川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

骨折り損の草臥れ損 儲けは何?

 私は飢えていた?何に?私は焦っていた?何故?私は答えることが出来ない。

 よくもまあ、さほどの期待感もなく、何が悲しくてこんなに展覧会を見歩いたのか。我ながら気が知れない。

 とにかく、十一月二十三日の祝日に泊りがけで東京へ出掛けた。

 一番の期待は、上野の都立美術館で開かれている「アーシ キン美術館展」だった。しかし、その内容が、恐らくフランスの印象派以後の近現代絵画であろうとは予想のつくことで、それが今一つ、今の私の気を駆り立てるには至らなかった。二番目は、「ゲント美術館名品展」。その内容にさほど期待を抱いた訳ではなかったが、それが埼玉県立近代美術館で催されていて、とすれば、初めて浦和の地を訪ねることになるという、そのことに興がそそられていた。三つ目は、同じような西洋の美術館展である「スコットランド国立美術館展」を考えていた。これも、その内容よりも会場の渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムに一度行ってみたいと思ったのである。この三つを予定すると、それならいっそのこと一泊してと考え出し、そう考え出すと、では千葉市立美術館で開かれている「ミラノ展」も行っておこうと思い始める。イタリア年など があって、ここ二、三年の間に、フィレンツェ、ヴェネチア、シェナ、ポンペイから齎され催された美術展を次々と見てきて、今年はプラートの美術まで見に出掛けた手前、こちらの気を引く中身こそ無けれ、ミラノを外すのはあとあと気になろうかと、出掛けることにした。そしてここまで来ると、それならも一つ見れるじゃないかと欲が働き、イサム・ノグチ展を、木場にある「都立現代美術館」に訪ねることも決めたのである。

 変な話だが、これで出掛ける値打ちが出来たというものだと、肩の荷が下りたように感じるのだから馬鹿も極上というものである。

 こうして出掛けたわけだが、どう考えてもこんな自分はおかしい、私の趣味であり、娯楽であるに過ぎないはずの美術見物が、これでは、まるでその数をこなすことによって実積でも上げよう魂胆でもあるかのような、下衆な根性に裏打ちされた勘定高い行為になってしまっているではないか。

 こういう下衆な男に、例え相手が昔の恩師に当たるからとはいえ、呼び出されてその相手を一日努めようというのも、相当イカレタおかしい人物だと言わねばなるまいが、例によってそのおかしい女性と、上野駅で十時に落ち合う約束をして、私は上京したのである。

 駅の構内で当の女性に会い、先ず埼玉県立近代美術館へ行こうと誘うと、彼女もそこは初めてだと興味を持ち、早速北浦和まで足を延ばした。西口のロータリーから正面奥に緑が見え、あの公園の中に美術館がある筈だと、彼女を導く。美 術館の前にはボテロの太った女の大きな横臥像があり、これが案外に面白い。

 ところが、肝心の「ゲント美術館展」の方は、十九世紀半ばから二十世紀半ばまでの、八十名の画家の百二十五点の作品が出展されていたのだが、出展数が多すぎたか、壁面を黒幕で特別に覆って、俄か仕立ての展示室を設え、そこに絵が掛けられていたりして、さすが地方の美術館と愛嬌を覚える有り様。私にすれば、ベルギーの画家の名に全く不案内なため、とんと作品に親しみが湧かず、クールベ、コロー、テオドール・ルソー、ドービニー、フランソワ・ミレーといった 知名の画家の作品が出展されていても、こちらの琴線に触れ てくる作品は、とんとなく、いずれにしろふむふむと見て通 るだけになってしまった。

 そうした中、ココシュカやキルヒナーの作品と共に展示されていた、表現主義時代のフリッツ・ヴァン・デン・ベルヘの数点からは、その配色の構成と色の深みによる暗い時代の陰がずっしりとこちらに伝わり、その名を印象づけることが できたのは拾い物だった。

 ただ一階のレストランで、公園の緑の木漏れ日の動きを一面のガラス越しに見ながら、ランチを食して交わすお喋りは、我々に相応な、時間だけはたっぷりの休息を感じさせてくれ、それが相手の女性のためにも、何よりのことだとホッとした。

 その後、上野に戻り、都立美術館の「プーシキン美術館展」を観たのだが、祝日ともなれば、美術館は超のつく満員で、作品を人山の肩越しに見なければならず、同伴の女性を少しでも見やすくしてやろうと場所を設え、前へ押し出してやったりするのは私のフェミニズムとは言え、気骨の折れる話である。

 出展は印象派からキュビズムまでの全七十五点であったが、ゴッホの「刑務所の中庭」、ルソーの「セーヴル橋とクラマールの丘」、ボナールの「洗面台の鏡」、マティスの「金魚」、ピカンの「アルルカンと女友達」と「女王イザボー」といった作品は、格別な期待を寄せてはいなかったものの、やはり大いに見甲斐のあるもので、まずは充分楽しめる展覧会だったと称揚できる。私には特にマティスの、継一五〇、横九〇センチはあろう大きな画面に、草花に囲まれてかれたテープル上の、実物よりかなり大きく描かれた金魚鉢の静物画が、その目の定めるような明るさによって、混雑の鬱陶しさを払拭してくれ、救いとなった。連れの彼女も、この赤い金魚には身を屈めるようにして見入り、振り返って私に笑まいを送って寄越した。

 しかし笑顔が綻びるのはそれだけだった。

 その後出掛けた現代美術館では、「イサム・ノグチ展」の入場券を購入するために長蛇の列の最後に並ばねばならず、既に日没の気配漂い始めていたので、彼女は、帰りの遅くなるのを憂えて先に帰って行ってしまった・・・。三十分並んで券を求め、さらに会場入口で入場者の整理のため十分並んで、漸く会場に入ることが適う難儀で、この年になると、見る前にもう足腰が動きかねる枝労に困憊する始末。それかあらぬか、入場者の殆どが若者で、私のような年格好の者は一人もいない。疲労のせいもあろう、展示作品にさっぱり興も乗らず、会場を通り過ぎるのみに終わる。

 そういえば、私がイサム・ノグチ展に行ったのは、彼がニューヨークで没した後の、一九九二年、日本で催された最初の回顧展だった筈で、私はそれを京都の国立近代美術館で見たのだったが、あれから十三年、あの時見た記憶に残る作品も結構あり、あの時に比べれば出点数が半ばに過ぎないようにも思われて、それが私の気持ちを萎えさせる。

 暗くなった館外へ出ても、地下鉄の駅までの速さを思うと、もうこの上歩く元気など起こる訳もなく、私は来合わせたタクシーで東京駅に戻ることにした。

 その夜の泊まりは、そこがもう閉店されると知って、それでは一度泊まっておこうかと予約を取った、東京ステーションホテルだった。

 ところが、これならビジネスホテルの方が余程過ごしやすいと思われるうらぶれた部屋で、これで宿泊費だけは結構お高く止まっているのには、驚きを通り越して腹まで立ってきた。お蔭で不愉快と疲労重ね着にしたまま、朝を迎える羽目になったが、さりとて、断然眦を決して帰ってしまう気前も示し得ず、私は翌日の予定を消化することにした。

 予定は、午前中に千葉に行ってミラノ展を見、午後渋谷に戻って、スコットランド国立美術館展を見ることだった。そして予定通り私は行動したのだが・・・・・・。

 まずミラノ展。私の気分のなせるわざなのだろうが、何の得るところもなし。レオナルド・ダ・ヴィンチのキリストと、レダの頭部を描いた、二点の小さな素描も、やっぱり持って来れるのはこの程度よねえと、虫食いの茶褐色に灼けた古文書に出会うのと同じ気分で通過する。名だたるブレラ美術館やスフォルツェスコ城市立美術館・博物館からの出展も数多いのだが、我々に、出展したことを誇り得るような作品は、私から見れば皆無である。つまり、ミラノ展は、ミラノの芸術の豊かさを殆ど伝えようと努めていない。馬鹿にしないでよッ!と言いたくなった。

 この煮え立つ腹を静めるには、冷たい蕎麦こそ最適かと、千葉の市立美術館へ来たときの定番である蕎麦屋に行って、私は笊とろを喫する。そして、とろろの粘りと腹立ちの活力で、渋谷へと向かう。

 渋谷のThe Bunkamuraミュージアムの、その美術館は地階にあった。切符売り場からして、まるで映画館の暗がりに入るような気分になる作りだった。

 フランスの馴染みの、コロー、ドーミエ、フランソワ・ミレー、ドガ、モネ、ルノワールといった画家たちの絵が出展されていたが、さっぱり心動かず、僅かにファンタン・ラトゥールの小さな花の絵に、何故か顔をよせたに過ぎない。そして、肝腎のイギリスの画家のものでは、ジョン・エヴァレット・ミレーの「優しき目は常に変わらず」と題した、一メートル丈位の、菫の籠を前に下げて立つ飾り気のない少女の像に、初めて魅せられた。素朴な田舎の滋味を一つの洗練された姿にすれば、かくなろうか。そう思わせる少女の麗しさだ。こちらを見ないで、自身の右手の空に視線を送っているこの少女に出会えて、やっと、腹の方に溜まっていた熱が、胸の方に上ってくるのが自分に分かる。この気持ちを失うまいと、その後、ヒュー・キャメロンという画家の「キンポウゲとヒナギク」という、その花を右手と左手に持って立つ女の子の像と、ロバート・ゲルム・ハッチンンという画家の、三人の少女が、海を望む上に敷いた白布の上に座して日差しを一杯に浴びながら苺を食べている「苺とクリーム」という明るい絵に、救いを見出そうとした。すると、自分の心の世知辛さが気になりだして、やれやれと吐息が出、また足が重くなる。

 それにしても、これ位実入りの乏しい美術展巡りというのも珍しい。つまり、それほど企画展の内容が貧しくなってきた、名ばかりのものになってきたということであろうか。別の言い方をすれば、外国から到来したものだからというだけでは、付いて行けない目の贅沢、目の奢りが、私などにも確実に美成されてきてしまっているということであろうか。最早、私のふくら脛は、侘しさの重みでぽんぽんに腫れていた。

 美術館を出た地下の、フロアに出された、カフェのテーブルの椅子に腰を下ろして、私はコーヒーを頼んだ。そのコーヒーが、どれほど足の重みを和らげてくれるのだろうかと、私はぼーんやり思っていた。弱い自然光が、遥かの上から私のテーブルの上に落ちている。

(二〇〇五、一二、五)

 

 

 

 

 

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