川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

オランダ特産、花の生物画

 これは、十一月に兵庫県立美術館で『オランダ絵画の黄金時代』と題して催された、アムステルダム国立美術館展を観たときの話である。

 私は所謂静物画というものに、仮令それが花瓶に溢れんばかりの美しい花の絵であったとしても、目を奪われて立ち止まることなどあまりこれまでになく、展覧会で幾らも目にすることがあっても、見向きもしないで通り過ぎると言っていいほど、つれなく無愛想な応対しかしてこなかった。無関心・無愛想な対応の裏には、絵画の中で、花の静物画は、私には、追求する主題を持たぬ場合の画家にとって、気慰みの役にも立ち気軽に商品化もできる、つまりは画家の二義的な作品世界なのだ思い込まれてきたということがある。

 ピカソなどは、キュビズムの運動を展開していた頃、随分静物を題材として取り上げているけれど、花瓶の盛り花をその対象としたものは見た記憶がない。ピカソの描写力によって、つぶさに描きあげられた花の静物画があったとしたらどんなにかーーと思いはするが、はて、たとえそれがピカソでも、展覧会場で彼の静物画に出会ったとしたら、やはり私はにべもない見方をしてしまうのではないか。ともあれ、二十世紀始め、ピカソが、ものを解体して描くキュビズムの、対象として扱った静物は、もっぱら楽器や花瓶などの道具であって、花などの植生の静物ではなかった。そのことは、ピカソの現実認識と表現志向を考える上で、定めし大事なことであろうが、今ここでその詮索をするのはよそう。

 そういえば、十九世紀の末ゴッホは向日葵を描き、セザンヌは林檎を描いた。その向日葵も林檎も、彼らの作品を代表する静物画として、それぞれの栄誉を今に伝えている。しかし同時代を生きたモネに、ゴッホやセザンヌのような、自らの証しとなるような花や果実の静物画はない。庭の睡蓮をあれほど描いたモネだが、それはあくまで自然ーーただしそれは、モネ自身が作った人工的な自然だがーーの風景画としての花である。

 近代化・都市化の大きな時代の動きの中で、印象派以後の絵画の中心は、その外光への洞察と傾倒に伴って、人々の暮らしの中の自然を描いた風景画=風俗画にその画題の中心を移していった。かつて、風景は人物画の背景としての位置より持っていなかったのに、今や風景は、人物を取り込んだ一つの文化的生活空間としての身近な環境に変貌したのである。そこに、田舎者であることを選択したゴッホやセザンヌと、都市化される風景に目を注いだモネやルノワールとの違いが生じていたように思われる。

 ところで、近代化と共に風景画が進めば、部屋の内部も、そういう外の風景を受け入れて風景化する。二十世紀のボナールやマチスになると、室内は窓の外の風景とすっかり溶け合うように描かれるようになり、風景画としての室内画が完成する。そしてその時、花の活けられた花瓶は、そうした室内の一点景として机上に置かれて描かれる。

 しかし、同じ室内を描いても、十七世紀のフェルメールの人物を取り込んだ室内画に、窓の外の風景が画面に取り込まれることはないし、その室内に花を盛った花瓶が置かれた作品は一点もない。フェルメールの時代、人間の現実生活を扱った室内面が、新しい絵画ジャンルとして登場するのだが、そしてジャンル・ペインティングと言えば、風俗画のことに外ならないのだが、それはさておき、その時代のオランダの風俗画家ヤン・ステーン、ピーテル・デ・ホーホ、ニコラス・マースといった画家たちの描いた室内に、花を盛った花瓶が描かれているのを、寡聞ならぬ寡識にして、私は一度も見たことがない。

 それは、十七世紀には、部屋の内部と外部は截然と識別されており、意識される外部を内部に齎すためには、外部を切り取って内に取り込まなければならなかったからだろう。その切り取られた外部の自然を内部に取り込んだ時、そこに新たに生まれたものこそが、オランダにあっては花の静物画ということになるのではないのか。

 何しろオランダは花の国である。オランダへのツアーでは、アムステルダムを訪れると、その郊外のアールスメイアの生花中央市場の見学が組まれ、私もおのぼりさんよろしくそこを訪れたことがあるが、さすが園芸大国、その規模の大きさ、圧倒的な花の種類やその量には舌を巻いたものだ。そういう花の栽培を産業にしてきた国ならば、そこに花の静物画が発達したとしても不思議はなかろう。そして、はて、『オランダ絵画の黄金時代』展である。

 ところで、実際、アムステルダムの国立美術館へ行ってみれば分かることだが、何よりもまず、レンブラントの「夜警」を始めとする人物群像の大作群に目を見張ることになり、次いでは、同じレンプラントやハルスの肖像画に見取れ、ファン・デル・ネールやライスダールのまさにオランダらしい風土の風景画やフェルメールなどの風俗画の面白さに目を奪われて、静物画に目をやる時間はまず生じにくい。

 しかし日本での展覧会ともなれば、美術館収蔵作品全体の簡約縮小版のようなものだから、美術館の目玉になるような人物群像の大作などはまず来ることがなく、その分、静物画のような領域の作品が、他の領域の作品同様、展覧会の主要作品の位置を占めやすくなるのは無理からぬことである。そしてこの展覧会に、静物画は八点、うち、花の静物画が四点出品されており、中の一点は一メートル近いもので、花の静物画にしては大きく、それだけ目に留まる確率は高くなる。しかも、絵の中の花を盛った花器が傾いて、水が零れ出しているとなれば、注意は一層引き付けられやすいというものだ。

 お陰で、例によって何げなく通り過ぎかかった私の足が、そのアブラハム・ミニョンの「傾いた花束」(一六六〇~七九頃)という花の絵に思わず引き留められてしまうことになったのである。

 私は、倒れかかった大きな花瓶の陰に、木造りのネズミ捕りに足を掛けて描かれた一匹の虎猫を発見する。猫は背を丸めてかっと口を開け、何かに飛びかからんばかりに描かれていて、どうやら花瓶はその猫のせいで倒れかかったようなのだが、その猫の目の先を辿ると、細長い花の茎に描かれた一匹の毛虫に気付かざるを得ない。普通なら目に付きにくいその虫が、小さいにもかかわらず箱以上に細密に描写されているのを知ると、自分のまなこは改めて画面の上を細心に這い回り始める。

 揚げ句、私は蝶・蜻蛉・蜘蛛・蝸牛などの虫を、何と十二匹まで数え出してしまったのだ。それは、まるでこの絵がそういう虫類の隠し絵として描かれたのではなかと思われ、そう思われて、途端、私は、その前に並んでいた三点の花の絵に慌てて視線を戻すことになる。そしてそのどれにも、花の影や葉裏などに小さな虫たちが丹念に描かれている実態を、知る羽目になった。

 そういえば、色鮮やかに咲き競う花の方もまた、どれも十数種描かれていて、花器に薔薇ばかり、菊ばかりといった花の絵ではない。つまり花器の花々は、それ自体が園芸植物図鑑になっているのだ。

 つまり、これは虫類と花卉の図鑑であり、その両者は切り離しえない関わりを持っていること、そしてそれは、人間の目からすれば、虫は美しい花の影の存在であるという関わりであることを語りかけているように思われる。私はそこに、紛れも無く博物学的関心の高まる時代の到来の予兆を伺うことができる。

 リンネ(一七〇七~一七七八)が、オランダへの留学の末『自然の体系』を著して植物の分類法を世に問うたのは、一七三五年のことだが、これらのオランダの絵は、そういう分類学的な成果を招く知的基盤を既に絵自体が持っていたことを物語っていそうである。

 絵が、やがて到来する科学的なものの見方に道を付けていたのである。

 帰宅してから、これまで見てきたオランダの美術展の図録を、私は改めて見直さざるを得なくなっていた。「栄光のオランダ絵画と日本」(一九九三年三月、神戸市立博物館)の三点、「ボイマンス美術館展」(一九九四年三月、大阪梅田大丸ミュージアム)の二点、ウイーン美術大学絵画館所蔵の「ルーベンスとその時代展」(二〇〇〇年四月、東京都美術館)の一点、「フェルメールとその時代」展(二〇〇〇年五月、大阪 市立美術館)の三点、「黄金期フランドル絵画の巨匠たち展」(二〇〇一年四月、伊勢丹美術館)の三点、ウイーン美術史美術館所蔵の「栄光のオランダ・フランドル絵画展」(二〇〇四年五月、東京都美術館)の三点、アムステルダム国立美術館所蔵の「レンブラント、フェルメールとその時代」展(二〇〇〇年四月、愛知県美術館)の五点、少なくも計二〇点の花の油彩画を見てきていたのである。そしてその二〇点の静物画の全てに、虫たちが花の群れの中に共生しているのが確かめられたのである。オランダの花の絵は、花卉園芸図鑑であり昆虫図鑑でもある博物学的美術作品だったのである。

 そして、こういうことに今更気付くのも、庭の草むしりなどが似合う老齢に、私が確実になってきていることの証しのように思われるのだ。

(二〇〇五、一一、二五)

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