川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

己が創りし顔の生きざま(その一)

 東京竹橋の国立近代美術館で藤田嗣治展が開催され、それがNHKの主催によることもあって、四月に入ると、テレビでのコマーシャルを何度も見せられる羽目になった。 NHKの「日曜美術館」では、展覧会の内容紹介旁々、藤田の画家としての生涯が、立花隆を招いて語られ、五月に入ると、「迷宮美術館」で、藤田独自の白い肌の色の表現の秘密が尋ね求められ、同じくNHKハイヴィジョンでは、「藤田嗣治の20世紀」と題する、二時間の特別番組が放映されもした。揚げ句は、皇后美智子妃の藤田展訪館の報が伝えられる念の入りようである。

 一体何がこの藤田の生誕百二十年の記念展を、これほどに喧伝させているのだろうか、NHKの企画のせいだからと割り切っておけばいいことなのかどうか、私は気にかかり、次第に落ち着かなく気も漫ろになる。

 揚げ句、会期も押し詰まった五月半ば、私は殆ど息急き切ってという感じで上京した。

 竹優の美術館へ着いてみれば開館前なのに、切符売り場には何列もの行列が出来ていて、NHKの霊験あらたかなること歴然、私もその最後尾に並ぶ羽目になる。それでも入館後、手提げ物を預けるロッカーのボックスには恵まれて、身軽になって私は会場に入ることができた。

 思えば、この前私が見た藤田の展覧会は、生誕百年記念と銘打ったものだったのだから、もう二昔前になる訳だ。 それはパリを中心に、全作品をヨーロッパから集めての展覧会で、私はそれを大阪での所用を済ませての序でに、たまたま大丸の心斎橋店で催されているのを知り見にいったに過ぎなかった。それには、藤田が、戦後パリへ帰ってから描いた、今回のコマーシャルの目玉になっている「カフェ」の絵も出展されていたが、さして感動を受けた覚えはない。それは、その展覧会より更に前の、丁度藤田の没後十年目に当たる一九七七年に開催された、私にとって、纒まった藤田作品との最初の出会いだった藤田嗣治展のインパクトの強さが、決定的だったからである。

 その出展作品は、秋田の平野政吉ーー彼の秋田市の邸宅にある土蔵内に、藤田は、キャンバス張りの壁画としては世界一大きい、縦三、六五m×横二〇、五mの《秋田の行事》という作品を、一九三七 (昭和一二)年に描き上げているーーのコレクションと、戦後、日本進駐軍GHQの出版・印刷担当官として来日していたフランク・シャーマンーー彼のお陰で、アメリカからGHQの嘱託となる辞令を受け、それによって藤田の戦犯問題も事無きを得、アメリカを経てフランスに、日本を捨てて藤田は渡ることが出来たのだーーのコレクションとによっていて、私はそれを名古屋の丸栄スカイルの八階の催場で見たのである。その時の入場券の半券が図録に挟んで残っていて、見れば折角の展覧会も僅か十日間開催されたに過ぎないことが分かる。思えば私の四十代半ばの遠い昔のことになる。

 その展覧会には、極めて日本的なモチーフや筆致の初期 の作品から、藤田の白い肌に到達するまでの推移、更には 晩年のフランスの少女たちに至るまでの変化が、書簡や版 画本やポスターなどと併せて、バラエティー豊かに紹介さ れていて、作品の変化を裏付ける彼の裏側の経緯をあれこ れ想像させられもし、こちらは面白く見たのをはっきり覚 えている。中でも、その時の図録の中で、平野政吉が語っていた、藤田に関する一つのエピソードは忘れられない。 それは、平野の「藤田画伯と私」という文章中に書かれて いたのだが、パリで成功を納めた藤田が、一九三三(昭和 八)年末に二十年振りに帰国し、翌年早々開催された帰朝 第一回展の会場で、秋田から出て来た平野が始めて藤田に 会った時の話なのである。

 折しも来場していた藤島武二が、藤田に握手を求めて「あなたのような線は到底描けない。名実ともに東洋一、いな、世界一の大家だ」と褒めそやしたのに対して、藤田は後で、初対面の平野に、藤島武二の作品を、「あなた、田舎の方だから無理もないが、ああいう人の絵を買っておくと、やがてみんなタダになる」と蔑み、さらに「それに引きかえて、ぼくの絵は全部国宝ですからね」と自惚れ奢ったというのである。

 藤島武二と言えば、ブリジストン美術館が所蔵するその 「黒扇」が、既に重要文化財に指定されてもいて、日本の 近代美術史上、洋画アカデミズムの確立に多大の貢献を残 した画家として、一九三七年には、文化勲章の第一回受章 者に選ばれたほどの画家である。藤田の展覧会を見に来た 一九三四年のこの頃、藤島は六十代半ばを過ぎ、既に画壇 の大家長老の城にあったと言っていい。

 その藤島が、「名実ともに・・・・・・世界一の大家だ」と殆ど煽てに近い褒め方をしたのは、些か滑稽ですらあるが、これにはそれなりの背景があったと私には思われる。

 三重県の中学校教師をしていた藤島をいち早く認め、東京美術学校の助教授に、格別に取り立てたのは黒田清輝だった。黒田は東京美術学校洋画科創設以来の、洋画科の中心的存在であり、既に日本洋画壇の重鎮でもあったのだが、藤田は、その黒田によって、美校卒業制作作品を悪作の見本だと皆の前で酷評されたのである。これは、日本の画壇における将来性を絶たれることに等しい。自らの将来のために藤田がパリに渡ったのは、言ってみれば必然的な結果だったと考えられよう。その経緯を恐らく藤島は知っていたからこそ、この歯の浮くようなお追従発言が生まれたのだろうと想像が行く。しかし、これに応じた藤田も藤田だ。自分の絵を認めなかった黒田の、その愛弟子藤島の挨拶に、いかに過褒の嫌みを聞き取ったとはいえ、見事功成り名遂げて帰国し、既に不惑も過ぎている藤田が、相手の平野が初対面であるのをいいことに喋った、その発言を聞かされると、私など凡人には、とても付いてはゆけぬ、藤田の日本の洋画壇に対する怨念の深さを感じないではいられなくなる。

 藤島武二のことは、後から、法螺だと一笑に付し得たとしても、怨念に発する傲慢の謗りは退けようがなく、それも、相手に対する茶化しとも映るオカッパ頭の顔によって、自己を韜晦しながらの自己顕示の発言だということになれば、その横着は極まった感があり、そういう藤田の自己表現のスタイルが、藤田自身の生涯の波乱を、良くも悪くも招来したに違いないと想像されてくる。だとすれば、その藤田の特質を、最早笑って済ます訳には行かなくなるというものだ。

 上の話が、オカッパ頭に黒のロイド眼鏡とちょび髭という藤田の顔の造作と重なるとき、宜なる哉と得心が行くのは、恐らく私だけではあるまい。仮令そのオカッパ頭が、 巴里での極貧時代、床屋へ行く金に事欠き、自ら鋏で髪を切った結果稿されたものだったにしろ、彼がそのヘアスタイルに拘泥執着したことは動かぬ事実で、そうだとすれば、彼が、この一般の人とは異なる顔立ちを、芸術の都パリで認められるべく、日本を恨み捨てた自分の顔として造形し、顯示して生きてきたのは、動かぬことになろう。

 断っておくが、藤田と共に、エコール・ド・パリの仲間だった、スペイン人のピカソも、イタリア人のモディリアーニも、ロシア出身のスーチンも、誰も顔の造作に演出を試みた者などいない。フランス人と同じ白人の彼らは、パリの白人社会に違和なく自然に受容された筈である。しかし藤田は、彼自身が「アトリエ慢語」の中に「有色人種なるが故に、至る処で侮辱を受けねばならない日本人」と書いているように、白人社会から疎外されるコンプレックスを痛感させられた筈で、その白人たちに認められるためには、それが芸術家ならばなおさらのこと、侮辱を逆手にとっての自己顕示の手法が必要にもなった筈である。オカッ パ頭は、藤田の日本人コンプレックスの証しだったのだ。

 日本人コンプレックスに立ちながら、それを対フランス、対白人社会に生かし得た時、藤田は同じ「アトリエ慢語」で、「私の体は日本で成長し、私の絵はフランスで成長した」、「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は、世界に日本人として生きたいと願う。」と、言うことが出来もしたのである。

 そういえば、島崎藤村が姪との事件から巴里に逃避した時、何度も藤田と合っていたことが、その滞仏随想「エトランゼェ」に伺えるのだが、そこで藤村は、古代ギリシアの風体をしていた藤田について、無論これは後から確かめ直したことだが、次のように記している。「風俗正しい巴里で破格なのは美術家だがその中でも藤田君の窮屈な様式 を捨てゝ居る方だった。この藤田君に(中略)あらゆる意 味での近代といふものを排するやうな芸術的な試みは川島 (渡仏直後の藤田が親しく付き合った川島理一郎)君から 伝へられて居た。(中略)希臘人のやうな肉軆を持ち、希臘人の様な生活を送って見よう、すくなくも川島君等の夢みるものはそこまで歐羅巴の源に溯らうとするところにあるらしかった。この試みは、時には奇異に、時には突飛に見えた。でも、藤田君は平気でそれを続けようとして居た。最初の中こそ私も『巴里にはいろいろな美術家が居る』と思ったことも有ったが、それで押通さうとする藤田君の忍耐を笑へなくなった。」と。

改めて、藤田のオカッパ頭について、藤村の言う「藤田君の忍耐」を見逃してはならないと思われてくる。それが 「歐羅巴の源に遡らうとするところにあ」ったかどうかは 別にして・・・・・・。

 そしてここで、私は、藤田が、レンブラント程ではないにしても、ゴッホ等を遥かに越える自画像描きの画家だったことに思いが至る。

 私が最初の藤田展で見た二点の自画像は、木版と銅版の版画だった。次の藤田展で見たのは、銅版の他に鉛筆画と 水彩画の自画像だった。それらは、すべてオカッパ頭にロ イド眼鏡の藤田像である。そして今度は、美術学校の卒業 制作を始めとする五点の自画像に接することができたのだ が、今回はすべてキャンバスに描かれた油彩ばかりである。そして、ここでも卒業制作の一点以外は全部オカッパ頭をしており、加えて、自画像には、すべて背景が描かれているのである。つまり藤田の自画像は、環境との関わりにおいて存在する藤田自身を捉えたものであることを証しているのだ。

(つづく) (二〇〇六、五、二五)

 

 

 

 

 

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