川柳 緑
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えぼけまなこびじゅつてんみてあるき

画惚美術展回遊記

田舎の鄙び聖母子像

 「フィレンツェに挑戦した都市の物語」と断った「プラート美術の至宝展』というのが、損保ジャパン東郷青児美術館で催されると知った。今年、私は既に『ベルリンの至宝展』というのを見ていて、「至宝展」と呼ばれたその展覧会が、私に贈ってくれた素敵な悦楽を、今も筆中に温め持つ幸せのせいで、「プラート美術」への興味がかき立てられる。

 それにしても、プラートというフィレンツェに拮抗する都市が、一体何処にあったのだろう。無知を嘆ずるのみである。そういえば、この四月には、同じ東郷青児美術館で「南仏モンペリエファーブル美術館所蔵」と銘打っての『魅惑の7~9世紀フランス絵画展』というのを観ているのだが、このモンペリエにしても、私の耳には馴染みのない街だったし、美術館の「ファーブル」というのにも聞き覚えはなかった。無論、こういう美術展が開かれるについては、その美術品を収蔵している建造物の改修工事などの必要が生じ、その工事費を助けるためにも、当の美術館の収蔵品を貸し出して稼がなければならない台所事情があるのだろうが、そうした無名の地の美術展が立て続けに催されるとなると、東洋の他の国でこんな現象の成立などまず考え難いから、これは騙った日本人の人の良さに付け込まれての事ではないかと疑いたくなる。

 私自身が紛れもなくその甘さの典型的存在だが、付け込まれるほどに日本人の外つ国文化に対する傾倒心酔は深く、またそれを満たし得るほどのゆとりが、日本人の生活に出来上がってしまっているということであろうか。現に私は話を聞いて、忽ち食指を動かし始めている始末。

 モンペリエにしてもプラートにしても、私がそうした小さな町を訪う機会など、この先まずないであろうことを考えれば、「プラート美術」への私の興味は一層そそられる。

 早速私は展覧会の内容を、インターネットの美術館情報に探る。そして、検索画面に掲示されたフィリッポ・リッピの一点が、私の決心を固めた。

 フィリッポ・リッピ。その名は、忽ち二点の作品に結晶して私の脳裏に蘇る。蘇る二点共に「聖母子像」であり、彼の名前は、その二点の、聖母の初々しい顔立ちによって私に忘れられぬものになっている。二点はどちらもフィレンツェにあり、一点はウフィツィ美術館に、いま一点はビッティ宮のパラティーナ美術館にある。無論私がフィレンツェで実物によって増幅されこそすれ、損なわれはしなかった。

 ウフィツィの聖母子は、六〇×九〇センチ位の縦長の小品だが、嬰児イエスは天使に支えられて母マリアに手を延べ、マリアは座してイエスに向かって面伏せに合している図柄である。その面伏せのマリアの横顔は、例えばラファエロの聖母子像のふっくらと上品な面差しのマリアとは異なり、歴と漂うその幼さが私を引き付ける。もう一方のピッテイ宮のは、径一三〇センチぐらいの円型の作品で、背後にイエス誕生の場面が描かれている聖母子像だが、こちらの聖母はイエスを膝の上に乗せていて、その眼差しはイエスには注がれないで下方に放たれている。その顔は前者より一層幼なげな面差しであり、母というより、まるで子守女といったあどけなさで、いっそその表情の素朴さが嬉しくなる。

 そんな聖母の顔を描いたリッピの絵が、行くこと適わぬ遥かなイタリアのプラートから、わざわざ東京まで来てくれているのだ。これを何ぞ、行かざるべけんや、逢わざるべけんや。私は、十月のある日東京へ出掛けた。

 出掛けた東郷青児美術館の会場は、「ファーブル美術館展」の時とは、これが同じ会場かと疑わせるほど趣を異にしていた。プラートの美術という遠く瀕った時間と空間が、ある暗い臭いとなって会場をすっぽり覆い、それが、胎内潜りをするような感覚を私に齎す。その胎内潜り感覚の中で、私は、出会ったのは、画集で知ってから遥かに後のことだが、私が情報検索で知った「身につけた聖帯を使徒トマスに授ける聖持っていたフィリッポ・リッピの聖母像への好感は、実物に母および聖グレゴリウス、聖女マルゲリータ、聖アウグスティヌス、トビアスと天使」と、長々題された、フィリッポ・「リッピの大作の前に立つことになった。何と畳二畳分は優にあろうか、テンペラの色鮮やかに保たれている魁作なのだ。

 画面中央上部には、二人の天使に支えられた椅子に掛けた聖母が描かれ、手にした聖帯ーーこの聖帯こそがプラートの街の象徴であるそうなーーを、手を差し伸べて画面中央下の地面に跪く使徒トマス――それは、ラ・トゥールの、頭頂まではげ上がった「聖トマス」の老人像とは雲泥の、まるで少生の場面が描かれている聖母子像だが、こちらの聖母はイエ年のような若者像である――に授けようとしており、その聖母の左側には聖グレゴリウス、右側には白骨のアウグスティヌスの二老人が宝玉絢爛たる冠を被った堂々のいで立ちで立ち、更にその外側左隅には聖女マルゲリータ、右隅には女性のような面差しの聖トビアスとその前の小柄な天使ラファエル――何故か羽を持っていないが、いずれも立像で描かれている。そして、聖女マルゲリータの前、聖トマスの後に、彼と同じように跪いて、聖母に合掌する尼僧が小さめに描かれているのだが、どうやらそれはこの絵の発注者である修道院長―この絵はサンタ・マルゲリータ修道院の祭壇画だったというーであるらしい。

 しかしこの人物群像を目にした一瞬、私を虜にしたものは、背景としての空と地面の持つ暗さだった。草花が茶色っぽく描かれた黒い絨毯のような大地と、黒い木立の上に広がる夜明け前のまだほの暗い雲の棚引く藍色の空。それが、冠や衣装の精緻な描写によって、情景の宗教性を紡いでいる人物群像の重さを動かぬものにしている、と私には見えた。ある意味で、色鮮やかにきらびやかでさえある人物や天使が、明けやらぬ大地と空との暗さに飲まれてしまっている面白さがそこにあった。  それは、その時同時に、ルネッサンス絵画の典型的傑作のように我々を毒してしまっている、ボッティチェルリの「プリマヴェーラ」の人物群像とその大地と空との兼ね合いを私に思い出させていた。あれが、メディチ家によって、フィレンツェに花開いた、まさにルネッサンスの爛漫の春の証しだとするならば、これは、フィレンツェ郊外のプラートという黎明未だ至らぬ片田舎の、鄙びた暗さ=薄明そのものの証しのように思われる。

 そしてこの思いが、胎内潜りの私に、遠い日の田舎の畦道を歩いているような感覚を齎し、齎されたその感覚のお族で、私は更なる出会いを体感することになる。

 出会いは、いずれも人体表現に硬さの目立つ、それだけ椎拙な数点の聖母子像やピエタの像を微笑ましく辿った後、一つの展示壁面を右に回った、その右壁に掛かったー点に差しかかって起こった。立体的に浮き上がった、頬に紅をさして、あどけなく一寸悲しげな表情の、こちらに俯き加減になった娘の眼差しが、私の目を捉え私に息を呑ませたのである。私はその彩色されたテラコッタ像に釘付けになり、魂を抜かれたようにキョトンとしてしまった。

 幼顔の娘は、その膝の上に赤いネックレスを首に下げて立っ、ふっくら愛らしい裸の赤児の肩を抱き寄せ、赤児もまた娘の首に右手を回し、娘に縋るような姿で正面を向いて、この像の前に立つ者に無心な目を注ぎかけている。その煩も紅く染まり、おチンコも愛らしく紅い。

 それは、言わずと知れた聖母子像だが、かほどに無垢無邪気としか言いようのない純な「聖母子」の、それも立体的な色鮮やかなテラコッタ像に、私は出会ったことがない。七〇×五〇センチ位のこの造作には、ベネデット・ダ・マイアーノ工房の作と案内が見られるが、私には、無名の田舎の職人達が残した、いつ見返してもその鄙びて幼い優しさに心和む、まるで素敵な土産物のような親しさを感じさせる逸品である。私の記憶にあるフィリッポ・リッピの聖母子よりも、また一段と素朴で無名の、それだけ何の権威振りもかざさぬ親しさを物語っていた。

 ああ、何という可憐。|||私の体全体が幸せな安らぎにすっぽり覆われる。

 そして、それに続いて、立体的なテラコッタの聖母子像がなお数点並ぶのだが、いずれの聖母も母親らしい大人っぽさがあって、もうその上の感激を樹す作品はなかった。ただ、それが、この展覧会の胎内潜り感を決定づける最大の特徴だった訳だが、大きいのは畳一枚半程のものから五〇センチ四方の小さい物まで、何点もの聖母子像が飾られ、そのお陰で、幸せな安らぎに包まれたまま、胎内潜りの薄暗がりから、明るい売店の前に蘇生したのである。

 私は、無名の聖母子像がイタリアの田舎町プラートでその小さな命をひっそり持ち続けることを思い遣り続けながら、人通り賑やかな新宿駅への日差しの道を辿った。

 

(二〇〇五、一口、二三)

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