川柳 緑
540

えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

アメリカに渡った江戸期絵画の誘惑(その一)

 それにしても、江戸時代の美術の見事な傑作が、これほど豊富にアメリカに渡っていようとは。こんな思いを抱いたのは、この八月六日に上京し、国立博物館に「若仲と江戸絵画」展を観たためである。

 それも、ここのところ、その充実ぶりに口あんぐりと見惚けてきた江戸時代の絵画展が、いずれもアメリカ人の手に渡り、彼の地に保存されてきたコレクションの展覧会だったという事実を、踏まえてのことなのだと、改めて顧みられた次第。

 驚異の第一は、去年の夏、岐阜県美術館で見た「日本の美、三千年の輝き/ニューヨーク・バーク・コレクション展」であり、第二は、今年になって、まだ一週間前の七月三十日に名古屋ボストン美術館に見た「ボストン美術館所蔵、肉筆浮世絵展/江戸の誘惑」展である。岐阜で見た展覧会のタイトルには「三千年の輝き」とあるが、出展数の半数がそうだったことからしても、その中心は江戸時代の絵画だったのである。

 まずバーク・コレクションでは、探幽の、雲上衣を靡かせ、蓮の葉を帽子のように被って目元優しく笛を吹く地蔵を描いた「笛吹地蔵図」の他の一点が、風のまにまに笛声の聞こえそうな、何とも幸せな気分にこちらを誘う、本展最大の収穫だった。

 中には、宗達の伊勢物語の宇津山の色紙図、若冲の「月 下白梅図」、蕭白の「許由巣父・伯楽図屏風」や「石橋図」(尤もこの二点は、一九九八年三重県立美術館で催された「曾我蕭白展」に既出のものである)、蘆雪の「飲中八仙図」、大雅の「蘭亭曲水・秋社図屏風」、無村の「山野行旅図屏風」や「山居秋興図」等、その作者名を羅列しただけでも、よくこそこんなにと驚くのだが、ここに挙げた初御目見得の作品のどれもが、私の目には、へえー、こんな作品が残されていたのかと、館内は結構暗めに明かりが押さえられていたにも拘わらず、新鮮な驚きの感覚を以て爽やかに見れたのだから妙である。そしてそれには、それらの作品の線描や色彩が鮮明に残る、コレクションの保存のよさが、大いに預かって力があることを伺わせ、これにも感心する見事さだった。

 とりわけ、六曲一隻、或いは一双の屏風絵が二十五点に及んで出展されている豪華さは、日本の所蔵品による美術展などでも、滅多に経験出来ない、その意味でこちらを圧倒するものがあった。この手の日本美術展の豪華版と言えば、私には、東京の国立博物館に一九九七年、平成館が開館した記念に催された特別展「金と銀ーーかがやきの日本 美術」があるが、この時集められ出展されていた屏風絵は、全部で二十九点だったし、朝日新聞が創刊百周年を記念して一九七九年に愛知県美術館で催した「日本美術の精華桃山の屏風絵展」でも、三十一点の屏風絵を全国から集め並べるのが精一杯と言ったところだったのである。それが、一つのコレクションからこれだけ里帰りするとは。その室町から桃山へかけての立ち並ぶ屏風群の金箔の輝きに接するだけでも、この展覧会の有難味は充分保証されるものだったのである。

 そして、ボストン美術館所蔵の肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」になる訳だが、肉筆画だけで、それも六十八点もの量を持って来て浮世絵展を成立させるその豊富さに唖然とし てしまう。しかも、その内の六十二点までは、ボストン美術館に寄贈された七百点に及ぶビゲローの肉筆画コレクションからの出展であることを考えれば、先のバーク・コレクション同様、ビゲロー・コレクション展と言ってよく、それだけでも口あんぐりとならざるを得まい。尤も、昼だけで言えば、名古屋市博物館で見た大英博物館の、やはり 「肉筆浮世絵展」(一九九六年)は、二十五点の下絵を含む百三十点が出展されていたのだから、これは当然一驚に値する見事さだったが、国内所蔵の浮世絵の肉筆画を集めた展覧会となると、名古屋の松坂屋本店で見た「咲き薫る江 戸の女性美」(一九八四年)と銘打った朝日新聞主催の展覧会を知るだけで、それは結構見応えのあるものだったが、その出展数は六十一点に止まっていたのだ。

 一つのコレクションの作品だけで成り立つ肉筆浮世絵展を、始めて私は体験出来るのだという、それだけで既に胸沸き立つことだった、と言えば些かオーバーになろうか。

 そして今度も私を引き付けた一つは屏風絵だった。六曲一双二点、六曲一隻、八曲一隻各一点、計四点の屏風絵が出ていたのだが、私にはこれだけでも既に目を見張る驚きだった。因みに、大英博物館展の屏風絵は三点(六曲一双、六曲一隻、二曲一隻各一)、朝日新聞主催の場合は四点(六曲一双二、十曲一隻一、二曲一隻一)の出展だった。版画の量産による大衆への普及と消費が主であった浮世絵の世界にあって、その肉筆が、複製のない一点ものとして貴重な価値を見込まれる筈なのに、軸ではなくて屏風となれば、その希少価値は相当のものだと予想が立つ。その屏風が、他の二つの展覧会に比べて遜色ないどころか、それを超える充実ぶりなのである。中で、北斎の二メートルを超える八曲に横長く描かれた一羽の鳳凰図は、小布施の祭り屋台の天井に描いた鳳凰を連想させる見事なもので、本展の目玉になっていたのも無理はない。

 しかし、私にとって本展における北斎の収穫は、何と言っても、画賛の和歌を上に置いた一幅の「大原女図」だった。頭上に担いだ山桜の枝と紫の荷の下の大原女の如何にも娘らしさが匂う面差しの見事な表現と、その身に纏う着衣の衣紋の描線の、流れるような柔らかな顔の線とは全く異質の、ゴツゴツと息を置いては引かれる小刻みなぎさぎざの線によって成り立っている表現とが、不思議な調和を成して、下着や上着の着物の色の組み合わせやその細かな柄の配置などと共に、容姿の絶景を生み出しているのだ。

 それに対して、流れる柔らかな、うねり重なる衣紋の、とりわけその胸元と引きずる裾に、まるでそれが中年女の情念そのものの表現ででもあるかのような曲線の美しさを持った、歌麿の「遊女と禿図」も素晴らしかった。何とも小癪なのは、黒い上着の柄が騒ぎ立つ白い波と飛沫の文様になっていることだ。遊女の後に控える、梅の文様を散らした赤い衣装の先も悪くない。

 優美な女性を描いたものの多い肉筆浮世絵では、走る風 の動きを描いたものは少ないのだが、その風の流れに動き を記した優品が、私を牽き付けた。勝川春章の「石橋図」 と西川祐信の「玉厄弾琴図」である。

 前者の、朱色の髪の靡く獅子の鬘の頭に、白い牡丹を付 けた扇笠を被り、牡丹の花の撓わな枝を両の手にして、「石橋」の舞を舞う、その衣装の捌き靡く裾の動きは、きりりとして爽やかな美しさを伝え、後者では、雲中に目を剥いて吠えかかる竜頭に、琴を抱いて西王母の娘、玉巵が立ち、その袖と帯と領巾とを風に靡かせる立ち姿の柔らかな線が、竜との不思議な調和をなして面白い。

 風の動きではないが、獣に女が乗った絵では、勝川春章 の、これも雲上の白象に腰を下ろした菩薩の化身、江口の 遊女を描いた軸「見立江口の君図」もあって、これは既に 「ボストン美術館所蔵」とことわっての「日本絵画名品展」(一九八三年、東京国立博物館)に出ていたのだが、その象の笑まいが何とも愛らしく、乱れた遊女装束の江口の君の清楚な美しさと、絶妙な調和を作り出していた。

 ともあれ、「石橋」にしろ「江口」にしろ、それが謡曲に モチーフの典拠を持っていることは間違いがないことだし、玉卮にしても、私の朧な記憶では、「唐代伝奇集」にあった名のように思われ、つまりは浮世絵の肉筆画が、広範な古典的文芸の受容のうえに成立していたことを物語っている。江戸時代の流行の先駆けを成していた歌舞伎にしてからが、謡曲などの古典を踏まえて造られていたことを思えば、プロマイド替わりの浮世絵が、歌舞伎の影響を、ひいては古典文芸の影響を強く持っていたとしても何の不思議もない訳だ。むしろ、そういう影響を出来るだけ排除して臨むところにこそ芸術の創造があるといった傾向に、現代の芸術作品の知的味わいの乏しさがあるように思われて来たりする。

 それに改めて印象を新たにしたのは、これも先の「日本 絵画名品展」に出ていた、北斎の娘葛飾応為の「三曲合奏 図」である。三味線を弾く年増芸者、琴を奏でる振袖新造 の若い遊女、膝に立てた胡弓を引く町娘の三人が、黒衣の 襟足長い背を見せて座る遊女を真ん中に、右手に芸者、左 手に町娘を配して描かれた、その三人三様の姿・構図が面 白く、それぞれの女の立場が、各々の衣装の色と柄意気に 鮮やかに彩られて、リズムのある画面に出来上がっている。親父の北斎には描けない応為の端々しさを感じさせて、また出会えた喜びが私を幸せにする。「そういう喜びの体験があった上での、この夏、カリフォルニアから来た国立博物館でのプライス・コレクション展だったのである。

(つづく)

 (二〇〇六・八・二)

 

 

 

 

P /