川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

己が創りし顔の生きざま(そのニ)

承前

 ところで、NHK「日曜美術館」は、今度の展覧会に出展されている、藤田の戦時中の戦争画の大作「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」との紹介をしたが、この紹介あったればこそ、私は今度の藤田の展覧会を見に行く決心をしたと言ってもいい。私は、テレビ画面ながらこの戦争画の齎す迫力に圧倒されてしまっていた。「同胞臣節を全うす」という悲壮の意気を、藤田自身が戦時中の日本人として激しく抱いて生き、それあってこそ描けた作品であることが、身につまされて感知されたのである。藤田にあったのは軍国主義とか帝国主義とかではなく、良くも悪くも日本人であるということだった。大戦中、長年過ごした巴里から帰らざるをえなかったのは、藤田が紛れもなく日本人だったからだ。その日本人意識は、日本で育ち暮らしている当たり前に日本人である者と、戦時中の日本において、定めし大きな差があったであろう。

 藤田は「河童顔新体制」という文章の中で、

 聖戦すでに四年。今日は恰も非常時局下に遭遇し、さらにますます緊張、国民って革新運動に当らねばならぬ謹厳な時代に際し、不肖私も、翻然自粛の意を痛感して、今日、悔恨哀惜の念なく、二十七年のオカッパ髪を斬り棄てて、丸坊主になった。私にとっては、相当に大きな異変でなくてはならぬ。

と言い、又、

 私は、鏡の前におのれの顔を映して見入るとき、過去二十七年間の風貌は今日消滅して、私の顔が今日もなお健在である八十七歳の老父に彷彿たるものを見出したとき、はじめて、自己自然の姿に立ち帰り、日本の国土に 根を持つ民の一本として、生をこの安泰の恵みに浴し得ている有難さに感泣したのであった。

と書いてもいる。そして戦時中の従軍画家組織の中心として、積極的に活動し、私の足を竦めさせ私を金縛りにした戦争画の大作を残す。これを生きるための方便、打算と蔑み笑うことは、私にはもうできない。

 ともあれ、私は、初めてテレビ映像で知った藤田の戦争画の現物の前に立って、その迫力に言葉を失った。五点のどの絵からも、戦争を肯定的に描こうという意志など全く垣間見ることができない。戦の庭の死屍累々たる巨大な絵画は、戦争の悲惨に命を殉ずる人間の実態を再現して余すところがない。ここにあるのは、事実としての戦争の無残非情さの摘発以外の何物でもない、そう思われる。戦争を肯定し戦意を昂揚するという戦争画本来の趣旨からすれば、まるで背反裏切りの画面である。

 しばしば、米軍が撮影記録した沖縄戦における日本軍や沖縄住民の悲惨な映像が、これまでテレビで紹介されてきたが、まさにその光景が、サイパン島の同胞の自刃投身の絵に表現されている訳で、陸海空三軍から名指されて戦争画を描き続けてきた藤田が、一体どういう思いでこの絵を描いたのかを考えると、そんなことは滅多にないのだが、絵の前で胸が熱くなってしまうのだ。

 しかし、戦後、占領軍の戦争犯罪摘発の動きに対して、新たに組織された日本美術会は、美術界の戦争犯罪者として、洋画界の責任を藤田一人に負わせることを決め、書記長内田巌ーー彼のことは既に「横顔のリリシズム」に書きもしたーーをして、その旨を藤田に通達せしめた。内田が藤田を訪ねたことについては、NHKのテレビでも紹介されていて、私はそれを思い出していた。ともあれ、これが藤田に日本からの再脱出を決意せしめたことは、容易に想像できることである。

 「自己自然の姿に立ち帰り、日本の国土に根を持つ民草の一本」として、ということは日本の土に帰る覚悟の下で、戦中を生きた筈なのに、その自分に、同じように運命共同体のメンバーとして生きた筈の日本人たちから、戦争の責任を一人で背負うように強要されることの理不尽、それが、日本人と日本人によって作られていく戦後日本に対する、藤田の絶望を生み出したとしても、それは当然のことと見えてくる。

 自らの命を埋める場所と決意した日本の国土から、その決意そのものを拒絶された以上、自らの命を埋める場所、自分の生を締めくくる国は、異邦人として過ごした、第二の故郷になるフランス以外に最早なかったということであろう。そして藤田は異邦人だった印としてのオカッパ頭に戻り、オカッパ頭で生涯を閉じることになる。不思議なことに、日本に住んだ戦争中の藤田のイガグリ頭の自画像を、これまで一点も私は見ていない。藤田の自画像は、日本人として容れられない自己そのものの証しとして描かれ、だからこそ、いつもその自画像は彼の環境的背景と共に描かれねばならぬことにもなったのである。ここにも藤田の拘りを見る思いがする。  

 いずれにしろ、藤田は二度と日本の土を踏まなかったし、踏まなかったばかりか、フランス国籍を取得すると同時に日本国籍を抹消し、揚げ句、カトリックの洗礼を受け、レオナルド・フジタとしてその生涯を閉じたのである。この身の振替の見事さは、フランスに戻ってから復活したオカッパ頭と共に、藤田の自負の武士道的発揚を語って遺憾がない。

 藤田は、第二次世界大戦を無謀にも戦ってしまった日本という国の一国民として、それに殉じて生きた自らの生をよく自覚し、逃れようとしなかった。良くも悪くも日本人であることを、自分の生の核として、自分そのものとして生きたのである。そして、だからこそ、新時代の民主主義の名の下に、自己保身のために、藤田一人を生け贄として差し出そうとした、欺瞞の輩(それは、それまで藤田と似たり寄ったりの仲間だった、藤田と同じ日本人たちである)に、さらには欺瞞の輩の住む、これまでの大和心とは縁遠くなってしまった日本に、藤田が愛想を尽かしたとしても不思議はない。藤田がフランス人になったこと、カトリック信者になったことは、それだけ、より大和魂を持った日本人であろうとする節義を、逆説的に守ったことを意味していると、私には見える。

 今度の展覧会で私の興味を引いた絵は多いが、その中で、一九三一(昭和六)年南米経由で日本へ帰ってから一九三八(昭和一三)年巴里へ戻るまでの間に描かれた、一連の作品もそうだった。それらが、何故私の目を引き付けたか。それは、藤田を、巴里とそこでのエコール・ド・パリの芸術運動や、白い裸婦によって印象づける都会的モダニズムとはまるで正反対の、その土地方々に根付いた風俗の、写実的人物群像だったからである。「リオの人々」「ラマと四人の人物」「ボリビアの農夫」といった作品、北京の力士とその家族を描いた作品、琉球の風物を背に琉球的髪形衣装の女と子供を描いた作品等、一体この時期、このような民族的土俗的な風俗を、日本の誰が描いただろうか。ここにも、日本人という民族に拘って生きた藤田の目線が、息づいている。そして、この目線があればこそ、藤田の裸婦の白色も作られ得たのだ。その白色は、西欧的油彩の白ではなく、あくまで日本という風土に根差した日本画的白色だということが、肝腎なのである。

 しかし、フランスへ戻ってからの藤田の作品に、もう白い裸婦は登場しない。裸婦に代わって描かれたのは、フランスの子供達である。自宅の部屋の壁面の十五センチ四方のタイルに、一枚一枚子供の絵を貼って飾り、多数の子供達に見守られて暮らしていたことが、当の部屋の壁面の復元展示によって伺うことができた。

 だが、描かれた子供達の、どの一人にも笑顔を見出すこ とができない。もともと藤田の人物像で笑っている顔には、まずお目にかかったことがないのだが、可憐純情が売りの子供認識からすれば、藤田の笑いを捨てた子供達の表情は、異様な印象を齎す。藤田に潜む、笑えない、或いは笑ってはいけないという我慢乃至は忍耐のようなものが、子供達の口元に結晶しているようにさえ見え、そこにも私は、藤田のオカッパ頭の逆説的表現を見ようとする自らを発見する。

 更に何よりも、再度仏後の作品群の中で、今度最も私を 捉えたものは、十点に及ぶ宗教画だった。

 その中に二点、礼拝を題とし、聖母マリアに祈りを捧げる主役の人物を大きく描き上げた作品があったのだが、その礼拝者として描かれているのは、オカッパ頭の藤田自身と彼の妻の君代夫人なのである。こう描き見せることによって、藤田は、キリスト教への帰依が、最早裏切り得ない絶対的なものであることを、証しとして自らに示したのだと、私には思われる。藤田は、日本を捨てた自己こそを、 動かし得ぬ絶対として、自ら敢えて練り上げたのだという気がするのだ。一体、西洋の近現代画家の誰が、聖母の前に拝跪する自己を描いたりしただろうか。パリ近郊やパリで画家としての生涯を閉じた佐伯祐三や荻須高徳ーー彼らは無論日本人であることを捨てたりはしていないし、特別な髪形を作ったりもしていないーーの描き残した絵の世界を思い出してみるといい。彼らの描いた街の建物たちの風景画を見こそすれ、人間のドラマを描いた作品などには一点もお目にかかったことがない。

 そして、展覧会場の最後に、死ぬ二年前に、自らランスに建立した礼拝堂「ノートル・ダム・ド・ラペ(平和の聖母)」の内壁に描いたフレスコ画が、殆ど実物大の写真によって再現掲示されていたのだが、その礼拝堂入り口内側の壁一面に描かれた、ゴルゴタの丘におけるキリストの磔刑図を見ると、その下段右限の祈る群像中の一人に、藤田は 紛れもなく自分の顔を描き加えている。それは、藤田がレオナール・フジタとして自らを自縛して描いた、最後の自画像だということになろうが、その顔は、白髪ながら間違いなくオカッパ頭に描かれているのだ。

 厳粛な宗教画にあって、そのオカッパ頭は、どこか滑稽な軽さを与えながら、決して笑っていない真面目な表情に、異常としか言いようのない藤田の生の暗部が浮かび出ていて、それを描きながら、余命のない自己を実感しつつ、藤田自身も己の生の異常性をじっと見つめていたのだと、思わないではいられなかった。

 二点の礼拝する夫婦の対象が、母性的な癒しの象徴としての聖母マリアであるのに対して、礼拝堂の壁画の藤田が祈る対象は、磔にされ首を垂れているキリストだということ、それが、藤田が最期に自画像に託した痛みの深さ、大きさを、物語っているように思われもする。

 そういえば、前に記したフランク・シャーマンは、藤田を「無軌道の軌道に乗せられた」人物だと評し、ランスの藤田の基前に詣でた時抱いた疑念として、「果たしてフジタは、この異郷の地で水遠に葬られてしまうことを、心から望んでいたのであろうかーー」と言っていたのだが、改めて腑に落ちる言葉としてそれが蘇っても来た。

 私にランスを訪ねる時は来るだろうか、藤田の礼拝堂に、キリストに向かって跪く彼のオカッパ頭とまみえる時はあるだろうか。私は微かな望みを持とうとして、人込みの展示室から出て、ロッカー室への疲れた歩みを辿ろうとした。

(二〇〇六、五、二五)

 

 

 

 追記1 この文章を書いてから、講談社文庫で出された 近藤史人の『藤田嗣治「異邦人」の生涯』を見ていたら、一九四三年に描かれた、戦時中のオカッパ頭では ない油彩の藤田の自画像のモノクロ写真が掲載されているのに出会った。私の記述にそぐわない事実との出会いだが、それを認めた上で、やはり私は、自分の藤田の受け止め方に否やはないので、本文は、私の不勉強を露に残したこのままにしておくことにする。

 追記2 島崎藤村の「エトランゼェ」や「平和の巴里」「戦争と巴里」に登場する、巴里で藤村と交渉を持った日本人の名前(河上肇、石原純、小山内薫、安井伸太郎、小杉放庵等)を知ると、近代日本の文化・芸術が、如何に巴里に深く関わっていたかが分かり、藤田のフランスへの拘りは、そういう日本人の巴里への傾倒を最も尖鋭に表したものだと納得させられる。

 

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