驚いた。先程の女将が、どうでしたと笑顔で迎えてくれたが、店内はほぼ満員で、カウンターの中から女将がここへと指で前を指してくれたその席へ、我々が並んで掛けると満席になってしまったのである。どうやらみんなルミナリエの点灯待ちのお仲間らしい。隣席の二人の御婦人は、ルミナリエの散策を済ませたら、今夜は淡路のホテルへ行くのだそうな。

 私達は、女将が前から差し出してくれたコーヒー茶碗を受け取り、一寸多めにシュガーを入れると、湯気の立つ茶碗を乾杯でもするかのように相手に向けて差し上げ、ゆっくりそれを口に運ぶ。

 店の外に、漸く黄昏の気配が色濃く漂い始めている。

 ルミナリエの、今宵の光の曼陀羅の世界に、私の心があくがれだしている。 

 

(二〇〇六、一二、一五)

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