川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

微笑ましき惚け味 ー愛しや鈴木信太郎

 十月二十四日、風が秋爽の天空を招いてくれたその朝、私は横浜に向かった。

 まだ訪ねたことのない平塚市の美術館で催されている「山本丘人展」を見て、久しぶりに鎌倉を訪ね、これもまだ未訪問のままになっている鏑木清方記念館に、「にごりえ」の原画展を見、最後に横浜へ戻って、そごう美術館に「鈴木信太郎展」を見ようと目論んで出掛けたのである。

 こういうことになると、早起きもなんのその、六時に起床して、八時前の「ひかり」――というのも「ジパング」の割り引きを利用するからで、前日、その普通席が売り切れていたために、グリーン席の贅沢気分をちょっぴり味わう結果になったのだが――に乗って新横浜に向かう。お陰で、購入したサンドウィッチとお茶とを車内で取る働食が、私はゆったりと気持ちのよいこれまた贅沢な時間になる。

 一睡して新横浜に着き、東神奈川、横浜と乗り継いで平塚駅に降りると、十時を二十分過ぎていた。私はタクシーで美術館に向かう。タクシーの運転手が、初めてだという私に、素敵な美術館だと自慢気に案内する。

 確かに、美術館の展示室は明るくて見やすく、白い壁面が気持ちの伸びやかに広がる空間を作っていた。

 その白い壁面に、山本丘人の絵が掛け連ねられていく。一九二〇年代から五〇年代に掛けての作品、その女性像、モダニズムに捉えられた都市の風景画、庭や木立を描いた風景画の、どれを取っても私には下手なもので、何の感慨も樹さない。若い絵描きなら、下手は下手なりの気概や気取りといったものがある筈なのに、まるでそれが私に感じられない。

 ただ、五〇年代から六〇年代に掛けての十五年程の間に描かれた、私の記憶にはっきり残されている一連の作品群、山岳と河川が太く鋭く力強い線によって捉えられた山水画には、裏切られることのない記憶の迫力が、まざまざ甦って感じられ救われる。凍るような寒々とした堅固さ、それが丘人の捉え達した一つの世界として、私を納得させるのだ。

 しかし、それが、七十年代(七十歳代)に入ると、再び私をがっかりさせる絵に戻る。

 人物を木々や花々の中に置いて、紛れもないそれこそが丘人のロマンティシズムだと訴えているような何点もの作品は、私には時代遅れのアナクロニズムとしか言いようのないものばかりで、それが最晩年の八十年代(八十歳代)の作品になると、図柄にも彩色にも、杜撰と幼稚に磨きがかかっていくばかりなのである。晩年のユトリロの絵が随分間の抜けたものになり果てるのを見知っているが、ユトリロにはまだそこに惚けたユーモアが生まれていて、苦笑することが出来た。だが丘人の絵にそういう愛嬌はない。

 丘人は八十五歳で亡くなっているのだが、その晩年の十五年の作品を、同じ日本画家だった高山辰雄や、前に記した三岸節子の晩年十五年の作品と比べてみれば、その作品の不甲斐ない老衰ぶりは明白なことだ。それでも丘人は文化勲章を受章し、三岸節子がその栄に浴することはなかった。私は腹が立ってきた。早々退室するに如かずと、運ぶ私の足が荒々しくなる。そして館外に出て私は秋空に深く息を吸う。

 大船で乗り換えて鎌倉に着くと、十二時を過ぎていた。駅前を小町通りへ折れて、以前一度入ったことのある蕎麦屋に行き、天麩羅そばで体を温める。

 食後、小町通りを北に少し辿って西に折れゝば、南側に木清方の美術館はある。彼の純和風住宅の一階を改装して美術館にしたもので、格子戸の門を潜って玄関に至るまでの佇まいが、清方に相応しい風情を残してはいるものの、展示のために三和土にされてしまった一階は、屋敷の趣をすっかり失い、お陰で展示されている彼の作品の精彩までもが殺がれて見える。色紙に描かれた数点の、挿絵として見慣れた「にごりえ」の原画を見ても、色紙の汚ればかりが目に残って、格別の感慨など何も湧いてこない。

 館内は既に暖房が入っていたが、私は少々小寒くなって表へ出、駅前に戻って温もりを得られそうな喫茶店を探す。揚げ句、駅を正面に見る二階に喫茶店があるのを認め、私はそこを訪れる。友達とお喋りをしたり、一人読書をしたりするに相応しい、そんな喫茶店でゆったり腰を下ろしてコーヒーを吸った。六百八十円のコーヒーを喫しながら、私は文字通り一息入れることができた。

 そして横浜駅前の百貨店そごうに私は向かう。六階のそごう美術館へはこれまでも訪れた記憶があるが、はて、何の展覧会で訪れたのか。

 ともあれ、この百貨店の美術館と名乗る展示室の天井の高さは、平塚美術館のそれに遠く及ばない。それだけ鑑賞者にゆとりを感じにくくしている訳だが、それだけ作品が見る者の目と等しい高さに置かれて、身近に見ざるを得ないということでもある。そういう空間に、鈴木信太郎の作品が、百五十点から出展されていたのである。

 信太郎(私はいつもシンタロウと呼んできたのだ)の作品は、その風景画、静物画、人物画のどれもが、日本的な省維と枯淡の味からは遠く、たっぷりと豊満で、溢れんばかりの絵の具の、「尖鋭」の語をまるで寄せ付けない着彩の温もりによって、こちらを包み込んでくれるのである。その包容されるような心地よさには、展示作品に、小さな絵は数点しかなく、半ば以上が、一メートルを越す大きさであること、そうかといって二メートルを越すようなバカでかいものも皆無であること、それが預かっているに違いない。私は、一九二〇年代から年を追って並べられていく信太郎の作品を、まるで観客の少ない会場を、独り占めにしている気分で半分楽しく半分寂しく辿る。

 一体、私が彼の作品に親しみを覚えたのは、彼の描いた小説の挿絵や、本の装丁を通じてで、その名が、辰野隆之や渡辺一夫と並んで著名な仏文学者と同一だったのに依る。あれはもう教員稼業に入っていた二十代半ばの昔だと思うが、私が読んだ岩波文庫のヴェルレーヌやマラルメの詩集は鈴木信太郎訳だったし、その発刊を待ち構えて照ったヴイヨンの詩集も鈴木信太郎の訳だった。それだけに、それらフランスの詩人の詩の世界とはまるで掛け離れた、惚けた風合いの、ユーモラスな絵画世界を生み出す同姓同名の画家の名前が、私には逆に極めて身近で親しいものになったのである。その画風と共にすっかり愛着したのだ。

 その信太郎の作品の中でも、これまでその油彩画を見た。記憶のない人物像に、私の格別な関心が及んだ。百点を越す油彩画の中で、人物画は三点の裸婦像を含む十点程に過ぎないことを思うと、あんなに小説の挿絵を描いたのにと、些か不思議になるが、静物画や風景画のように生身の人物を目の前に留めて描くことは、信太郎には特別な緊張を要することだったのかも知れない。

 その少ない人物像が、私を引き付ける。数が少ない分だけ、関心も高まるということか。

 最初の人物像は、浴衣姿の一九二四年作の夫人の真正面からの胸像で、次ぎは二八年に描いた冬の羽織姿に襟巻きを巻いたこれも正面を向いた婦人の半身像であるが、このモデルが同じであることは瞭然、そして二枚目の方が顔に緊張がなく穏やかな笑まいを漂わせているあたり、信太郎の妻がモデルを蹴めたものと想像が行き、三年が結婚した年であることを知れば、浴衣姿の顔が固い表情になっているのも頷けることになる。大らかな筆の運びと青い色の用法に、二点とち、微笑ましさと、描かれた女性への愛)みの目差しを感じることができる。

 次いで一九三二年に描かれた、裸婦像一点と、どちらも椅子にかけた女性像二点に出会う。アトリエのカウチに身を凭せた裸婦は、不足のない身体を持っているにも関わらず、酷く硬直していて、女体の柔軟さをまるで感じさせない。それでいて、モデルの強ばって幼げな顔のせいだろうか、絵に対していじらしさを覚えてしまう。それから、オカッパ頭の少女像と、深い緑の帽子とワンピースを身に纏った娘像を見て、私は、何故か安井曾太郎を思い出した。こういう無表情に近い、あるいは無表情の生み出す表情の面白みといった、人物像を安井曾太郎も描いていたように思う。無論安井の方が先輩だが、二人とも一九三〇年代半ばまでは、同じ二科会に所属していたのだ。信太郎が安井の作品に影響を受けることは充分考えられることだろう。そういえば、信太郎の樹木のある風景画など、安井の風景画の色彩の配合に結構似ているように思われる。こういう思いつきが、信太郎への親しみを豊かにする。

 さらに、三五年の女性像二点と、五〇年の婦人像一点、裸婦像二点に出会い、個太郎的人物像の、挿絵の人物達では味わえなかった醍醐味に、私は浸ることが出来た。特に椅子に掛けて正面を向いた二点の裸婦像は、その背景の絨毯の模様の色合いの中で、ゆったりと豊かな肉体が華やかに栄えていて、彼の花や果実の静物画同様、色彩の豊満さをたっぷり味わうことが出来た。

 その色彩の豊満さこそが、信太郎の油彩画の骨頂で、その色彩の海にこちらが浮かび漂う時、まるで広く大らかな出で湯に浸っているような気分でいられるのである。

 そしてこれは、信太郎の九十三歳で没する晩年まで、変わらず続いている。それは、昼前平塚で見た山本丘人とは雲泥の違いで、しかも信太郎は三岸節子同様、やはり文化勲章に縁がなかった。

 その違いは、二人の展覧会の会場の違い、丘人の平塚美術館の、天井の高い光の明るいさわやかな展示室と、信太郎のそごう美術館の、天井の低い、場末の俄か仕立ての感じさえ与える展示室との違いによって、いっそう際だって私に痛感されたように思う。

 信太郎の絵画の世界に、もっと広く馴染んでほしいものだと、こんなに切に念じたことはない。

(二〇〇六、一二、三〇)

 

追記

あとで図録によって初めて知ったのだが、信太郎は幼時に腰椎麻痺に陥り、左半身の自由を欠き、杖なしでは動けなかったという。こういう点でも三岸節子に似ていて切ない。




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