川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

存在するとは?
    ー問わでもの問いに生きる重さー

 それにしても、随分ずっしり胸に応える展覧会を見たもの物像だった。

心臓のあたりに、思いっきりどーんと頭突きを食らった鈍痛を、ずっと胸に抱え持ったような感じなのだ。

 その日、私は、一つは、暗い緑の空間に浮かんだ教会の絵によって記憶のある、鴨居玲の展覧会を見るために、今一つは、一昨年、表現主義の彫刻家レームブルックの展覧会を見に出掛けた因縁から、同じ表現主義の彫刻家であるエルンスト・バルラハの展覧会を見ておこうと思ったがために、関西へ向かったのである。

 まだ春浅い三月八日の気持ち良く晴れた日のことである。

 朝、私はまず、鴨居玲展の開かれている神戸市立小磯良平美術館に急いだ。ここのところ、中西利雄、内田巌と、この美術館の企画展を見てきて、それぞれに感慨を持ち得た私にしてみればその感慨については、既にこれまでに記録もしてきたが――、それに続くこの企画展に、期待が膨らんだとしても不思議はなかろう。そしてその期待は、裏切られなかった。しかし、期待が満たされたなどという言葉ではとても収まらない、衝撃的な暗い重さを体感することになったのである。

 それは、決して、美しいとか良く描けているとかの褒め言葉で済まし得る絵ではなかった。絵の一辺は総じて一メートル二、三十センチはあろうか、結構大きな作品ばかりで、初期の作品の数点を除いて、そのどれもこれもが、漫明で晴れた色彩など全く持たぬ、暗澹たる色合いに塗り込められた人しかも描かれた人物の殆どは、男女を問わず老だ。人で、彼らは大きな画面の中で一人様々なポーズを取りながら、その表情を、全て暗い影の中に激しく荒々しく鬱屈させていた。

 しかも、その人物像は、晩年に及んで自画像となって収斂している。そして、鴨居が死んだ年、一九八五(昭和六〇)年に描いた自画像の一つは、ビール瓶の栓を背広の胸に幾つも飾って立つ「勲章」と題する作品となり、最後の一作は、目黒のないのっぺらぼうの背広姿の男が、右手をズボンのポケットに突っ込み、左手に仮面と化した鴨居自身の顔を持って立つ、「肖像」と題する作品に結晶している。

 このような絵の連続が訴えてくるものは、人間存在の孤独が抱え持つ情念とでも言ったらよかろうか。まるで、それが人間という生き物の、存在することの絶対だとでも言わんばかりの拘り方である。どうやら、鴨居が描いたのは、それひたすらであって、それ以外に何も描けなかったように見える。例の緑の宙に浮いた暗い教会も、こういう文脈の中に置いてみれば、紛れも無く孤独な人間の情念の象徴的な存在だったのだと得心が行く。しかも、それに囚われ続けた自分を、ビール瓶の栓の勲章で飾られた存在でしかないと暗鬱に滑稽視し、揚げ句、その自分を、自分の顔を仮面に過ぎずと外し持ち、のっぺらぼうに無化せざるを得ない絶望的な存在として確認して、生涯を締め括ろうとしたように見える。

 こういう、自分の主題に対する、狂気とも見紛うような執念、思い詰めた狂的情熱というものを見せつけられると、そういう自分に囚われ続けた鴨居玲という男が、五十七歳で急逝したのは当然な事に思われ、私には寧ろ自殺でなかったことが不思議にさえ見える。

 これに比べれば、常設の小磯良平の絵などは、お気楽なことでと慶賀申し上げねばならなくなり、小磯に対してそういう皮肉の一つも言ってみたくなるほど、鴨居の絵は、暗く悲劇的で、しかも全体からすればお道化でしかない、厚い自虐に塗り込められた世界だったのである。

 そんな鴨居の展覧会を、丁度小学生達が見学に来ていて、一枚の絵の前に群れ集って座り、先生の質問に応じて、屈託なく手を挙げて思い思いの感想を元気に述べ立てていたのは、微笑ましく私を救った。

 私は、小急ぎにJRの住吉駅に戻った。一刻も早く、明るい場所で暖かい食事を摂りたかったのである。住吉の駅の構内には、出来て間がない新しいレストラン街があった。私は、その中の一軒のトンカツ屋に入ると、迷わずランチ定食を頼んだ。丁度十二時になろうとしていた。カツを揚げる香ばしい匂いが、私の四肢を解きほぐす。

 食後、私は京都に向かった。エルンスト・バルラハ展は、「日本におけるドイツ年2005/2006」の催しとして、。岡崎の国立近代美術館で開かれていた。

 美術館に着いた時には既に二時半を過ぎていた。例によって館内右手奥のロッカーにバッグを入れて、正面の階段を上る。そして私は、バルラハの世界に入っていった。

 作品の展示は、造形芸術アカデミーでの修行時代から始まって、彼の人生の区切り毎に章立てで進み、その彫刻を中心に、それに関する版画やデッサンの絵画作品を併列するという方法で行われていた。

 彼の作品は、第四章の、一九〇六年三十六歳の時のロシア旅行を契機にして、バルラハらしく確立されたことがよく分かる。ロシアの物乞いの女の彫刻を何点も造っているのだが、物乞いをする以外に生きる術のない最底辺の女性、それに対するいとおしみの眼差しが、小さい作品ながらも形像の重量感に結実している。作品に秘められた、この重量感こそは、バルラハの捉えた人間の命についての主張なのだと直感され、それこそが、彫刻家としての生涯に亙っての詩心になっているように思われる。

 以後、第一次世界大戦にかけて作られた、どれも五〇センチにも満たない「孤独な人」、「戦士」、「心配する女」、「恍惚の人」、「難民」、「復讐者」等の彫像の、優れた造形に、滲み溢れている詩的重量感に次々と出会い、私の直感が動かぬものになる。

 とりわけ一九二〇年代に描かれた彼の連作版画の「神の変容」、「ヴァルプルギスの夜」、「歓喜に寄す」の白と黒の綾なす世界は、バルラハの詩心を感じ取るに最適の傑作に思われる。

 バルラハへの親しみを増しながら、私は一方で、同じドイツにあって、共にナチの迫害を受け、一九三〇年代を生きた、ケーテ・コルヴィッツのことが、この時気にかかってくる。

 ケーテ・コルヴィッツの名は、もう半世紀も昔、岩波が出した新書判魯迅選集を通じて知ったのだが、その反戦抵抗の意図露な、鋭角的で、それだけに挑発的な版画が、血気盛んな青年期の私を捉えたものだ。彼女は、私にとって、抑圧される弱者のために戦う女闘士として記憶された。そのコルヴイッツの作品展が、これもバルラハと同じく「日本におけるドイツ年」の企画の一つとして去年の秋催され、私はそれを姫路の市立美術館まで見に行っていた。しかし、彼女に対する五十年間のこちらの思いに、展覧会は何故か熱く応えてはくれなかったのである。

 展覧会に出展されていた彼女の連作版画は、「織工の蜂起」であり、「農民戦争」であり、「戦争」であり、「プロレタリ「アート《飢餓》」であり、「死」であったのだが、この題名を通じてだけでも、コルヴィッツの、資本家や権力者に対する労働者や農民の抵抗と、彼らが被らなければならなかった不合理な弾圧迫害の不幸な実態を描いた生々しいものだという予想は容易に立てられよう。

 しかし、その怒りと嘆きの激しく露な鋭角的挑発的画面の連なりは、今や牙を抜かれた現代の日本人の安逸からも、その安逸の風にすっかり染まって過ごす我が身の日常からも、完全に浮き上がっていて、最早すっかり風化してしまっていることを、観客の殆どいない冷却しきった会場の現実を証しに、寒々と教えられたのだった。全く、京都の今日の美術館ほどに観客がいたならば、コルヴィッツも今少し救われたかも知れないと思っても見る。

 一方、このバルラハ展は、それなりに観客が入っているにしても、コルヴィッツと同時代を、同じ仲間意識を持って生きた筈の彫刻家なのに、コルヴィッツの時とは打って変わって、今バルラハに、私が温もりを感じているのはどうした訳か。

 成る程、彼の作品には、嘆きと怒りに発する挑発的訴えの露骨な主張は見られない。それが、バルラハの作品に血の通う温もりを産み出して、私の胸に今届いている感じなのである。自らの芸術活動を否定抹殺しようとする敵を憎み、それに怒りをぶつけていくというよりは、いかに否定抹殺しようとも存在する人間の重みそのものを訴えようとしたように見えるのだ。

 それが、二〇年代後半からの晩年に作られた「夢見る人」、「苦行者」、「懐疑する人」、「笑う老女」、「風の中を彷徨う人」等の、小さいが力のある彫像に刻みあげられている。そこには、最も辛く暗い時代を生きるバルラハ自身の哲学が息づいており、それが今、私への温もりとなって響いてきているように感覚される。そして、それはやはり、私にはズッシリとこたえる重量というものだ。

 この重さから身をほぐすには、カフェにしかず。私は一階のロビーに下り、掘割に面した喫茶室に足を運んだ。桜とその向こう側の掘割の屋外を見ながらの一服を、私はもう味わい始めている。

 

(二〇〇六、三、二〇)

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