川柳 緑
543

えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

「春の花」に辿り着く迄(その一)

 去年十一月の、散々な展覧会行脚については、「骨折り損の草臥れ損」に託ち上げた通りだが、早いもので、あれから一年、あの時並べた御託なぞどこ吹く風、またぞろ、何に踊らされてか、花火のように打ち上げられる前宣伝の御利益覿面、去年同様幾つかの企画展を一泊して見に出掛けてしまったのである。そして、いつもの彼女を、一日付き合わせたのも去年どおり。

 彼女を呼び出したのは上京した日で、その日は「ベルギー王立美術館展」(国立西洋美術館)、「仏像」展(国立博物 館)、「ダリ展」(上野の森美術館)の三つを、全て上野の山で見て過ごしたのである。

 三つの中で、最も感動の乏しかったのが、最初に見た「ベルギー王立美術館展」だった。ベルギー王立美術館の作品展が、これまで日本で催されたことがあったのかどうか、私にとっては初めてのことで、しかも、予てよりプリュッセルのこの美術館を訪問することは、私の夢でもあったのだから、それなりの期待をしていたのだが、それが見事切られてしまったのである。ただ、私に、最も不可思議な絵として長い間記憶されてきたピーテル・プリューゲル(父)の「イカロスの墜落」と、これまで画集などで見た記憶もない、スワーネンブルグの「地獄のアイネイアス」という一点に、面白く出会えたことを別にして・・・。

 それにしても「イカロスの墜落」の不思議は、その題名自体に疑問符を打たざるを得ないような、一見したところは、丘から海を見やった風俗的な風景画に過ぎない点にある。馬に引かせた耕作機を使って土を耕す近景の男、その向こうの一段下の狭い土地に描かれた羊の群れと羊飼いの男と犬、その向こうに帆船を浮かべて広がる海と水平線の 彼方に霞む都邑や山々へと視線が及んで、はて?と目を凝らして初めて、海に落ちてばたつくイカロスの足が描かれているのに気が付く寸法である。そして、ばたつく足の手前の岸で釣り糸を垂れている男は、まるで目の先のイカロスの足に気付かぬごとく描かれている。

 つまりこの絵は、見る者が、描かれた画面の中に、漸く水面に突き出た二本の足を発見することによって、イカロスの墜落に気付く仕組みになっていて、それを通じて、当のイカロスが、誰にも気付かれないまま海に没し去る、言ってみれば、気付かれることのない存在として存在したに過ぎないことの表白になっているのである。

 しかも、私には、プリューゲルがギリシア神話に題材を採るなどというのは、珍しいことに思われていたのだが、その珍しさに呼応するかのごとく、作品の左下に貼られたプレートの解説に、作者の真筆性について疑惑が持たれ続けていることが記されていて、揚げ句、この作品の仕上がりのミステリーが、私を不思議な迷妄混沌に誘い込むことになり、嬉しくなってしまったのである。

 冒頭、このミステリアスな作品に出会い、それに続いて、私はヤーコプ・ファン・スワーネンブルグの絵に出会う。それは、同じくギリシア神話に材を採った、初めて知る不可思議な画像で、ボッスの作品に通じる不思議さである。以前「『聖アントニウスの誘惑』への誘惑」の中で記した、ヤン・マンディンの絵に似て、しかも、迫力はあれに遥かに勝る一〇一×一五〇センチの大作なのである。

 画面右下には、巨大な魚のような怪物の、歯を剥き出し にした巨大な口中の暗黒に、数多の人間達が飲み込まれようとしている場面が描かれている。その場面から、私は歯 の彼方からの遠い昔の囁きを聞く。囁きは、人を飲むその 怪物の口が、かつて見たブリューグルの銅版画「最後の審 判」に通っていることを耳元に伝えてくる。

 それこそ、もう三十数年前の、私がブリューゲルの作品を極まって初めて目にした展覧会のことだ。今のように芸術センターとして建て替えられる以前の愛知県美術館で見 た、それは「ペーテル・ブリューゲル版画展」にあったものだ。あの図録には、確か渡辺一雄がガルガンチュアやパンタグリュエルとの関連で文章を書いていたし、野間宏も自作の「暗い絵」との関係で文章を寄せていた筈だ。あの時、「大きな魚が小さな魚を食う」や「七つの大罪」の組を始めとする多数の版画が私に齎したハチャメチャな喧噪混乱が、今彼方から怪奇な笑いになって返ってきたのだ。

 展示プレートに記載されているスワーネンブルグとブリューグルの生没年を比べると、スワーネンブルグの方が四十年程後だ。だとしたら、この場面には、ブリューゲルの作品が生かされたのかも知れない。過去からの囁きが、目の前のこの絵に対する興味を広げる。画面左手には、宙を羽ばたく大蝙蝠の羽のような帆船が描かれ、裸の人間たちがそれに乗り群がり、そればかりか、そうした裸の人間共は、手前の地上を化け物共に追い立てられ、あるいは上辺の宙を群がり飛んで逃げ、あるいは群がり落ちたりもして いて、それが人間共の悲惨な地獄を描いたものであろうことは、最早問うまでもない。背景にあるのは人間を飲みつつある海であり、数ある塔や橋の構築物は火を吹き上げて空を赤黒く染めている。

 地獄の細密画ここにありと言ったこの描きっぷりを見入っていると、これを夢中に描いている時の画家スワーネン ブルグの顔付き目付き、さらにはその口付きまでが偲ばれてくる。

 そして、こういう不可解不可思議な二点に出会えば、その後の出展作品は、殆ど当り前過ぎて、魅力を失って見えたとしても致し方ないことだ。お蔭で、アンソールも、デルヴォーも、マグリットも、彼らの作品に見慣れていることもあり、最早何程の不思議も私に齎さなくなってしまったのである。こんな結果になろうとは意外だった。揚句、落胆の吐息をついて館外に出ることになる。

 西洋美術館を出たら、彼女が、お昼は仏像展を見てからにしましょと言うので、私たちは博物館に向かった。平成館での一木彫りの仏像展は、ベルギー王立美術館展より遥かに賑わっていた。これは、NHKなどのテレビによる紹介の効果であろう。

 木彫に目のない私の妻は、この展覧会の紹介をテレビで見ると、それこそ取る物も取り敢えず一人で見に出掛け、興奮した口調で感想を私に語っていたのだが、確かにテレビに映されたその仏像達は、充分一見に値すると、私の感興を刺激もしてくれていたので、妻の発言を恨めしく思うこともあるまいと、心を安じて入館した。

 京や奈良の寺院や国立博物館の所蔵仏はともかく、地方の寺院の仏像などは、その地方に赴くことのこの先の覚束無さを考えれば、それだけでも、つい目が凝らされてしまう。中でも、今回の出展中、私にとっての期待は、何と言っても十四点にも及ぶ十一面観音像との目見えだった。

 とりわけ滋賀の渡岸寺の二メートル近い十一面観音像は、思わずホッと溜め息の出る作品で、国宝であることに素直に領くことができる。薄く開けている切れ長の伏し目の顔は、涼しげな鼻梁と澄明な音楽が聞けそうな唇と共に、こちらを瞑想に誘う優しさーーそれこそが仏の慈悲というものだろうーーを備えていて、頭に幾つもの頭を乗せながらも、決して頭に重さを感じさせない、何ともいい姿なのだ。そして、何よりもその軽やかさを齎してくれているのが、殆ど女性的と言っていい仏像の腰の捻りだと分かる。私は見惚けるとはこういうことだと立ち尽くす。殆ど膝まで届いている、下げられた右手の長さも気にならない。斜め下から、横からと、見上げて回っても、崩れないお顔の美しさに恭悦し、背後に回れば、後頭部に、それ一つ口を横に大きく開いた笑い顔が彫り出されていて、正面の尊顔との異様な落差に、思わずこちらまでにやりと笑いを誘われる。仏が身に纏った天衣の作る曲線と、肩から背にかけて垂れ下がる幾筋もの髪のうねりが織り成すリズムの見事さ。仏像の頭髪というものをきっちり結い上げられているものとイメージしさっている自分の蒙味が、見事叩きのめされて、背筋に寒気が走って恥ずかしさ一杯になる。そして、与謝野晶子は仏像の乱れ髪を知っていただろうかとふと思ったりもする。

 この肩を覆う垂髪の魅力は、渡岸寺の立像とほぼ同じ背丈の、奈良薬師寺の十一面観音像(重文)においてよりリアルに発揮されていた。この立像は、昔の顔面の鼻も口も、頭上面のどれもこれも、すっかり表面が擦り減って、顔立ちのけさやかさを失い、それが仏のおっとりした豊かさを却って醸し出しているのだが、後頭部をたっぷり流れる豊かな長髪が、波打って両の肩を覆う麗しさは、この像に腰の捻りはないものの、それを補うに足るだけの優しさを作り出している。製作年代の表示を見れば、薬師寺のは奈良時代八世紀、渡岸寺のは平安時代九世紀である。腰の事と言い、肩の髪の様式化と言い、渡岸寺の観音像の美化洗練化は明らかに見て取れる。

 今回の一木造り展には、平安時代から生じた鉈彫り像も 何点か出展されており、私にはこれも初見のものばかりで、それが鉈彫りであるにも拘わらず、減細でさえあるその巧緻な出来栄えに、恐れ入り脱帽した。

 中でも神奈川県弘明寺の十一面観音像(重文)は、腰の捻りの代わりになのだろうか、一寸小首を傾げて彫られており、体に比べて顔面の彫りを細かくして美しい。さらにも、一大驚異は、個の顔が正面真っ二つに割れて、割れた 顔の下から今一つの顔が表れているという、まるでアーノ ルド・シュワルツネッガーの映画を先取りしたような、京 都西往寺の宝誌和尚立像(重文)という一点との出会いで ある。この和尚、どうやら中国の神通力を持った人物らし く、顔の下から表れるのは十一面観音だということだが、 私には只々珍奇で、仏像世界の広さに驚愕する。

 その他、京都願徳寺の国宝の菩薩半跏像や、東京国立博物館の重文である唐から渡来の小さな十一面観音像など、語りたい作品に事欠かないが、もうそれはおくこととしよう。ただ、ここでは、こうした仏像群に接した続きに、如何に一木造りとはいえ、併せて五十点を越す円空と木食の作品を見せられた時、私には最早何の有り難みも起こらず、それらが持っていたはずの微笑ましささえも、格別に覚えることがなかった事実を書き留めておこう。

 もう一時を過ぎていたので、私達は、精養軒に行き、ヴェランダのテーブルに席をとって、青空の下の彼方の街と上野の緑を見やりながら、お定まりのランチに舌鼓を打った。

つづく

 

 

 

 

 

 

P /