川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

「春の花」に辿り着く迄(その二)

承前

 昼食後、私達は上野の森美術館で催されていた「ダリ回顧 展」を見ていた。

 私がダリの作品展を初めて見たのは、まだダリが生存中の 一九八二年のことで、新宿の伊勢丹美術館でのことだった。 その時の出展作品は、アメリカから持ってきたものが主で、メトロポリタン美術館の「磔刑」や、同じくニューヨークからの「ヴィーナスの夢」など、結構大きな作品が何点も出展されていた。初めてだったこともあって、結構迫力を感じた ものである。ダリ定番の歪んだ懐中時計や、「抽出しのある ミロのヴィーナス」や赤い唇型のソファなどのオブジェも何 点か出ていて、満足出来た記憶がある。どんなにダリが現実 を歪曲変形し、重力を無視しようとも、現実的存在から解き 放たれた色や形は一つもなく、常に宗教や神話や歴史といった、人間の造ってきた現実に縛られ、縛られた揚句獲得され た、一種の人工的風景画でしかないことを知らされた。

 あの時からやがて四半世紀が過ぎようとしているが、今度の、丁度生誕百年を記念してのダリの回顧展でも、かつて得た人工的風景画としての私のダリ認識に修正を施す必要は生じなかった。どれほどの怪異であったにしろ、あくまで現実 に立脚した人工的な風景であると納得した以上、最早それは 異様ではなく、おまけに今回の出展作が、どれも五十センチ にも達しない小品ばかりで、その分一層異様なものも可愛く 見ておられ、その分一層増していく驚きから遠い退屈に悩まされる羽目になった。もう、きっとカタルーニャのダリの美 術館などを訪ねない限り、ダリへの驚異が実感されることは ないであろうな、と、そんな感じがしてきて忙しくなっても きた。

 私は出口で図録をもとめ、その装丁の面白さこそが、今度 のダリ展の収穫だったと思うことにした。私は無口になっていた。

 そして、彼女とは千葉駅で別れた。もう日は暮れていた。 彼女は四街道の自宅に帰っていき、私は駅前のホテルに向かう。

 翌朝は、ゆっくり起床してゆっくりホテルで朝食を取り、 例の千葉市美術館に出掛けた。

 浦上玉堂の大々的な展覧会なぞ、この先こちらの元気なうちに企画されることはまずあるまいと思われるし、川端康成 が、国宝に指定されている玉堂の「凍雲飾雪」を持っている こともあり、彼の玉堂への親しみぶりからしても、見ておかねばならぬように思ったのである。

 しかし、玉堂自身が製作した七弦琴や、刀剣、印鑑などこそあれ、二十点程の書と二百点に及ぶ画、それも色彩に乏しい水墨山水画ばかりをひたすら見て廻らねばならぬということになれば、これは相当な忍耐を要する苦行というものだった。

 しかも、山水の構図は、全て遠景上段の屹立する山々と、 近景下段の草庵を囲む木立と水辺によって等しく成り立っているとなれば、出来不出来の差など問題ではなく、まさしく ワンパターンの絵二百点もの見物となって、辟易しないのが おかしいというものだ。

 玉堂の絵について、川端康成は「私にはすこぶる近代的なさびしさの底に古代の静かさのかよふのが感じられて身にしみる」と、「反橋」の中で言っているが、かれの所持した国宝「凍雲飾雪」の前に立っても、相似た絵の並びの中では、 さびも静かさも御尤もな名目に終わらざるを得ぬ。

 ただ、これも康成が、一美術史家の「山は男根のごとく描くべし、谷は女陰のごとく描くべし」という言葉を玉堂の言葉として紹介し、「まつたくそのやうな形の山や谷が玉堂の絵にはある。そして男根のごとき山や女陰のごとき谷のある絵を、私は玉堂の絵のうちでは好かなかつた。しかし、言葉を聞いた後では、絵を見て吹き出すやうなのもあった。」とか、「私は玉堂がほんたうに言ったのかどうか知らないし、 脱俗を志した南画家のなかでも最も脱俗の玉堂だから淫らではなく、もし言つたとすると、華国の古くからの陰陽の考へ に出てゐるのかもしれないが、孤独隠逸の琴士が寂寛漂旅の うちに、男根の山、女陰の谷を描いてみたと思ふと、私はさびしくおもしろかった。」(「天授の子」)とか書いていたことを、無論作品の言葉どおりではないのだが、ただの助平根性から思い出して、魔羅そっくりの山貌を見つけては苦笑し、これが女陰に当たる水辺かと妄想して、疲労を紛らせた。

 しかし、そうした中で、画中の山の中腹や林の外れに、まるでヘリポートのように白い空白の台地が円形に描かれている作品に、何点も出会ったのだが、あれは一体何だったのだろう。中には、その白い円形が幾つも描かれている変なものまである。こういうのを見ていると、きちんとした構想などもなく、手軽にその場の思いつきで適当に作品が描かれているとしか私には見えなくなる。それが文人画というものだと際だって実感され、私の人物画への傾倒を決定的にしたのであろう。描かれた対象の人物と目を交したくなるほどに、山水画後遺症が発症していたのか。

 几帳面この上ない描写力が魅力のファンタン・ラトゥール の少女の胸像におけるつぶらな瞳、同じラトゥールの、白いドレスをつましく纏った立ち姿のルロールという夫人の眼差 し、そのルロール夫人とその幼い娘(椅子に掛けるこちらの 夫人は帽子もドレスも漆黒で装われ、その母の膝元に縋るようにして立つ娘は純白に着飾った姿である)をアルベール・ ベナールが描いた大きな作品の、その親子がこちらを見つめる目、それらの視線を受けながら、私は、暮らしに困ることのない人達の、柔らかな幸せに浸ることができ、穏やかな気分になっていたのであろう。外の忙しない現実からも、一瞬にしろ私は救われていたのであろう。

 しかし、そんな成り行きの中で、「赤いスカーフ、モネ夫人の肖像」というモネの作品に出会った時、私の胸はきゅーんと締め付けられてしまったのである。

 絵は、灰色の寒そうな部屋の中から、両開きのドアのガラス越しに、雪の舞う戸外が望まれ、そこに、暗く厚い冬衣装 を纏い、上から赤いスカーフを被った夫人が、こちらを、つまりこれを描く夫モネを振り返るように見て立っている。そのこちらを見る夫人の、大まかに淡く描かれた表情が、私には何ごとか訴えるように哀しげに見えたのだった。 そして、雪の屋外に立つこの夫人像を見た途端、もう何年も前の「オルセー美術館展」に出ていた、モネの「死の床のカミーユ(モネ夫人)」という作品が甦った。それは、死んだ妻に対する悲しみの激情が、殆ど怒りの筆刷けになって描き上げられたような、白いヴェールに覆われた死の床のカミーユの顔だった。その白い筆走りで覆われた画面は、そのまま死にゆく妻を見送ったモネの真っ白になってしまっている 気持ちそのものに見えた。夫人の顔が哀しげに見えたのは、 その背後に、この彼女の死の床の顔が重なっていたからだろうか。これは後で確かめたのだが、赤いスカーフの絵が完成 したのは一八七八年、そしてカミーユ夫人が亡くなったのは、彼女三十二歳の翌七九年のことだったのである。

 それにしても、モネの妻カミーユをいとおしむ思いが、ひたとこちらに伝わるーー無論それが私の独りよがりな錯覚妄想であったとしてもーー体験に、私はすっかりいい気分だった。

 そして、この気持ちを保証するかのように、もう一枚のモ ネの静物画の大作が、その新鮮な魅力で私を捉えた。「春の花」と題したその絵の、牡丹や紫陽花などの花々はしっかりと写し描かれていて、しかも全体が花一杯のがっちりした構図が、まるで堂々たる城のような重さを感じさせるのである。そこには後年のジヴェルニー(移ってからの睡蓮の花などの描き方とは異なる几帳面さがあり、その真面目な態度が、そのまま画面に出ている絵である。私は、プレートに記された製作年次を確かめる。一八六四年とある。モネの生没年も記されているので、これが、モネ 二十四歳の作品であると分かる。同様に先のルノワールの少女像も確かめてみると、こちらも一八六四年、ルノワールニ十三歳の作だと分かる。つまり、モネが「印象ー日の出」を発表する八年も前のまだ無名の時代の作品だったのである。私はその真面目な花との取り組みを見、その先に妻カミーユをいとおしむモネを見直した。それは、殆ど、今度の展覧会 巡りの締めくくりを、なんとか巧く付けようという暗々裏の私の心の動きのように見えもした。

 なお、この展覧会の人物像では、他にも、ドガの公爵夫人像、マネのベルト・モリソ像、ピカソの「ケープを織った女」、ロヴィス・コリントとロットルフのどちらも帽子を被った自画像など、見応えのある作品があったことを記しておこう。

(二〇〇六、一二、五)

 

 

 

 

 

 

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